無名の剣客、九州の地に立つ

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 試合場に張り巡らされた陣幕の間からも、何やら軍蔵とその朋輩の喚き声が漏れ聞こえてくるようである。  兄・重蔵は黙って刻限の来るのを待っていたが、当時の重太郎はつい緊張に耐え切れず、父に話しかけた。 「父上、大丈夫じゃな! 父上はいつも、剣は理に適っているかどうかじゃと……。理こそ大事じゃといつも言われておるものな。力ばかりの軍蔵に負けはせんよな!」  重太郎自身、父の繰り返し説き聞かせる「理」が何を意味するのか、ぼんやりとしか解らなかったが、何より父の自信に満ちた言葉で、自分の不安を打ち消してもらいたかったのである。  だが、父・重左衛門の返事は、拍子抜けするようなものだった。 「いや……判らん。二人が立ち合えば、一人は敗れるものよ。それに、何やら漏れ聞こえてくる広瀬殿のあの言い分も、あながち間違ってもおらぬ」 「え?」  重太郎はすっかり消沈してしまった。だが、重左衛門はそれには構わず続けた。 「来るものは即ち迎え、去る者は即ち送る、対するものは即ち和する、一九の十、二八の十、五五の十、大は方処を絶ち、細は微塵に入る、而して活殺自在」  重左衛門は、重太郎にというよりは、むしろ自分に言い聞かせるように、兄弟に日々説き聞かせてきた流祖・鬼一法眼の兵法の「理」とされるものを、朗々と暗誦した。 「父上ぇ。それはもう聞き飽き申した……」  重太郎は泣き声になってきた。 「もう止せ。父上の邪魔になる」  黙り込んでいた兄が声を発し、弟も渋々口を閉ざした。  父・重左衛門はそんな兄弟を横目に見ながら、 「ふふっ、別にわしは構わんがな」  とだけ言い置いて、刻限を告げる太鼓の音と共に、いつもと変わらぬ歩調でするすると試合場に向かってしまった。
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