キュッリッキの決断-前編-

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キュッリッキの決断-前編-

「ね、フェンリル、毎日ご飯が食べられて、ベッドがあって、お風呂があって、幸せだね」  一人用のソファに座るキュッリッキの膝の上に寝そべるフェンリルは、水色の瞳をキュッリッキに向ける。  このソファは元々ベルトルドの私室にあったもので、ベルトルドが生前勝手に持ち込んで置いていったものだ。  微かに残るベルトルドの残り香に縋るように、このところキュッリッキはこのソファによく座っている。痩身で小柄なキュッリッキには、多少大きすぎた。 「実入りのイイ仕事は中々貰えなかったから、やりくりが大変で。ハーツイーズのアパートに住めるようになってから、どうにか生活も落ち着いたけど」 「貧乏状態は、あまり変わらなかったがな」 「うん。ベルトルドさんと出会って、ライオン傭兵団と出会って、衣食住に困らなくなったんだよね」 「キュッリッキの笑顔が増えた」 「そう?」 「メルヴィンに恋までした」  どこか不機嫌そうにフェンリルは吐き捨てた。  驚く程心の成長を見せたキュッリッキ。好ましいことではあるが、恋をすると女の子はあんなにも夢中になるのだろうかと、フェンリルは内心驚きの連続だった。 「ベルトルドとアルカネットと一緒にいるときは、親に甘える子供のような表情(かお)をするようになった」  そっかな、とキュッリッキは小さく笑う。 「アタシのこと取り合って、喧嘩して…。でもアタシは、それがとても嬉しかったし、幸せに思ってたの。あんなふうにアタシを愛してくれて、大切にしてくれた」  慈しみ、愛おしみ、そして最悪な形で裏切った。それなのに、誰にも成し得なかった最高のプレゼントをくれたのだ。  今のキュッリッキの心は、2人を失った悲しみではち切れんばかりに膨らんでいる。  心を蝕み続けていた片翼を取り戻し、毎日明るい笑みを浮かべるだろうとフェンリルは思っていた。それなのに、キュッリッキはずっと悲しみに暮れている。メルヴィンが常にそばにいるのに、それさえも凌駕するほどの悲しみに囚われていた。 「毎日安心した生活ができるのもベルトルドさんたちのおかげだし、メルヴィンに出会えたのもベルトルドさんたちのおかげ……会いたい…、また、ギュッとして欲しい」  もう何度零したか判らない大粒の涙が、フェンリルの小さな頭に落ちて弾けた。  泣くな、とは言えない。  これまでキュッリッキが流してきた涙は、自らの不幸な境遇によるものだけだった。大切な人を亡くして流す涙は初めてである。  暫く泣き続けていたキュッリッキは、やがてぐすぐすと鼻をすすりながら顔を上げた。 「アタシね、決めたことがあるの。メルヴィンが戻ってきたら、話してみようと思う」 「あのことか?」 「うん」 「…そうか」  ベルトルド達との壮絶な死闘の後、キュッリッキは自室に篭もりがちになった。  あれほど意欲的だった勉強も休みがちで、ソファに座り込んだり、ベッドに寝転んでじっとしていることが多い。  あまり長く一人にしておけなくて、メルヴィンはキュッリッキの部屋に急いだ。 「リッキー」  食堂に行っていたメルヴィンが戻ってきて、キュッリッキは起き上がった。 「おかえりなさい」  元気のない様子で、キュッリッキは小さく笑んだ。  メルヴィンはキュッリッキの傍らに腰を下ろす。そして優しくキュッリッキの肩に手を回し、そっと抱き寄せた。 「薄着で寒くありませんか? そろそろ冬に差し掛かってきましたし」 「大丈夫だよ。メルヴィンがこうしてくれてるから」  キュッリッキはニッコリ笑って、メルヴィンの胸元に甘えるように頬をよせた。 「あのね、メルヴィン」 「なんですか?」 「アタシずっと考えてたんだけど……、あのね、アタシ、傭兵辞めようと思う」  穏やかなキュッリッキの顔を見つめ、メルヴィンは僅かに目を見開く。 「これまで食べるために傭兵を続けてきたのね。アタシ孤児だったし、修道院も抜け出してきちゃったし、食べ物を買うのにお金がいるから。だから、あの時の自分に出来ることをして、ずっとずっと傭兵をしてきたの。でもね、ベルトルドさんとアルカネットさんのおかげで今は大きなお家もあるし、お金もいっぱいある」  メルヴィンとキュッリッキの為に残された莫大な遺産は、2人が必死に豪遊しても使い切るのは不可能な額である。  キュッリッキを深く愛していたあの2人は、キュッリッキにとても酷い仕打ちをした。しかし、最後には誰にも真似のできない、最高のプレゼントで、キュッリッキを救ってくれた。  最大の心の傷であった、片翼を治してくれたのだ。  今のキュッリッキの背には、大きさが違えど、しっかりと両翼がある。  長いこと苦しめられてきた心の傷が完治して、掴んだ幸せを心から喜べるはずなのに、ベルトルドとアルカネットの死は再びキュッリッキの心に大きな悲しみを遺してしまったのだ。 「アタシ生きることに精一杯で、それだけだった。でも今は、傭兵しなくても食べていけるし、寝るところもある。メルヴィンがいるから独りじゃない。だから、傭兵を辞めて、今度は何かを見つけながら、そうして生きてみたい。お勉強もいっぱいいっぱいして、色んなこと知りたい」 「そうですね」  当たり前のことを、当たり前のようにしてこられなかったキュッリッキ。でも今なら、やりたいことも、何でも自由に選択して生きていける。  一度に色々なことが起こったキュッリッキは、悲しみの他にも、とても疲れてしまったのだということに、メルヴィンは気付いた。  悲しみを癒すためにも、立ち直るためにも、今のキュッリッキには穏やかな時間が必要なのだ。  おそらく、カーティスの再建計画を聞いて、キュッリッキは決断したのだろう。 「カーティスさんには、オレから言っておきましょうか?」 「んーん、アタシが自分で言うね。自分で決めたことだから」 「そうですね、判りました」
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