天橋立に、血の雨降り注ぐ秋

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案に反し、天下分け目といわれた戦いも呆気なく終わり、天下の覇権は、徳川家康の握るところとなった。世間は一時の小康を得たように見える。  時すでに、慶長九年(一六〇四)となっている。山陰道を通り、播磨の国永上郡の分岐を北上し、かつて明智光秀が治めた福知山から与謝峠を越える山道を重太郎は歩いていた。  四国、瀬戸内、九州、山陰と旅を続けてきた。丹後宮津に辿り着けば、もうほぼ日の本の国を、全て経巡ったことになるのではないかと思う。疲労が澱のように心身に蓄積している。  真夏の暑さが、それに追い打ちをかけるようだ。繁る樹林によって、日差しをもろに受けることが少ないだけまだ助かるが、木陰が切れたときは、この疲弊した心身で、倒れずに峠越えができるかどうか、自信がなかった。  最早、代替わりして帰参する気もあまりなくなっていたとはいえ、父が愛した旧主・小早川家が消滅したことも、重太郎の心に暗い影を落とした。  膠着状態を打ち破り、東軍を勝利に導いたはずの小早川秀秋であったが、戦の最中の返り忠であったため、東軍に名を連ねた大名たちからも疎まれ、元々酒色に溺れがちな生活に拍車が懸っての早世であった。  秀秋に子供はあったはずであったが、正式な嗣子とされていなかったため、あっという間の改易となった。これが徳川に近い大名であったなら、御家の存続も認められたかもしれない。しかし、豊臣家の縁者であり、西軍の首魁毛利家の分家である小早川家に対し、幕府の対応は、素早く無慈悲なものだった。 ―家康の権力奪取に協力しながら、この仕打ちとは。  馬鹿馬鹿しい話、ではあると思う。  重太郎は父上が無事なら……と考えぬでもない。  重左衛門が存命なら、戦場での返り忠などと馬鹿なことは、させなかったのではないか。勝利の立役者でありながら、後ろ指差されるのは、目に見えているのである。  だが、諫言したらしたで、秀秋の怒りを買って、一家で上意討ちにされた可能性も考えられるわけであるから、いまさら何を考えたところで、無駄な繰り言にもならない。
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