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異世界への転移
それは、本当に偶然で。ある意味では、必然とも言える瞬間。
暗い暗い、石造りの部屋の中、足元に描かれた円形の魔法陣が、淡く輝き始める。自分は、こことは違う世界で死に、生まれ変わって、今この世界で生きているのだと聞かされてはいたけれど。
まさか、前世の自分が生きていた世界に行くことが出来る、なんて。
「……そんなに嬉しいか? ブルミュエナ。元の世界に行くのが」
隣に立っていた、紫がかった黒い髪の青年がそう問い掛けてくる。肩まで伸びた髪は滑らかに耳にかかり、その耳朶に付けられた藍色の丸いピアスがきらりと光った。年の頃は二十代の半ばくらいだろうか。すっと通った鼻筋と切れ長の二重瞼の合間から、真っ黒な目がじっとこちらを見ている。涼やかな面差の美青年、という表現がこれ程に似合う人間もそういないだろう。ワインレッドのシャツとスラックスというラフな姿にも関わらず、一目見て高貴な人間なのだろうと誰もが思う、そんな青年。
青年からブルミュエナと呼ばれた少女は、嬉しそうに笑ってこくりと頷いた。毛先だけが青く染まる、変わった色合いの腰まで伸びた髪がふわりと揺れる。団栗のような大きな藍色の瞳は、喜びからかきらきらと輝いており、愛らしい顔立ちは希望に満ちた笑みを彩っていた。年の頃は二十代前半ほど。濃い藍色の服に、薄い水色の上着を羽織り、白く長いスカートをはいている彼女は、どこか清楚な令嬢のように見えた。
「嬉しいですよー。だって、行ったことのない世界ですもん。ほら、私、前世の記憶とか全くないですし。サイくんみたいにいろんな世界に行ったことあるわけでもないですし。とっても楽しみなんですー!」
にこにこと笑うブルミュエナに、サイくんと呼ばれた青年、サイラルは、つられたようにくつりと笑った。「それは良かった」と呟きながら。
「だがあくまで仕事で向かうということを忘れるな。……あいつを見つけ次第、始末しなければならないのだから」
途端、サイラルの黒い瞳に剣呑な光が宿る。あまりに冷たい光に、ブルミュエナは自らの背にぞくりと寒気が走るのを感じた。普段は優しいこの青年の、本当の強さを知っているから、尚のこと恐ろしかった。
「……とはいえ、そう簡単に見つかるとも思ってはいない。向こうの仕事を手伝いつつ、気長に捜すしかないだろう。足手纏いにならないようにな」
一瞬のうちに元の優しい笑みを浮かべたサイラルに、ブルミュエナはきょとんとその顔を見つめて。ほっと笑みを浮かべて、「はいっ!」と元気良く答えた。
石造りの部屋は、その天井がなく、空がぽっかりと切り取られていて。すでに闇に包まれていたそこには、これ以上ないほどに大きく膨れた月が納まっていた。
そんな空を見上げて、「そろそろ時間だな」とサイラルは言い、その場に膝をつく。魔法陣の中に描かれた四つの頂点にそれぞれ触れていき、最後にその中心に手を伸ばして。
ばんっと、音を立てて、部屋の扉が開かれた。
「サイラル殿、まずい! 貴殿の兄上が来た!」
現れたのは、濃い灰色の髪に血のような赤い目を持つ一人の少女。フード付きの黒いトレーナーに灰色のトラウザーズを着た彼女は、黄色の縁の紫色のサングラスを額へと押しやりながら、どこか慌てた様子でサイラルを呼んでいて。けれど魔法陣はすでに異世界転移の準備が出来たらしく、先ほどよりも尚煌々と輝いていて。
すっと、サイラルは魔法陣を、出た。
「っ!? サイく……」
「ブルミュエナ、貴方は先に行っていろ」
「なっ!?」
突然の事に、ブルミュエナは言葉を失う。異世界への転移は初めてだというのに、一人で行けと彼は言うのだから当然のこと。
けれどサイラルは気にすることなく話を続けた。
「今を逃せば、次に世界を渡れるのは二月後。私がそちらに行くまでに、手掛かりくらいは見つけておいてくれると嬉しい」
「で、でも、サイくん。お兄さんって、あの……」
「大丈夫だ」
言い募るブルミュエナに、サイラルはそう言って笑う。「いくら兄上とて、殺されはしないさ」と呟きながら。
「向こうにラヴィンユという馬鹿犬がいるはずだ。私や貴方と同じくこの世界の者で、そこにいるピオルネアの兄だ。連絡はしているから、私の名を出せば色々と教えてくれるだろう」
彼はそう言うと、その手を伸ばしてきて。
ぽすりと、ブルミュエナの頭を撫でた。
「期待している」
ふっと笑みを浮かべて告げられたその一言。初めて行くというのに、一人で放りだされるのかとか、どうなるか分からないから怖いじゃないかとか、色々と頭の中を巡っていた言葉は一瞬にして消えてしまって。
気付けばにっこりと笑って、「はいっ!」と応えていた。
この世界に生まれ、今日までずっと、サイラルには世話になって来たのだ。頼られた時くらい、期待に応えられなくてどうする。そう思ったから。
「頑張って捜しておきます! ですから、あの、……出来るだけ早く、来て下さいね」
魔法陣の輝きが只管に強くなり、その輪郭が消えようとしている中、ブルミュエナは最後にそう、小さく呟いた。ほんの少しの、願い。心細いというのももちろんあるのだけれど、それよりも。
どうせなら、共に行きたかったから。
サイラルが驚いたように目を見開くのを最後に、ブルミュエナは眩しすぎる光に目を閉じて。
「……もちろんだ」
そんな声を聞きながら、ブルミュエナの意識はゆっくりと途切れていった。
輝きは目に痛いほどに強くなり、一瞬にして掻き消える。ほんの少し前までそこにいたはずの少女の姿は跡形もなく消え去り、サイラルはしばしその場で、先ほどまであった輪郭を辿るように視線を向けて。
くるりと、向き直った。自らを呼ぶ、ピオルネアという名の少女の方へ。
「……いっそのこと、一緒に消えちゃってた方が無難だったかもねぇ」
ピオルネアはその赤い瞳を細めて嗤う。灰色の髪の間からぴょこりと揺れたのは、人間の物とは全く違う、先の丸い獣の耳。ぺろりと口の端を舐める様は、どこか獰猛な肉食獣を思わせた。
そんな明らかに人ではない少女の言葉に、サイラルはくつりと笑う。「そんなことをすれば、ついてくるからな」と言いながら。
「私は少し、兄上を引きつれてこの世界を散歩して来よう。二ヶ月後までに、完全に撒いてしまわないとな」
ブルミュエナに会うためにも。
ぼそりと呟いた言葉は誰の耳にも届くことなく、ただサイラルは歩き出した。石造りの部屋を出れば、そこは鬱蒼とした森の中。息が詰まるほどに濃い木々の香りに眉を顰める彼の背後で、ばさりと音が響く。いつの間にやら、サイラルの背中から生え出した、真っ黒の一対の翼。人間よりも長く尖った耳に髪をかけ直し、サイラルは翼を羽ばたかせて空に舞い上がる。
堕天使。そう、彼は呼ばれていた。
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