帰還と暗転

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この天正十八年、いや仕官叶った三年程前の時期からの期間は、世間では豊臣秀吉の天下一統の総仕上げと歩を一にしていた。それは物情騒然たる時期ではあったが、この岩見家の親子四人にとっては、落ち着いた実り豊かな時間であった。  京の都での生活は、この岩見家の兄妹にとって、決して楽なものではなかった。原因は重左衛門にある。京畿の親戚、知人から、「あの兵法狂いよ」「少しおかしいのではないか」と言われ続けたこの人物は、生活の糧を得ること以上に、兵法修行に没頭していた。  寺侍や商家の用心棒、はたまた近畿地方で乱あるときはその一隅に陣借りし、少々のまとまった金ができると、京八流やそれに連なる兵法者に教えを乞いにいそいそと出かけていった。長きに渡れば、幼い兄妹の生活は当然困窮せざるを得ない。落魄した公家の出であった母の親戚にまで、日々の糧を無心に行かねばならぬこともあった。  さらに悪いことに、五年前には貧しい暮らしの中でも朗らかさを失わず、兄妹を手塩にかけ養育してくれていた母・芳江も流行り病をこじらせ亡くなってしまった。親族たちは、これであの男も少しはまともになるだろうと、親子の行く末を見守ったが、逆であった。  重左衛門はますます兵法修行に打ち込むようになり、幾ばくかの金銭と、兄弟が稽古するべき内容の書き置きのみ置いて、長期間家を空けることが多くなった。  日の出の勢いであった秀吉の立身出世と共に、京畿も空前の好景気に沸き立っていたため、何とかこの家族も食いつなぐことができていたのである。  親族の、この家族を見る目もますます冷たくなりつつあった三年前のある日のこと、突如、父・重左衛門は切り出した。 「筑前へ行く」  筑前に所領を得た小早川家が、剣術指南役を求めていることを知らせてくれたのは、理財の才を生かし、随分と前から豊臣家で立身叶っていた重左衛門の義兄・薄田七左衛門であった。
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