1章 動き出す時間

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1章 動き出す時間

 葵は今、しらなみ薬局の松葉丘店で働いている。  しらなみ薬局は都内をはじめ、関東近郊に60店舗ほどを展開する中堅のチェーン薬局だ。その中でも松葉丘店は総合病院の前にあるだけに処方箋の応需枚数も多い、比較的忙しい店舗である。  期せずして高校へ通っていた頃と同じルートで通勤している葵は、松葉丘駅を降りると高校や商店街の方向ではなく、線路沿いに10分ほど歩いた。  やがて見えてくるのは8階建ての大きな病院。名前はそのまんまだが、松葉丘総合病院という。  3年前までボロボロの建物だったものをリニューアルしているから、建物はとても綺麗で立派だ。一番上の7階と8階部分には介護施設も入っており、万一の時にも医師が対応してくれると人気を集めていた。葵もこの施設の利用者さんへ薬の配達に行った際、自分の老後の参考に、と入所案内のパンフレットを本気で読んでみたことがある。  しらなみ薬局は病院の正面玄関のすぐ目の前に店を構えている。他にも同じ調子で四軒ばかりの調剤薬局が並んでいて、まるで雨後の筍状態。ライバル同士なのだから派手な喧嘩でもしていそう、と思われがちだが、その内実は不足する薬の貸し借りをする仲間同士であり、割と親しく付き合っていたりもする。  だから葵も、開店業務中だったお隣の店舗スタッフに向かって、おはようございますと挨拶をしてから、しらなみ薬局のシャッターの前に立ったのだ。  ガラガラガラと大きな音を立てて重いシャッターを開けると、その向こうにはガラス張りの自動ドアがある。その鍵を開けるためにドアの前にしゃがみこんだ葵はふと、先日回って来ていた社内の回覧板を思い出した。  ……そういえば、こうやって一人で後ろを向いてしゃがんでいるときが危険なんだっけ。  後ろを向いていて無防備な上に、しゃがんでいるから咄嗟の対応が難しいと書いてあった。  よその店舗で薬局強盗があった時も、この姿勢の時に襲われたという。それでも朝早くから大勢のスタッフを用意するわけにもいかないし、最悪、悲鳴を上げればお隣さんが気付いてくれるだろうからきっと大丈夫だ。  問題は葵自身が大きな声で叫べるかどうかなのだが……。 「葵ちゃん」 「っ?!」  強盗が頭の中に浮かんでいる時に突然、背後からかけられる声は心臓に悪い。葵は思わず尻もちをついてしまうほど驚いてしまった。  しかもあまりにびっくりしすぎて、悲鳴どころか喉を震わせることすらできなかったのだ。  もしこれが本物の強盗だったら、と考えれば恐ろしい話ではあったが、幸いなことに、葵の真後ろに立っていたのはノリの効いたスーツに身を包んだ、長身の青年だった。 「と、と、智くん?!」  葵は声をひっくり返してしまった。  細身で背が高くて、鼻筋の通った甘い顔立ち。アーモンド型の目も、柔らかな髪質の頭髪も……その全てが葵の好きだった彼と瓜二つな、弟くん。
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