帰還と暗転

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「お師匠?」 「そうよ、儂よ」  言いつつ覆面を取り払い、口に含んでいた綿を、欠けた歯や血漿と共に吐き出すと、甚助はすとんとその場に腰を下ろした。 「まあ座れ、重左衛門。やれやれ、弟子の栄達のために餞別を渡してやろうとして、危うく死ぬところだったわ」  甚助は闇の中で、笑顔を見せたようだった。  重左衛門は急速に腹部から氣が散じていような感覚と共に、猛烈な疲労感に襲われ、がっくりと膝をついた。 「それにしても……最近、常々お主の心を悩ませていたことには、決着がついたのではないか?」  はっと思い当たる節がある。このところ、重左衛門は己の恐れや、恐れからくる緊張について考えない日はなかった。  いかに自分の心中からそれらを排除するか、押し殺すことができるのか、そればかりを考えてきた。が、生死の切所に立って、恐怖も怯えも疑念も、どこにも消えもしなかったし、押し潰すこともできなかった。  それらをただ丸飲みした。  恐れは、確かに自分の中にある。どこにもいきはしなかった。だが、それを認めて、眼前の相手と、己のするべきことに全ての意識が集中し切ったとき、澄み切った意識でそれらを丸ごと包み込むことができた。  甚助は言葉を続けた。 「それが解れば、もう尋常の立ち合いで、お主が後れを取ることはあるまい。顔の傷は印可状代わりに取っておけ。何なら、林崎甚助重信から一本取り申した、と小早川家にて名乗っても良い。本当のことじゃしな……」  この稀代の武人は悪戯っぽく笑うと、ゆっくりと立ち上がり、背中を向け手を振った。 「では息災にな。お主はすでに、兵法者としては薹が立ちすぎた齢になっておる。急いで出立せよ。それに、道場に出入りしておったお主の童たち、重蔵は物覚えも早く才気ある少年じゃ。重太郎は……四書五経は放り出し、物語や軍記物ばかり読んではぼんやりしているので、門人の中には阿呆呼ばわりする者も居ったが、あれは実は勘所が良いように思う。重太郎にも目をかけてやれ。辻は……気持ちの優しい子じゃ。今までかまってやれなかった分、仕官叶ったときは、せいぜい可愛がってやることよ。親子四人、達者で暮らせよ」  それだけ言い終えると、よたよたと歩み始めた。甚助にしても、殺意を見せつけつつ圧倒し、かつ重左衛門を殺さない、などといった芸当は、至難の業であったに違いない。実際には、甚助は重左衛門より十ばかり年上なだけであるが、消耗しきったその後ろ姿は、さらに年老いた老翁のように見えた。  重左衛門は地面に手をつき見送ると、額を地面につけ、そのまま 「お師匠、お世話になり申した……」  と、それだけをようよう言った。こみ上げる涙は滂沱として止まらなかったが、拭いもせず、長く永くその姿勢を解くことはできなかった。
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