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この年、天正十八年春は、昨年から開始された小田原征伐の真っ最中であり、この少年たちの父・重左衛門も主君・小早川隆景に従い、従軍している。父・岩見重左衛門は、元は京洛の人で、日の本で最も古いとされる剣流、京八流の一派、鞍馬流を修めた人物であった。三年前、九州征伐に功あって小早川家が筑前に加増された折り、新たな職制として剣術指南役が定められた。その役目に据えられたのが、重左衛門である。
実はこの当時、いまだ戦場往来の家臣団を多く抱える大名家において、いわゆる兵法者に対する不信感、偏見は根強い。
要は、刀槍の扱いなど戦場で切り覚えに覚えるものであって、ことさら習い覚えるようなものではない、という猛々しい気風があった。
後年、宮本武蔵の如き高名な兵法者でも、仕官先になかなか恵まれなかったり、兵法者の仕官を断った北条氏照の話など、この手の話には枚挙に暇がない。
だが世の中が定まりつつあり、また一角の大大名と成った小早川家において、主君や親族、要人の殿中での暗殺や、不慮の死を防ぐためには必要であると、主・隆景自ら決断し、根強い家中の反対を御前試合をもって封じ込め、設けられた職だ。
その御前試合は、木剣で執り行われたため、重傷者や死者が出るのも当然と思われていた。しかし、岩見重左衛門は数多の兵法者や家中の猛者たちを、立ち合う相手に些かの傷を負わすこともなく制してみせたのであった。
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