1/2
26人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ

 幾ばくの時が流れたのか。布団の外からアマラの声がした。 「忽蘭様、あと一刻も過ぎれば鉄木真様がお越しになります。そろそろお支度を致しましょう」  あの匹夫(ひっぷ)に身体を差し出す為ではない。対峙する為だ。そう自分に言い聞かせ、忽蘭は布団から抜け出し、寝台に腰掛けた。  安堵の表情を浮かべるアマラを横目に溜息を吐くと、アマラの少し荒れた温かい手が忽蘭の手を包む。 「今宵、忽蘭様が操を立てようとされているお方は今後、間違いなく、この蒙古高原の覇者となりましょう。安心して御身をお委ね下さい」  そう言って、忽蘭の服を脱がせ、ガウンのような紅い着物を着せようとしたが、忽蘭は断固拒否し、先程まで着ていた萌木色の上着を被った。  まだ諦め切れぬ顔のアマラに、鉄木真の器の小ささを訴え、指一本触れさせぬと断言すると、アマラは可笑しそうに「ほほほ」と笑った。  そして困惑の表情を浮かべる忽蘭に、年増の訳知り顔で頷いた。 「器が小さいなどと。恐らく常軌を逸するくらいにナヤア様に嫉妬なさったのですわ。それ程、忽蘭様にご執心なのです。可愛らしいではございませぬか。  直ぐに鉄木真様が御座(おわ)します。ご準備下さいませ」  そのまま音も立てずに出て行く。それと入れ替わるように、鉄木真が入って来た。後ろに馬乳酒を持つ侍女も続いたが、直ぐに下がってしまった。  鉄木真は忽蘭の服を不満そうに一瞥したが、何も言わなかった。そして寝台の下に胡坐をかいて座ると、銀の杯を持ち、「注げ」と命じてくる。冗談ではない。無言のまま、ちらりと一瞥してやった。  そんな忽蘭を咎めるでもなく、鉄木真は自ら杯を満たし、飲み始めた。数杯飲んだ後、今度はなみなみと馬乳酒の入った杯を忽蘭に押し付け、「飲め」と言う。  その主人然とした態度が癇に障り、忽蘭は杯を叩き落とした。白濁した酒が飛び散り、鉄木真の上着を濡らす。 「私に触れるな。舌を噛み切るぞ」  脅しではなかった。鉄木真が少しでも触れてきたら絶命する覚悟だった。そんな切迫した空気の中、鉄木真が心底、分からないといった口振りで呟いた。 「何故、予を拒む。汝は今日より予の妃となった。拒む理由が無かろう」  その言葉に忽蘭の怒りが爆発した。 「妃だと。心にもない事を申すな。先ほど其方は私を側女と申した。私は側女になどなる積もりはないし、況してや私を軽んじる男の妃になる積もりもない」  淑女とは思えぬ忽蘭の物言いに、一瞬憤怒の表情を浮かべた鉄木真だったが、突然立ち上がると、押し黙ったまま包を出ていった。  鉄木真が出ていった後も暫くの間、忽蘭は入り口を睨みつけていた。もし、鉄木真が殺意を持って引き返して来るならば、刺し違える覚悟だった。  しかし、鉄木真は戻って来なかった。  次の朝、アマラが食事を運んできた。食欲は無かったが、今後も鉄木真と対峙するのであれば、体力を付けねばならない。黙って全てを平らげた。アマラも何も言わず、下がった。  そして、その晩も鉄木真はやって来た。身構える忽蘭を気にする風でもなく、昨晩と同じように寝台の下に胡座をかくと、黙って馬乳酒を飲み始めた。そして何をするでもなく、明け方まで飲み続けた後、包を出て行った。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!