1章 動き出す時間

3/7
前へ
/61ページ
次へ
 葵はせいぜい怖い顔を作って釘を刺したのだが、智樹は凹むでも反発するでもなく、むしろすうっと目を細め、笑いを引っ込めてしまった。 「俺は葵ちゃんがこのホワイトファーマシーズに入社したって聞いたから追いかけてきたんだよ」 「え?」 「それで入社式の後で、社員名簿を見せてもらって葵ちゃんが松葉丘店にいるって分かって、それから社長に直談判して。研修最後の試験でトップだったらそのわがまま聞いてやるって言われたから、俺めっちゃ頑張ったし」 「な……」 「そこまでしてここに来たんだから、葵ちゃんに手取り足取り教えてもらえないんだったら、さすがにショックじゃん」  最後にはいたずらっ子のような可愛い笑みも浮かべる智樹だったが、葵はさすがに一緒になっては笑えなかった。 「どうしてそんなことを……」 「決まってる。葵ちゃんを迎えに来た」  智樹の声は決して大きくもなかったが、葵は目の前の空間が歪むような錯覚を覚えた。 「俺、この日のためにずっと頑張ってきたんだ。葵ちゃんは俺が言った言葉、覚えてるよね?」 「智くん、それ……」  気が付けば、葵は怯えたように何度も首を横に振っていた。  ありえない、そんなの。だってあれはもう何年も前の話で……。  しかし智樹はそんな葵に向かって、あの時と同じ言葉を再び口にしたのだった。 「俺は篤兄ぃと違って、絶対葵ちゃんを泣かせたりしない。だから、俺と一緒にうちに戻って来てほしい」  智樹のまっすぐな目に射抜かれた葵は、全身を小刻みに戦慄(わなな)かせた。  ……だって、こんなこと……ありえないよ、智くん。 「俺、本気だからね」  葵の戸惑いなどお構いなしに、智樹は真剣な眼差しのまま身を乗り出してくる。そして彼はなんと、葵の顎に手をかけたのだ。 「?!」  その整った顔立ちが間近に迫ってきてさえ、葵は指の一本も動かすことができなかった。それほどまでに全身の筋肉が硬直していたのだ。  しかし彼は急に相好を崩すと、互いの額をコツンとぶつけただけで身を引いてしまう。 「キスされると思ったでしょ?」 「え……」 「仕事中だから今はしないよ。ただ、俺にドキっとさせたかっただけ」  智樹はいまだにその身を強張らせている葵を見て、可笑しそうに笑っている。 「俺がもうランドセルを背負った小学生じゃないって分かってもらえなきゃ、何も始まらないもんね」 「智くん……」 「じゃあ、これからご指導、よろしくお願いします。高梨センセ」  おどけた調子で頭を下げた智樹は、そのままドアを開けて休憩室を出て行ってしまった。  その途端、残された葵は膝から崩れるように、床の上にへたり込んでしまう。  ……だって、今のやり口が……ホント、そっくり過ぎたから……。  こんなにも鮮明な既視感(デジャブ)を覚えるものなのかと打ちのめされた葵は、それからしばらくの間、顔を上げることさえできなかったのだった。  松葉丘店は門前の松葉丘総合病院が17時で診療を終えるから、薬局を18時に閉めることができる。こういうのは夜診のある個人病院の門前薬局では無理な話だ。  しかし18時を過ぎても薬歴を書いたりしているから、仕事がぴたっと終わるわけではない。しかも今日は智樹に付きっきりで業務を教えていたから、葵自身が抱えている仕事を全くできず、帰るのもすっかり遅くなってしまったのだ。  早番の日は優先的に先に帰らせてもらえるはずなのに……まぁ、今日は仕方がないか。
/61ページ

最初のコメントを投稿しよう!

50人が本棚に入れています
本棚に追加