天橋立に、血の雨降り注ぐ秋

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 笑止なことに、少しでも学者然と見せるためであろうか、髪を総髪にして伸ばしている。そのため一見したところの容姿は、大分変わって見えたが、獰猛そうな表情や筋肉の鎧を纏っているかのような巨躯だけは、以前と変わらず、重太郎が幼き頃に目に焼きつけた広瀬軍蔵に違いなかった。 居並んだ武士たちを前に、威儀を正した軍蔵の講義が始まった。 「ここに列席されている方々は、身分の上下はあれど、皆、武士として民を先導してゆく勤めがござる。よって、儂が修めた唐の兵書、六韜の一節をこれから聞かせて進ぜるので、皆よく覚えて帰るように……」  重太郎は何を言いやがると思ったが、軍蔵の滔々と語るそれは、存外正確なものだった。 「民草には利をもたらしてやることですな、当然害を与えてはならぬ。また、民草の仕事は成就するようにしてやり、失敗させてはなりますまい。そして、民は生かしておくようにし、つまらぬことで殺してはならぬ。金穀はなるべく与えてやり、持ち物を略奪などせぬように……」 ―これは、軍蔵の台詞とは思えぬ……。一体どうなっているのだ?  書見台には何も置いておらず、書物を丸読みしているようにも見えない。  軍蔵の言葉はなお続く。 「武士たる者は、城や屋敷をみだりに贅沢にせず、民草を労役に酷使しないこと。これが民を楽しませることになり、役人が清廉潔白で民草に優しいことは民草を喜ばせることとなる。これらが結果、国を富ませ栄えさせることとなるのじゃ」  重太郎は戦慄した。  この男、軍蔵は藩命にて強制的に聞かされていた父・重左衛門の講義を、概ね丸覚えしていたのである。この男に対する考えを、改めなければならないと思った。     広瀬軍蔵は単に粗暴で危険な人間、というだけではない。人並み以上に記憶力も良く、それをもっともらしく人前で披露するような、機転も効くのである。 ―これは容易ならん相手じゃ……。  鳴尾や大川といった連中とは、一味も二味も違う。講義の内容とて、本心から語っているわけではあるまい。ここに居並んだ連中が、喜びそうな話だからしているのである。  重太郎は軍蔵の本当の恐ろしさを垣間見た気がした。この男は、自分の個人的な恨みや妬みから発した欲望を満たすためだけに、奸智を使い、奸計を巡らすことができるのだ。結果、同僚でも上司でも殺害することを厭わない。それだけの能力があり、かつ手段を選ばない人間なのだ。 大勢を前に饒舌に話し、興が乗ってきたのか、すっかり自分に酔った様子の軍蔵は、さらに続けた。 「今日は特別に気分が良いので、兵法の秘訣ともいうべき事柄を教授して進ぜる。何分秘事中の秘事故、本来は、藩外の者が聴講しているときなどにする話ではないのだが……。結局のところ、この口訣を知っていたからとて、それを実行するだけの剣の実力が伴わなければ何にもならん話でのう。そこな後ろの若いのも、使い熟せはせんであろうが、言葉づらだけでも覚えて帰るがよい。家中の者はそれ故、ご安心召されよ」       列席者たちが重太郎の方を振り向き、笑いが起きた。
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