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 チンギス・ハンがモンゴル帝国を樹立する四半世紀程前、肌の色と髪の色の異なる部族が牧草と家畜と婦女を巡って小競り合いを繰り返していた頃。  忽蘭(クラン)は蒙古高原の北部に拠点を置くメルキト部族長ダイル・ウスンの娘として生を()けた。西暦千百年代も末の事である。  赤子の頃より、乳母のアマラ以外の者に抱かれると、火がついたように泣く気難しい子供だった。  十の(よわい)を数える頃になってもアマラ以外の者に決して気を許さぬ強情な忽蘭に両親はほとほと困っていたが、当の本人は何処吹く風。その日も、自らの(パオ)(モンゴルのテント式住居)の外に置いた朱塗りの椅子に腰掛け、アマラに髪を梳かせていた。  蒼穹(そうきゅう)の下、柔らかい風が遥か彼方まで続く蒼色(そうしょく)の大地を揺らす。その都度に香る草と土の匂いが、嗅ぐものに初夏の訪れを感じさせた。 「アマラ、何か物語など致せ」 「畏まりました、忽蘭様」  時折聞こえる馬の嘶き、鷹の声。遠くには草を食む羊の群。その更に向こう、ブルカン岳を始めとするヘンティー山脈の連なり。  そんな日常の中、アマラの脳裏を(よぎ)ったのはモンゴル部族が長、鉄木真(テムジン)(チンギス・ハンの本名)に寄り添う妃のボルテだった。アマラにとって、並々ならぬ思い入れのある女性。  懐かしさと多分の尊敬を込め、アマラは言葉を紡いだ。 「鉄木真様のお妃様、ボルテ様は私の乳姉妹でございまして。幼少の頃よりお仕えしておりました。勿論、お輿入れの時も侍らせて頂きましたの」  忽蘭が軽く頷く。その髪を梳きながら、アマラは続けた。 「ボルテ様は本当にお美しい方で。御坐(おわしま)すと牡丹の花が咲いたかのように、その場が華やかになるのでございます」  漆黒の如く艷やかなボルテの髪に想いを馳せるアマラに、忽蘭が不機嫌そうな声を上げた。 「アマラは私よりボルテが好きなのか」  まなじりを決し、口を尖らせる(いとけな)い女主人に思わず笑みがこぼれる。未だ会った事も無いボルテに嫉妬したのか。アマラは忽蘭の豊かな金髪をそっと撫でた。 「私は忽蘭様もボルテ様も同じようにお慕い申し上げておりましてよ、忽蘭様。  忽蘭様の雪のように白い肌も、瑠璃のように麗しい(まなこ)も、蜘蛛の糸のように繊細な髪も。見るものを惹きつけて止みません。気性もそれに違わず気高く美しくあられます。  アマラは忽蘭様の御成長が楽しみでございますわ。ずっとお側に居させて下さいまし」  その言葉に機嫌を直したらしい忽蘭はアマラの裾を引き、甘えるような口調で強請る。 「続きを話せ」 「畏まりました」  この愛らしい女主人の強請りごとを断れる者など、蒙古高原広しと言えども、一人も居らぬだろう。そんな事を思いながら、アマラは再び話し始めた。  ボルテがアマラや他の男女を伴い、ブルカン岳の麓にある鉄木真の幕営に輿入れしてきたのは、忽蘭が生まれる少し前。小部族が互いに睨みを利かせ合っていた頃の事だった。  幕営は小さく貧しかったが、主たる臣下は皆若く、覇気に満ちていた。ボルテやアマラも幕営の為、日々懸命に働いた。  所がそんな努力は、いとも簡単に気泡に帰される。メルキト部族の襲撃である。  実は鉄木真の父はメルキト部族から略奪する事で妃を得た。それを恨みに思うメルキトの男達は、鉄木真がボルテを得た途端、報復として拐ったのだ。一緒にいたアマラも同様。ボルテとアマラは手と足に枷を嵌められ、メルキトの集落へと運ばれた。  数日の監禁の(のち)、アマラはボルテと引き離され、ある男の妻となるよう強要された。  そこまで話すと、忽蘭の(まろ)い目が更に丸くなる。 「アマラ、あろう事か敵の男と婚姻するとは。口惜しくはないのか」  その言葉にアマラは薄く笑った。 「忽蘭様。敵と申しましても、今は私の主人であり、忽蘭様のお父様の臣下でございます。  そもそも、女にとって部族など、何の意味も為さぬ物。女は自らを所有する男に縋って生きるしかないのです。そして、男の精を受け、子を成す。  女に出来ることがあるとすれば、美しく着飾り、臥所で男を夢中にさせる、それだけにてございます」  すると忽蘭は激しい目でアマラを睨めつけた。 「私は嫌だ。意に染まぬ男のものになるなど。そのような目に遭うくらいなら、私は自らの舌を噛み、絶命するであろう」  月の物もまだない女主人の剣幕に、アマラは気圧され言葉を失った。  意に染まぬなどと。そもそも、女に意などあるのか。勿論、アマラにも意思はある。但しそれは、自分を所有する男が居て、確固たる地位を確立した時のみ、男を介して通せるもの。そのように思っていた。  所が、この稚い女主人は。男になど頼らず、自ら身上を立てようとしているのだ。なんたる痛快。そして数年もしたら、本当にそれをやってのけるのかも知れない。 「くっくっ」  思わず笑い声を漏らすと、忽蘭が不可解な顔をしてアマラを見上げた。 「何を笑っておるのだ、アマラ」 「いえ。忽蘭様なら必ずや、そのようになさると思ったのです」  そう言うと、忽蘭は当然だとばかりに胸を反った。 「無論だ。私は私の意志で生きる」 「頼もしい限りでございます」  その言葉に満足したらしい忽蘭は鼻を鳴らしながら頷くと、尊大な態度のままにアマラを見上げた。 「梳くのはもう良い。結ってくれ」 「畏まりました」  大人の男の真似をする小さな女主人がアマラには堪らなく愛おしい。先ほどの羊の群はもう見えなくなっていた。  アマラは忽蘭の豊かな金髪を束に取り、丁寧に編み込みを作っていった。
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