逃してやらない。

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逃してやらない。

この男が煙草を吸いだす時は決まって言いにくい事がある時だ。 「ちょっと。俺、言ったよね、寝タバコ嫌いだって」 ベッドに寝たまま声をかけた俺を、同じく隣に寝そべり上空に浮かぶ紫煙をぼんやりと眺めていた小林さんがちらりと見、ああ、ごめんと慌てて上半身を起こした。サイドテーブルにあった灰皿に煙草を押し付ける。彼の裸の背中を見ながら、爪痕残してやれば良かったなと意地悪い思いが鎌首をもたげる。 再びベッドに寝なおした小林さんは、両目を閉じようとしてやめ、クリーム色の天井を見つめ続ける。そんな彼を横目で見ていた俺は、わざと何気ない風を装い「何かあったのー?」と眠そうな声で聞いた。ラブホテルの一室に再び沈黙が訪れる。隣の隣か、そのまた隣か、どこか遠くでシャワーの音がする。2ラウンド目かな。お盛んだねぇ、夜中に。シーツの中でそっと両手の爪を見る。伸びたなあ、爪切りが欲しい。隣の男は身動き一つしない。ここで慌ててはいけない。女じゃないんだから。そう、女は大抵慌てて事をし損じる。 そのまま何も言わず辛抱強く待っていると、しばらくして小林さんがぽつりと妻に、と切り出した。 「妻に浮気を疑われてさ」 「何それ」 「・・・いや、いけるって思ったんだけどさ。女ってやっぱり歳取るとだめだな。久しぶりに見たら肉がたるんでて一気にその気なくなったよ」 要は久しぶりに奥さんと一発やろうとしたらその老化ぶりに萎えてできなかったってわけね。 「いいんじゃないの。小林さん50代じゃん。レスってよく聞くよ」 「いや妻は年下だから。四十路ってまだ諦めきれないみたいでさ」 ふうん、と俺は間の伸びた答えをした。そんなもんなの、ふーん。 「でも浮気じゃないよね。セフレじゃん」 「まあ、そうだよなあ」 有料の、と言うのは言わないであげておいた。店の常連さんだし今更だけど、何となく。 「ただ何かとつっかかるようになってさ。いつもピリピリしてるんだよ。娘も高校生だし、ヘンな話吹き込ませたくないっていうか。ほら、年ごろだし」 俺はまたふうん、と言った。バイも大変なんだな。ただ自分の嫌な予感はけっこう当たるから、現実になる前に俺は小林さんの次の言葉を遮った。 「娘さんの誕生日近いって言ってたよね。じゃあ何かプレゼントしてあげたらいいじゃん。マイホームパパを演出するの」 「いやあ、その年頃の子が何が欲しいかさっぱり分からないし」 「任せてよ。俺そういうの得意」 「でも」 「俺、昔から結構女子にモテるんだよ」 「そりゃそうだろうけど」 「一緒に買いに行こうよ。もし誰かに見られても部下に選んでもらってるって事にしたらいいじゃん」 俺はがばりと上半身を起こすと、まだ何か言いたげな小林さんの上にかぶさりながら、いつも彼が枕元の近くに置いているスマホをするりと抜き取る。 「おい」 彼の弱い非難の声を無視して慣れた手つきで彼のスケジュール帳の〇月〇日に、プレゼント購入、と入力した。 「はい」と手渡すと、内容を確認して小林さんは「わざわざ入力しなくても」とあきれた風につぶやいた。 「アリバイその2」自分の声が段々と楽し気になるのを止める事ができない。 「これならもしスマホを奥さんに見られてもさあ、言い訳できるじゃん。娘のプレゼントを買いに行くって。実際そうだし」 「いや、あいつはさすがにそこまでしないだろ」 「分かんないよー。女って時々怖いから」 観念したという風にスマホを手にしたまま頷く彼を俺は満足げに見つめながら、絶対その日空けておいてよね、と念押しをした。小林さんがようやくこちらを向いて、苦笑しながら再び頷く。俺は彼ににじり寄り、自分の外見をとことん利用して、一番かわいいと言われる角度で首を傾げ、ぜったいだよ、とにっこり笑ってみせた。 捨てられるのは性分じゃない。 人様の家庭を壊すつもりはないけど、離すつもりもさらさらないから。
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