帰還と暗転

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 重左衛門とて、子供たちが可愛くなかったわけではない。一緒に居られる時間は、精一杯の愛情を注いだつもりである。だが、自分の得心のいく技前、いや境地というべきか、それに己が到達したとの確信が得られるまでは、世間に跋扈する有象無象の自称兵法達者たちのように、中途半端な技前のまま世に出るつもりはなかった。  一言に兵法に「開眼する」「悟得する」などと言っても、薄皮を張り重ね続けるような日々の稽古の中で、そのような瞬間は幾度となくある。むしろ鍛錬し、自問自答を繰り返し、何かしらの気付きを得ることの繰り返しが、兵法修行そのものともいえるだろう。  つまり、終わりはないのだ。そのことを重左衛門は最も長く師事し、心酔し、仕えてきた、林崎甚助重信の姿からよく解っているつもりである。  林崎甚助は天文年間に出羽国に生まれ、この当時、完全に死病であるとされる結核を病みながらも、体力勝負に持ち込ませることなく、父の仇を倒すため、自ら抜刀術を編み出し、十九で仇を倒して宿願を果たしている。  その後も、日の本の剣流を上泉伊勢守と二分する一方の巨頭、塚原卜伝の門人となり、修行を続け、ついには病すら克服し、この当時は京にて鞍馬流の正統継承者としても知られていた。  居合、抜刀の流祖としては勿論のこと、また後世、この人物から教えを受けた剣術、柔術の名人達人も数知れずという。この時代、存命中からして、すでに武の世界においては圧倒的な巨人である。  そんな人物であっても、日々無数の抜刀を欠かすことなく、弟子と木剣を合わせ、厳しい鍛錬を自分に課しているうえ、あまつさえ名人達人の噂を聞けば、日の本中に会いに赴き、修業を怠る日とてない。道場ですら、京市街にて兵法を好む物好きな酒屋の一隅に間借りしているだけである。  そのような師匠のそば近く仕えおれば、世間の兵法者のように、安易に一流一派の旗を揚げ、どこぞの剣術指南役に収まるなど、できようはずがなかった。さりとて、このままでは一家で生活に行き詰ってしまう。  そこで重左衛門は、自分で目処をつけることにしたのだった。  師・林崎甚助は常々言っている。 「立ち合いのとき、相手を斬ってやろう、倒してやろう、などと考えるのは無用のこと」と。 「お主の身に着けた技の中で、その時、その場に最善なものを繰り出すだけで良いのだ。怒ったり、憎んだり、恐れたりは全て無用のものじゃ。手習いで文字でも写し取るときのように、無心に剣を振るえ。動け」と。  重左衛門とて、常に師の教えの通りに心掛けてきたつもりである。すでに、寺や商家に押し込んでくる盗人どもや、道場で手合せする同門の門人たちに対しては、感情のさざ波すら起きることなく対することができる。後れを取ることも、最早久しくない。 ―だが……。それは彼我の技量の差が大きいからじゃ。あるいは、手合せし慣れた相手であるからじゃ。  重左衛門が自分より技前が上であると認めざるを得ない相手と立ち合って、どうなのか。仮に自分より力が劣っていても、戦場慣れして殺戮そのものに喜びを感じるような者どもが、多勢にて押し包んできたらどうか。  恐怖に身体を固くすることなく、対処できるのか。気持ちを焦らせることなく、冷静でいられるだろうか。甚だ頼りなく思えてくる。できるような気もするし、できないような気もする。  だがその心法に、自分の意識の持ち様に、確信が持てない限り、兵法者として世に出ることはできない、と決心したのである。  その点妥協はできないが、筑前での御前試合は刻一刻と迫ってくる。重左衛門は、道場でも家でも考え込むことが多くなっていった。
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