天橋立に、血の雨降り注ぐ秋

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 京極家は名門中の名門だが、これまでは中堅大名の哀しさで、常に時の権力者の顔色を窺いつつ、戦国の世を遊泳してこざるを得なかった。信長が斃れれば即光秀のために奔走し、光秀が斃れれば秀吉に妹を差出し機嫌を取り結び、秀吉が亡くなれば家康に平身低頭してきた。  そのような境遇に、常に鬱屈した気持ちがある。下々の者に名門であることを誇っても、現に強大な権力、武力を振り翳す者には、いつも這いつくばらざるを得なかった。それを、このような清々しい物言いをされると、根が単純な男だけに、感激も尋常ならざるものがあった。 「その殊勝な心掛け、天晴である。真、武士の鑑とはお主のことよ。沢口新左衛門、また村口、村崎の両名もむざむざと討たせはせん。大船に乗った気でおれ」  言いながら、だんだんと高知も高揚してきた。  そもそも、小早川家というのが気に喰わない。関ヶ原の折り、少しでも家康に気に入られようと、西軍の首魁の一人である大谷刑部の正面に陣取り、声が潰れるまで督戦した。普段は武辺の面では公家大名だなんだと、出家大名同様軽んじられがちであるのを、見返したかったのであった。  その甲斐あって、秀吉から百万の軍の指揮を執れる男と激賞された大谷を相手に、東軍の左翼を支え得た、と自分では思っていた。  それが、小早川の横槍で消し飛んでしまったかのようである。小早川秀秋率いる一万五千の大軍が、松尾山から駆け降りる破砕力は凄まじく、さしもの大谷隊も数度の抵抗を試みた後、粉々になってしまった。  戦後、秀秋は旧宇喜多の封土を与えられ、倍近い加増となったが、早朝から昼過ぎまで力戦奮闘した自分は微増に留まった。  一体、この世はどうなっているのかと思う。京極氏は正しく源氏の流れを汲んでいるのである。宇多天皇の末裔であるぞ、と世間に問いたい気持ちがある。平氏を自称した信長も、源氏を自称している家康も、天皇の落胤などと大法螺吹いた秀吉と大して変わりはない。いずれも、出自は定かならぬ卑しげな者どもではないか。  何故、自分たちが公家大名呼ばわりされたうえ、手柄まで横取りされなければならないのか。  高知は思わず今までの鬱屈が爆発してしまった。 「よし、その岩見重太郎なる者を討て! 討手を差し向ける」
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