大坂へ、そして暗中模索の日々

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 重太郎も山に分け入りながら、ある確信が湧き上がってきた。 ―奴は……人じゃ。  神と呼ばれるほどに年経た狒々が居たとしても、狒々は狒々。獣であることに違いはない。だが狒々は、首を絞めてきた。  これほど不自然な行為はない。人間以外の全ての獣は、闘争に爪牙を使うものである。爪で引き裂き、嚙み千切るのである。首を絞めたり、関節を極めたりなどという行為は、極めて不自然で人間的な行いといえるだろう。  人であっても、闘技を心得ない者の自然な攻撃は、殴る蹴るである。獣であっても、殴る蹴るは行うだろうから、もしそれをされていれば、確信は持てなかったかもしれない。 ―奴は上手く化けた心算であろうが、人である中身までは、変えられなかったということじゃ。  重太郎は身を低くし、地面の様子を確かめながら山中の追跡を続けた。地表から一尺程の所に視線を置くと、夜闇の山中でもある程度の様子が掴めるため、何とか獣道を追跡できた。  やがて尾根から下りに入った。斜面に足を取られないよう、慎重に滑るように降りてゆく。水音がしており、沢があるようだ。さほど大きな山ではなかったが、暗闇と途中待ち伏せを喰う可能性も考えたため、かなり消耗していた。重太郎は沢に身を屈めると、手に水を掬って、辺りを見回しながら飲んだ。 ―奴も、この辺りに降りてきたはずだが ……。  沢の水の湧き出る辺りにごつごつとした岩場が見てとれた。 ―沢に沿って下って逃げた可能性もあるが、一応調べておくか。  重太郎は足音を殺しながら、慎重に岩場に近づいた。 ―これは当たりか?  岩場には天然の水の流れが創ったのであろうか、岩の洞がぽっかりと口を開けていた。 ―奴の巣でもあろうか。  だが、こちらから踏み込むのは、いかにも不味そうである。重太郎は洞の入り口を目を凝らして調べてみると、僅かに血のぬめりと血痕があった。最早ここに間違いはなさそうだ。どうしたものか、火でもつけられれば燻りだすこともできそうだが、今は道具を持っていない。中の様子を確かめようと、洞の縁に身を乗り出そうとした刹那、頭上から何かが落下してくる気配を感じ、飛び退いた。  ずさっと身体を何かが擦過する感覚。すぐに左半身に生温かいぬめりを感じる。岩場に尻餅をついた重太郎の眼前には、右手に長巻を持った狒々が立ちはだかっている。 「餓鬼め! ぶち殺してやる」  もうすでに、狒々も芝居をする気はないようだった。右手で長大な長巻を操りながら、豪快な斬撃を繰り出してくる。恐るべき膂力だと重太郎は思った。  しかし得物が得物だけに、片腕では精妙な操作は行えず、大振りばかりである。重太郎も左肩に傷を受け、条件としては五分と五分ではあるが、自らは太刀のため、片手で扱えないこともない。岩や沢といった足場の悪さに注意を払い、重太郎は好機を窺う。  狒々の、力強くはあるが単調な何度目かの切り払いをしっかり見切って、上から叩き落とすと、そのまま踏み込んで、刃を水平に狒々の肋間に滑り込ませた。 「うぐぅぅ」  呻きながら狒々は地に膝をつき、蹲る。重太郎は狒々を蹴倒しながら、刃を引き抜いた。 「止めを刺すか?」  重太郎は尋ねた。狒々は肺を刺し貫かれたようで、ひゅー、ひゅーと呼吸音をさせながら横たわっている。 「いや……。お前こそ聞きたいことがあるんだろう? 若いの」  狒々の言葉には最早、力はなかったが、聞き取れないほどではなかった。 「……お主、何者なんじゃ」 「俺はな、吉田の家の倅よ。お前もここに居たからには、挨拶ぐらいはしたんじゃろ。親父は相変わらず偉そうにしていたかよ?」 「……」  重太郎は答えなかったが、狒々は勝手に続けた。 「だがな、地侍とはいえ、所詮は百姓の親玉だ。一年の半分は野良仕事よ。俺はそんなのはまっぴらだ。もっと派手に面白おかしくやりたかった……。だからこの村を出たんだ」 「……」 「だが、侍になるってのは、簡単にはいかなかった。結局、乱波の仲間に入ってな。まぁ、面白おかしくはやれたがよ……。ごほっ」  狒々だった男は横を向いて咳き込み、血の塊を吐き出した。 「俺には侍より向いていたかもな。変装や体術を覚えてよ……。本物に見えただろ? それにさっきの絞め技で、俺は何人もやったんだ。お前には逃げられたが……」 「俺も、危なかったがな」  狒々は嬉しそうにぐふっと笑ったが、同時に血も吹いた。 「正気が戻って……痛みが。止めを……」  それだけ言うと、狒々だった男は震え出した。重太郎もこれ以上話すことはできまいと思い、頸に向かって刀を一閃した。
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