大坂へ、そして暗中模索の日々

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 重太郎はそっと逆手で蓋を閉める。無遠慮な足音は社殿の階(きざはし)を登り、ぎぃっと軋む扉を開けたようだ。ぎしぎしと床を軋ませ近づいてくる足音は、相当な重量感を持っている。 ―まさかとは思うが本当に狒々だというのか? いや、どうせ毛皮なんぞで変装した人間であろう。吾助たちは恐れ多いという先入観に囚われていたので、怪異なものに見えたのじゃ……。戦でも、臆病風に吹かれた物見は敵の数を二倍程にも見積もってしまう、と父上も話しておったわ。  社殿の中中央付近に近づいた何者かは、すぐには唐櫃には手をかけず、供え物などを物色している気配だったが、やがて唐櫃の蓋に手をかけたようだ。少し蓋の浮き上がる気配を感じる。 「曲者め!」  その刹那、重太郎は肩で蓋を跳ね上げると同時に、抜刀しつつ斬りつけようとして、驚愕した。  差し込む月明かりに照らされて、眼前に立ちはだかるのは、白い体毛に包まれ、牙の突き出た口を大きく開けた、狒々そのものであった。  甲冑を着けるときに着用する面頬でも着けているのであろう、と重太郎は決めてかかっていたが、目前に大口開けて重太郎を見つめる頬や額の突き出たその表情は、明らかに木の彫り物などではなかった。 「うおおおぉ!」  一瞬の躊躇はあったが、重太郎は抜いた太刀を左斜め上から切り払った。  幸い、狒々の方も驚いたのは同様のようで、重太郎の袈裟切りを右小手でもろに受けた。  がつっとした手ごたえと共に狒々は少しよろけたが、すぐに咆哮しながら飛びかかってきた。重太郎は下半身が箱に入ったままのため、狒々の突進を避け得ず、唐櫃ごと後ろに転倒した。狒々は巨体に似合わぬ敏捷さで重太郎の上に圧しかかり、両腕を交差させて重太郎の襟を取ると、ぐっと引きつけて首を絞めてきた。 「こいつ……」  絞めは重太郎の首の血脈を確実に捉えている。早くも意識が遠のき始めていた。  重太郎は左手で狒々の両手を捉えると、右手は刀を逆手に持ち変え、左肩を支点に両脚で狒々を跳ね上げつつ、刃で脇を掬った。 「ぐあぁぁ!」  と狒々が吠え、上下が入れ替わった。刀は狒々の脇か上腕を確実に傷つけたようだ。前腕部分と違い、上腕の辺りは固いもので覆われてはいないらしい。  重太郎は上からさらに攻撃を加えようと試みたが、狒々は両脚で重太郎の身体を突き離し、距離を作って起き上がった。  狒々は間髪入れず、周りに転がっている酒の入った桶などを投げつけ始め、重太郎が切り割って避けた隙に外に走り出た。 「待て!」  重太郎もすかさず追いに出るが、狒々は勝手知ったる様子で社殿の裏に回り込み、山奥に向かった。
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