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 瞼をひらくと、そこは元の古い小屋のなかだった。曇った窓の外から明るい陽の光がぼんやりと射しこみ、植物に侵食されつつある室内をやわらかく照らし出している。  この小屋に入ったときには、もうほとんど陽が暮れかかる時刻だった。疲労困憊だったとはいえ、どうやらしっかり一晩眠ってしまったらしい。自分に呆れながらそう見当をつける。  緑色の寝台と、枕元に咲く小さな花のかすかな香り。身体の下に敷かれた大きな外套。アウレリアは横たわったまま、ゆっくりと瞳だけを動かした。  最愛の騎士はそこにいた。彼女が眠る前とまったく同じ姿勢で座し、剣を抱え、すぐそばで頼もしい背中を向けている。それがこの上なくうれしくもあり、胸を刺す切なさもあった。混じり合う思いで彼の名を呼んだ。 「ゼキ……」 「陛下、お目覚めですか」  即座にゼキは振り返った。少しでも眠っていたり、ぼんやりしていたりすれば、こんなに早く反応することはとてもできないはずだ。思わず硬直するアウレリアの顔を、ゼキは心配そうにのぞきこむ。 「お加減はいかがですか。まことにお疲れだったのでしょう、身じろぎひとつなさらずに眠っておいででした」 「……」 「陛下? どうなさいました」 「く、この、大きな仔犬め……。そなたの忠義がうれしくも痛い……」 「痛い。寝台が固かったのでしょうか」 「ああそうか、そらとぼけるのかゼキよ。ああもういい、さっさと帰るぞ。覚悟せよ、今宵はそなたをたっぷりと寝かせてやるからな!」 「お元気になられたようで、なによりでございます」  ゼキが下賜の外套を羽織り、アウレリアがかるい身づくろいをしたあと、そろって小屋をあとにした。天気がよく暖かかったが、彼らは思い出したかのようにちょっと身震いして、それぞれ無言で木陰に入って用を足した。  それから馬を牽いてあの美しい滝壺に寄り、手や顔を洗ったり水を飲んだりする。ゼキのほうはアウレリアの敏感な持病を考慮して、彼女が水を使い終えるのを待ってからである。 「それにしても、陛下、ここから出る算段がついたのですか。漆黒の花は現れませんでしたが……」 「うん。まあ、もう大丈夫だろう」  ハンカチで顔を拭きつつやや曖昧な言い方をするが、アウレリアには確信があった。  ふたりでここに閉じこめられたままの一生に未練がないわけではない。けれど、やはり今はあの忙しない世界へ帰ろう。あの魔女も、もう少し考える時間をくれるはずだ。  とはいえ、自分ばかりあれこれと思い悩むのもおもしろくない。淡々と水を切り、もうすでに立ち上がっている凛々しい騎士の姿を、下からほれぼれと見やりつつ言ってみた。 「ゼキ。そなたに荒々しく口付けられて押し倒される夢を見たぞ」 「……は……?」  戦功著しいこの偉大な将軍が、これほどまでに隙だらけで呆然とする様を、果たして今まで目撃した者がいるだろうか。くせになりそうな優越感ににっこりとしながら、アウレリアはさらに続ける。 「ゼキはどうだ? このわたしの身をどうこうする夢を見たことがあるか? というか、昨晩は一睡もしなかったのであろうが、すぐそばでかわいい寝息を立てるわたしを見ていて、なにも思うところがなかったのかな? さあ、乙女に恥ずかしい告白をさせたのだ、そなたもこの際正直に言うがよい」 「……」  ゼキはしばし無言でいたが、不意に長身を折り曲げたかと思うと、せっかく乾いた手をまた清水のなかにつっこんでしまった。袖が濡れるのにもかまわず、そのまま手を泳がせるように動かしている。なにをしている? と尋ねると、大まじめな顔で振り返って言う。 「いえ、これはよく冷えた水だと思いこんでおりましたが、もしや陛下がお顔を洗われたところだけぬるま湯のような温度になっていたかと確認をしております」 「わたしがまだ寝ぼけているというのか、痺れるほど失礼な奴だな。まあ、そもそも男とは寝ていようが起きていようが常に性交のことばかり考えている生き物だというし、訊くだけ野暮であったかな」 「……陛下。そのような与太話、いったい誰がお耳に吹きこみましたか」 「ブリッツ将軍」 「さようですか。わたしはあの者をよき友人と思っておりましたが、少し付き合い方を改めねばならぬようです」  ひとつの友情に不穏なひびを入れたあと、ふたりは馬に乗り、昨日来た道をたどってのんびりと歩きはじめた。 「お腹がすいたなぁ」 「そうですなぁ」  悠長に言い合っていると、先導するゼキの馬の足下へ、ころころと転がり出てきたものがある。  熊であった。ただし、人間の赤ん坊くらいの大きさでしかない。まだほんの子供の熊だ。  幼い頭には、踏み潰されたら死ぬという発想がないのだろうか。歩きつづける馬の脚にじゃれてまとわりつき、いつまでもくっついてくる。ゼキはしげしげとその様子を観察し、国王へ進言した。 「こやつでよろしければ、すぐに火を起こして炙りましょうか?」 「馬鹿をいうな、かわいそうだろう。ふふ、王宮までついてくるかな? ついてこれたら、大きくなるまでわたしが面倒を見てあげよう」 「陛下こそ、まさかご冗談でしょう。今はまだ小さく他愛ないものですが、熊の恐ろしさは昨日御身をもって知られたばかりのはずです」 「ゼキ、あの熊は雌であったな。もしかすると、狩りにやってきたわたしたちを警戒し、産まれたばかりの子を守るために襲いかかってきたのではないかと思うのだ。……なによりも大切なわたしの騎士よ、誓ってそなたを責める気持ちなどはないが、その仔熊の腹を見てごらん。そなたに胸を突かれたあの熊と同じ場所、そこだけ毛が真っ白だ」  最後に奇妙な生け捕りを成果として、こたびのアウレリア王の狩りは終わった。  途中、王を発見するなり泣きついてきた女戦士たちと、寝不足の将軍を生暖かくながめる武官たちも加え、一行は無事に王宮へ帰還した。全員が腹一杯になるまで獣肉を食べたのは言うまでもない。  そして、虚弱体質に悩む若き国王は、それから毎日王宮の庭で元気な仔熊とあそぶことで、徐々に体力を取り戻していくのだった。
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