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序章 坂の上の風景
なだらかな坂の上から見える風景は今も昔も変わらない。茶色や黒や赤や、いろんな色の小さな屋根がまるでパッチワークのようにどこまでも続いて見える。
住所は東京でも、ここは洗練された都会の雰囲気からは程遠い、郊外ののどかな住宅地。
顔を上げれば、霞がかった山並みの向こうに、富士山のてっぺんだけがうっすらと顔を出している。だからこの坂の名前は富士見坂。
でも富士山なんて隣町からでも、なんなら東京都内のどこからでも見えるような山だ。それをどうしてこの坂道の名前に選んだのかはよく分からない。これでは他の場所との区別にならないのに。
それでも、この富士見坂の上から見る富士山はやっぱり綺麗だと葵も思う。普段、俯く事が当たり前になっている身としては、自然と顔を上げることになる数少ないポイントの一つだ。
この道をもう何年も歩いている。
多分、自分はこのまま一生、遠くにそびえる美しい富士山をこの坂の上から眺めて終わるのだと思う。
そういう生き方しかできない自分の不甲斐なさを噛みしめながら、今日もまた坂を下って仕事へ向かう。
道の脇に植えられた桜並木はつい先日まで綺麗な淡い薄桃色の花を咲かせていたが、今はもう立派な葉桜になっていた。地球温暖化の影響なのか、開花の時期は年々早まり、それに伴って花が散る時期も前倒しになっているようだ。
「あれから14年かぁ……」
花が散ると思い出すなんて、あまりにおあつらえ向きな、情けない話ではあるが、それでも初恋の彼と出会った季節は、ちょうど葉桜の新芽が出始めた頃だったのだ。
その柔らかく生命力に溢れた翡翠色の若葉のようだった当時の葵は、全力で恋をして、そしてその全てを失った。
甘さとそれ以上の苦しみで塗り固められた思い出がこみあげ、そっと目を閉じる。
ここに至るまでの長すぎる年月は胸の痛みを麻痺させるのに十分なものだったが、それでも葵の心がいまだ出口の見えない闇の中にいることには変わりがない。
いや、これだけ長い時間をかけてもまだ吹っ切れていないのだから、出口をみつけ、この闇から抜け出す日なんて永遠にやってこないのだと思う。
―――先輩がやりたいことをやりましょうよ。先輩だって、日に向かって咲いていいんですから。
「……あっちゃんの嘘つき」
いじけた声で呟いた葵は、唇を尖らせて俯いた。そして胸の奥にわだかまる想いを足元の小石と共に蹴り飛ばそうとしたのだが、途中で足を止める。万一にでも、誰かに当たったら大変だ。
「はぁ……ダメだなぁ、私」
日に向かって咲くどころか、この調子だと道端の小石以下の存在なんじゃないだろうか。
小さなため息を漏らすと、葵は再びゆっくりとした足取りで駅まで続く坂道を下り始めたのだった。
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