天橋立に、血の雨降り注ぐ秋

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「左様でございますな……。これはもしや仇討ちをさせる気がないのかもしれませぬぞ」 「よもやとは思ったが、俺もそれを考えていた。このままずるずると引き伸ばし続け、俺が諦めるのを待つ肚かもしれん」  重太郎には、ここまで来て取り逃がしては……という不安と焦りがある。 「何なら、見つけたときに斬ってしまい、しかる後、届け出ることにするのであった。今さら詮無きことだが、実に悔やまれる」 「逸まったことを申しますな。そんなことをすれば、どさくさに家中の侍を斬ってしまったり、三人のうち誰かを取り逃がしたりしたはずですぞ。何も、あなた様がお尋ね者になる必要はありますまい。公に届け出たのは、某にはかえって良いことのように思われますぞ」 「……だが、現に仇討ちを差し止められているようなものだぞ?」 「私に考えがございますれば、少しお待ちあれ」  美濃屋は重太郎と幾日も過ごすうちに、この青年に好意を抱き始めている。岩見重太郎の噂を周囲に聞きまわっていたときは、丈九尺の巨漢にて、信濃の山中で大狒々を両者血塗れの死闘の末、殺しただの、河内葛城山で山賊百人余りを撫で斬りにしただのと、恐ろしげな噂ばかりを聞かされたが、実際に目の前にしてみれば、幾分常人よりは体格こそいいが、どちらかというと、物静かなごく普通の青年に見えた。  自分は血腥い武士の世界に嫌気が差し、身分を捨てて、僅かな元手をもとに、何とか商売人として恰好がついたが、もしこの青年が、あくまで武士としての生き方を貫きたいというのであれば、商人なりのやり方で応援してやろうと思った。    美濃屋は元より城下の町人衆の間では、ある程度、顔である。元は武士であったり、奉行・仲村惣右衛門の遠戚であることもあるが、生来の話好きであり、世話好きであることが大きい。  町人の寄合などでは、これまで重太郎が気乗りしていなかったため、仇討ち話の喧伝などは控えめにしていたが、事ここに至っては、もうなりふり構わず噂を広めることに腐心した。  仲間内のみならず、旅籠を利用する旅人などにも、積極的に宮津藩仇討ち妨害の旨を吹聴してやり、字の読める者に対しては、簡単な絵草子のようなものまで拵えて持たせてやった。  娯楽の少ない時代である。高野聖や歩き巫女、行商や放下師、傀儡師といった芸人は、目新しく人の関心を喚起できる話のタネを、常に欲しているものなのだ。  父兄殺しの仇討ちなどは、恰好の題材であり、好奇の対象であるわけで、一月ほどで藩の内外、身分の上下を問わずに流言飛語が飛び交うようになった。  中には、もう京極高知が数百の討手を差し向け重太郎と一戦したなどという噂話まで、まことしやかに囁かれ、勝手にその様子を芝居の出し物にするような芸人たちまで現れ出した。    重太郎の応援にと酒や食品、銭などが旅籠に持ち込まれるようになり、詳しい話を聞きに訪れる者、中には仇討ちの助太刀を申し出る者まで、様々な人種が引きも切らずに旅籠を訪れるようになった。  重太郎もはじめのうちは、世論の圧力が必ず藩政をも動かすとの言を信じ、できうる限り対応していたが、限がないうえ、相変わらず藩からの便りも全くないため、十日程経つと、居留守がちになってしまった。
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