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第2章 感情
彼の目が覚めると、そこは病室だった。全身が痛み、少し体を動かすだけで突き刺すような衝撃が走る。
「お目覚めですね。おはようございます。」
小太りで眼鏡の、いかにも医者らしい男性が挨拶をしに来た。
「私、医師の石神と申します。上川さん、調子はどうですか。」
石神と名乗る医師は、丁寧な口調で尋ねる。
「体が痛いです。記憶もあまりありません。僕の身に何があったのか教えてください。」
彼、上川智也は腹部に走る電流のような何かに堪えながら聞いた。
「あなたは2日ほど前に車に轢かれたのです。信号無視をして暴走したトラックに。当たりどころもかなり悪く、医師としてこういうことを言ってはいけないと思いますが、正直助からないと思ってました。」
石神は椅子に座り、指先を組み合わせ、膝に肘をつき、うつむきながら話し出した。上川は少しずつあの日のことを思い出していた。
「もちろん、我々も最善を尽くしたつもりです。ですが、あまりにもひどい状態だったので、万が一助かっても後遺症が残る可能性もありました。」
石神は目に少し涙を浮かべている。
「そう思っていました。ですが、あなたは今生きています。少し思い出せないこともあると思いますが、今後の生活に影響がない程度でしょう。」
石神の涙の解説に、上川はただ目を丸くするしかなかった。
「私がこの病院で勤めてから、いや、私が医師として働きはじめてから、何人もの命を救ってきました。もちろん、救えなかった命もありました。ですが、救えなかったと思った命が救われたことは初めてです。初めて、奇跡を目の当たりにしました。上川さん、生きててくれてありがとう。」
石神は声を震わせながら濡れた顔で感謝をした。上川は何も言えなかった。
「すいません、思わず感情的になってしまいました。少し質問があるのですが、答えてもらっても構いませんか。」
「大丈夫です。」
上川には分からなかった。なぜ、この目の前にいる男が、他人のために泣けるのか。自分が生きていることに感謝をしているのか。
「事故前後の記憶に関してなのですが、事故に遭うまでのことは覚えていますか。」
石神は聞く。
「はい、先ほど説明されて、少しずつ思い出してきました。あの日は、大学の友人とN町の通りでお酒を飲んでました。深夜1時頃に店を出て、帰路についたときに、ヘッドライトの光に包まれたのは覚えています。そこから先は痛みの記憶しか...。」
上川はふと思い出した。自分が死にかけていたときのことを。そのときに声をかけられたことを。誰かに。
「選ぶがよい。どちらを捨てるか。」
「上川さん。」
石神に呼ばれ、上川ははっとした。
「正直、驚いています。しっかりと記憶もありましたね。あとはしばらくの間安静にして、体を再び動かせるようになれば、今まで通りの生活を送れると思います。」
「あの、すいません。」
「はい、どうしました。」
上川にはどうしても聞きたいことがあった。
「事故に遭って、意識が薄れていくときに声がしたんです。若い男の声でした。はっきりと覚えていないんですけれど、そのような人はいましたか。」
「若い男の声ですか...心当たりはないですね。きっと、死ぬ間際の走馬灯のようなものじゃないでしょうか。」
上川の疑問はあっさりと石神に一蹴されてしまった。
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