天橋立に、血の雨降り注ぐ秋

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天橋立に、血の雨降り注ぐ秋

  天橋立に、血の雨降り注ぐ秋  重太郎は倦み疲れていた。大坂を発って、すでに幾年もの年月が流れ去っている。  この間には、天下の様相そのものが変化するような大事が幾つもあった。四国を探索中の慶長三年(一五九八)には太閤秀吉が死に、瀬戸内の島々、山陽の探索を経て九州に入ると、俄かに天下の政情は風雲急を告げ、天下分け目の関ヶ原と後に呼ばれる大合戦が起こらんとした。  重太郎も小早川家の伝手を辿り、参陣するかと考えた。だがすでに、隆景から秀秋に代替わりしていた小早川家からは、以前より阿呆様と悪評が喧しい新主を嫌い、ほとんどの重臣たちが毛利本家に去ってしまっていた。現重臣たちは、新たに秀吉が金吾中納言秀秋につけた、稲葉正成や平岡頼勝といった家臣たちで、辿るべき伝手もなくなっていた。  さりとて、いずれの大名家も必死に兵を掻き集める中、別段伝手などなくとも、軍陣の端に加わることは容易ではあったろうが、縁も所縁もない大名家に仕える気にもならず、九州の動乱を横目に見ながらの探索行となった。    それにしても、と思う。東西両軍が豊臣家のため、秀頼のため、と口々に喧伝しあっていることはいるが、太閤死去から間を置くこともなく、徳川家康は天下を我が物とするため、活発に動き出している。その野心満々たることは、公家、大名はいうに及ばず、農民、町人などの庶民に至るまで誰もが知っている。  にもかかわらず、太閤恩顧の大名たちが続々と家康旗下に集いながら、「秀頼公の御為に……」などと言い募っていることの、奇怪さである。この者たちは本気で東軍勝利の暁に、家康がそれまで通り、豊臣家を這いつくばるように敬うと思っているのであろうか。また加藤、福島といった太閤と縁深い者どもを存続させると思うのであろうか。  まさかと思う。彼らとて、そこまで阿呆ではないはずである。一時、家康に味方したからとて、ただで済むはずがないのだ。  だが結果的には、彼らは、ぞろぞろと家康旗下に集っている。  恐ろしいのである。領地の広大さ、動員兵力の多さ、官位、戦歴どれをとっても頭二つ分程は抜けている家康に対し、物申すことができないのである。長いものに巻かれてでも、一時の安寧を得たいのだ。その後ろめたさが……豊臣家や秀頼への忠義を言い立てさせているようで、重太郎は薄気味悪かった。  重太郎自身が、もしまだ小早川家の家人なら、どうしたであろうか。主上に意見できる立場であって、東軍についた方が良いと判断したなら、「石田冶部とその徒党の顔ぶれを見るに、勝ち目は薄いように思われます。今後は徳川家に馳走致しましょう」と言うであろう。西軍につくなら、「太閤殿下への報恩のため、西軍に馳走致しましょう」と言うであろう。いずれにしろ、秀頼公の御為、東軍に馳せ参じましょうなどと、思ってもいない虚言を吐く気はしない。  建前であれ何であれ、誰もが虚言であると知っていることを、堂々主張できる人間とできない人間が、この世には居るのである。そして、幸か不幸か、岩見重太郎はできない人間なのだ。
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