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 そんな夜が半月も続いただろうか。黙って馬乳酒を飲み続ける鉄木真と過ごす内、忽蘭は少しずつ鉄木真に親しみを感じるようになっていた。鬢に白い物が混じる権力者の愚直なまでの誠意に絆されたのかも知れない。  その日も鉄木真はただひたすら飲んでいた。よくもまあ、飽きもせずに飲み続けられるものだ。半ば呆れつつも忽蘭は尋ねた。 「何故(なにゆえ)そのように酒ばかり飲む」 「所在ないからだ」  唐突に口を開いた忽蘭を気にする風もない。忽蘭も気安くなって更に訊いた。 「其方に妃は何人居る」  そう言った次の瞬間、グイッと引き寄せられ、忽蘭は鉄木真の腕の中に居た。 「な、何を」  声を上げたのと同時、荒々しい足音と共に数人の男が乱入してきて、包の真ん中に置いてあったバター蝋燭の燭台が倒された。  飛び散る蝋燭の脂に次々と拡がる炎、息苦しい程の熱と煙、布や羊糞(アルガル)の燃える臭気。包の中は瞬く間に戦場へと変わった。慄く忽蘭に鉄木真が一言。 「落ち着け。予から離れるな」  縋るようにしがみつくと、更に抱き寄せられた。力強い腕と乱れぬ心音に安堵する。  忽蘭を抱いたまま、鉄木真は賊を睨めつけた。そして、聞く者を震撼させるような怒号を響かせた。 「予を鉄木真と知っての蛮行か」  賊は黙ったまま。炎の中、対峙する。四人。一様に黒い布で顔を覆っている。  怒号に怯む様子は無く、ジリジリと間合いを詰めて来る。枷になっている自分を恨めしく思いつつ、忽蘭も賊を睨みつけた。  次の瞬間、賊の一人が鉄木真に斬り掛かってきた。忽蘭を庇いつつ、鉄木真が賊の脛を蹴り上げる。  骨の軋む音と共に賊が呻き声を上げた。その一瞬の隙を突き、鉄木真が賊の手首を捩じ上げ、太刀を奪う。そして瞬く間に残った賊を叩き切って行く。刹那、それはまるで舞を舞っているかのような優美さだった。  最後の一人を片付けると、鉄木真は忽蘭を横抱きにし、燃え盛る包を出た。駆けつけた幕僚に言い渡す。 「男は全員で火消しに当たれ。そして直ぐ様、賊の身元を調べよ。恐らく……内通者であろう。女には予の包に臥所と酒を用意させよ」  そして忽蘭を抱えたまま、自らの包へと向かおうとする。 「待て。私を抱いたまま行く積もりか」  慌てる忽蘭に、鉄木真は「如何にも」と素知らぬ顔。助けられた手前、言い返す事も出来ない。ただ、嫌ではなかった。  包は既に整えられていた。鉄木真は忽蘭を寝台に下ろし、自らは床に座った。そして、何事も無かったかのように、侍女が持ってきた酒を飲み始めた。 「先程は命拾いをした。礼を言う」  改まった調子で忽蘭が言うと、鉄木真は豪快に笑い出した。礼を言ったにも関わらず笑われ、憮然としていると、鉄木真はまだ笑い足りぬとでもいうような顔をした。 「美しい顔をして、男のような物言いだな。汝は予の妃。故に助けた。それだけだ」  そう言われると、何も言えない。代わりに先程、訊きそびれた事を問うてみる。 「其方に妃は何人居る」  鉄木真は目を眇めた。 「既に居るのは三人。汝で四人目だ。  但し、陣営には連れて来れぬ故、ここには居らぬ。代わりに側女を置いている。汝も他の妃同様、安寧に暮らすが良い。数年に一度は会いに行くだろう」  三人の妃、数多(あまた)の側女。そんな女達に(かしず)かれ、自分に会いに来るのは数年に一度。それを延々待ち続ける。そんな状況を想像して、忽蘭は気が狂いそうになった。そして気が付いた。自分はこの男を愛し始めているのだと。忽蘭は更に訊いた。 「側女は何人居る」 「七人だ」  その者達は近い将来、必ずや邪魔になってくる。駆逐するなら今だ。忽蘭は声に出さずに数を十まで数え、呼吸の乱れを整えた。そして、一気に言った。 「今居る側女、全ての首を刎ねよ。今後一切の側女を認めぬ。代わりに陣営には常に私を帯同せよ。そして精の全てを私に注げ。そうすれば、私は私が持ち得る全ての情愛を其方に注ぐであろう。  其方にその気がないのなら、私は今すぐ此処で舌を噛む」  忽蘭の決死の告白を前に、鉄木真は一瞬、怪訝な顔をした。そして破顔した。まるで少年のような邪気のない顔で見つめられ、忽蘭は生まれて初めて感じる心の昂りを持て余していた。鉄木真は手を伸ばして忽蘭を抱き竦め、心底嬉しそうに言った。 「汝の申すまま、明日の朝、側女は全て処刑しよう。そして今後、陣営では汝以外の女に精を与えぬ。  ここに誓う。予は今宵交わした汝との約束を決して違えぬと。汝も誓え。  所で……汝はモンゴルに伝わる伝説を知っているか?」  忽蘭が首を横に振ると、鉄木真は忽蘭をゲルの外へと誘った。訝しく思いながらも鉄木真に続くと、丁度、朝日が地平線より(いず)るところだった。  神々しいまでの光が蒼色(そうしょく)の原を金色(こんじき)に染めている。  忽蘭は隣に立つ愛しい男をじっと見据えた。男も忽蘭を見た。そして重々しい口調で言った。 「上天より(みこと)ありて生まれたる蒼き狼ありき。その妻なる惨白(なまじろ)牝鹿(めじか)ありき。  今のは、我らが部族の始祖の物語の冒頭だ。モンゴル部族は皆、蒼き狼と惨白き牝鹿の血が流れている。否、我らは蒼き狼そのものなのだ。  汝、予と共に蒼色の原を駆ける惨白き牝鹿となれ。そして、蒼き狼の子を産み続けよ」  忽蘭には分かった。これは男の口を通じて下された神託だと。自分は今ここに、惨白き牝鹿として生まれ変わった。そう告げられたのだ。  震える程の感動を胸に、忽蘭は頷いた。そして決意を持って答えた。 「諾」と。 【了】 911ef15c-0579-4c35-9510-fcf73931e474
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