幼馴染

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幼馴染

床しいとはまた違う感情なのかもしれない。 僕にとってその時代には良い思い出など数える程も無いからだ。 でも、辛い事も悲しい思い出も、時間に洗われ風化された今となってはこの景色に大きな影響を及ぼすことは無いのだろう。 その意味に於いてこの高台から見下ろす風景は昔懐かしい景色であり、風化した思い出の欠片が剥がれ落ちた先に居る彼女は、あの頃のまま、可憐に微笑んでいた。  彼女は大人びていた。 手も、足も、そして髪も、全部が美しく長い彼女は、僕には崇高な大人に見えていた。 多分、彼女の判断は大人の判断で、子供の僕がどう思おうと、彼女はいつも正しかった。 否、正しい事しか行わないのだと、僕は信じていた。 「おーい!とーもーのーりー、友則!持って来たぞ!食え」  アパートに居ると引っ切り無しに母親の行方と、滞納している家賃をどうするんだと聞いて来る大家が顔を出す。 だから僕は何時も日が暮れるまでこの高台にある神社の境内で過ごしていた。 「博ちゃん、ありがとう」  当然、そんなアパートの電気が止まった冷蔵庫の中に食べ物が有る筈もなく、僕はこの季節、神社の裏山に入って、柿やイチジクを採って食べている。 「どうだ友則、今日はステーキ弁当だぞ」 「おぉー!すげー!久しぶりにステーキ弁当だ」  そんな僕に市川(いちかわ)博恵(ひろえ)がこうして弁当を届けてくれるようになったのは、小学二年の夏休み、理科の自由研究の宿題で、あろうことか単独で観察用の蛭を捕獲しに山に入り、虫篭いっぱいに詰め込まれた蛭と共に足を滑らせ崖に落ちた彼女を助けたのが切っ掛けだった。 「うまぁぁぁーーい!やっぱりこれが一番美味い!毎日これが食いたい!」 「贅沢言うんじゃねーよ馬鹿野郎」  彼女の母親は駅弁を製造販売する会社に勤めていた。 つまりこうして届けてくれる弁当は彼女の母親が務める会社で売れ残った弁当であり、幾ら毎日ステーキ弁当を食べたいと思っても、そうそう売れ筋のステーキ弁当は売れ残らない。 それでもこうして毎日米粒にありつけるのは博恵のお蔭だったし、あの頃の僕にとって博恵は女神そのものだった。 「お母さん、まだ帰らないのか」 「うん」  博恵の家も僕と同じ母子家庭で彼女に父親は居ない。 けれど数週間、下手をすれば数か月単位でしか母親が家に帰って来ない僕に比べたら、彼女は僕より余程、上流階級の人間であると言えた。 「旨いか」 「うん、マジ美味い」  博恵は僕が食べ物を食べる姿を見るのが好きだった。 博恵曰く、僕が食べる姿を見ていると、食べ飽きた弁当を食べる空腹感を彼女に与えるらしい。 二人して売れ残りの弁当を平らげた後は暗くなるまで遊んだ。 母親の帰らない僕は勿論、母親が仕事で遅い彼女にとっても時間にそう限りがある訳ではなかった。 けれど、僕らは雀色の空と、何処からともなく漂って来る夕飯の匂いがする頃になると、どちらからともなく、家に帰る選択をした。 「じゃ、また明日な」 「うん」  蝙蝠の大群が山に戻り始め、鴉の泣き声もひとつ、ふたつと、薄れゆく橙色の空に溶けて行く。 日差しを失った街路に漂う風はもう冬の様に冷たく、僕はそれに身震いをする。 ボロボロに毛羽だったリボンで首からぶら下げている鍵を鍵穴に差し込み玄関の施錠を解く。 扉を開けても誰も居るはずも無く中は真っ暗で、もちろん、電気は点かない。 街頭から忍び込む薄い明かりを頼りに部屋に入り、鍵を掛けたらすぐ音をたてないように毛布に潜り込む。 そんな日が、もうどれほど続いているだろう。 「時間」とは、物事の変化を認識するための概念であり、ニュートン力学、相対性理論、量子力学などの物理法則は時間反転対称を前提としているから、過去→現在→未来という反転非対称な時間を解明する手がかりにはならない。 しかし、熱力学第二法則を用いれば、「エントロピーは時間とともに増大する」あるいは「エネルギーは温度の低い方向へ変化する」という原則が成り立つ。 故に熱力学第二法則が時間の向きを決めているという考え方もあるけれど、あの頃の僕の時間は夜が来たら朝が来る、朝が来ればまた夜が来ると云う、紀元前、科学が存在しない時代の円環する時間の様に、毎日、同じ場所をクルクル回っているだけだった。  潜り込んでいる毛布には色々な匂いが染みついている。 多くは博恵の運んでくれる食べ物の匂い。 例えば、今日のステーキ弁当のソースの匂いとか。 以前は、母の匂いがした毛布だったけれど、今はもう、母の匂いはしなく無くなっていた。 「おーい、とーもーのーりー」  学校帰りに母親の勤め先に寄り、今日もお弁当を二つ携えた博恵がやって来た。 「友則、喜べ、すき焼き弁当がひとつだけ手に入ったぞ、食え」  暗い部屋、寒い夜、日が昇ると直ぐ部屋から抜け出し、円環する時間の中であても無く街を彷徨いこの時間に博恵をここで待つ。 話し方は上品じゃないけれど、手も足も髪も美しく長く、そしてこの世でたったひとり、僕に満面の笑顔を向けてくれる、たったひとりの、掛け替えのない、それは本当に、彼女は掛け替えのない、僕の友達だった。 「旨いか、友則」 「うん」 「そうか?」 「なんで?」 「今日は余り美味そうに食べてないぞ」 「そんな事ないよ」 「そうなのか」 「うん」  僕は躊躇していた。久しぶりのすき焼き弁当は確かに美味いけれど、僕はその時、躊躇っていた。 「あの、博ちゃん」 「ん?」 「今日の朝、福祉の人が来た」 「福祉の人って、なんだそれ?」
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