生きる数字

2/7
前へ
/7ページ
次へ
 人間の煩悩は俗に108あると言われるが、「お前だけは100個なんだ」とわたしは両親や周りのみんなに言われてきた。産まれた時から、わたしは「100」に取り憑かれた人生を生きることになる。  幼稚園を卒業し小学校に入学すると、担任の先生は初めての学級の時間に、「百子(ももこ)ちゃんは、みんなと違って煩悩が100個しかありません。」とクラスのみんなに言い渡した。1年1組は31人しかいなかったけど、わたしの名簿番号は100番で、従って本来名簿番号31番になるはずだった渡部くんは30番だった。  家族とショッピングモールのフードコートで食事をする際は、品物を注文したあとに呼び出される、呼び出し番号の札もわざわざ100番にしてもらったし(本当は「10」と書かれていた札に、店員さんがマジックで0を書き足して「100」にしてくれた)、九十九里浜へ旅行に行ったときは、私が滞在したその時だけ臨時で一たされて「百里浜」になった。フードコートで注文待ちをしていた人は、わたしの番号が呼び出された途端、げっ、そんなに客が居るのかよ、とびっくりして違うお店に並び、運悪くその時九十九里浜に訪れた観光客たちは「百里浜」と書き直された看板をみて、これまた驚いて、目的地を間違えたと勘違いし引き返していた。周りに迷惑をかけるし、自分の宿命は幼いわたしとっていいことなしに思えたけど、唯一嬉しかったのが、消費税込で当時105円だったお菓子がわたしだけ100円で買えたことだ。  中学校に進学しても、わたしは引き続き名簿番号100番だった。体育の50メートル走はわたしだけ往復100メートル走らされ、さすがにグランド100周とかはやらされなかったけど、数字がからむ物事につけて、兎に角わたしは「100」やらされた。  他の子の2倍くらい走ったり泳いだり計算したりさせられて妙に(たくま)しくなったわたしは、ちょうど家から100キロ離れた高校に通うことになった。  高校のテストは100点満点しかとらなかった。授業で教師が教えることは既に全て知っていたし、周りの同級生も幼く見えてしまった。今思えば、わたしはこの時すでに100パーセントの女になっていた、もしくはそう自分を勘違いしていたと思う。勉学に限らず、スポーツや部活動、その他いかなる課外活動においても自他ともに認めるパーフェクトな人間に仕上がってしまった。幼い頃は、自分を縛り上げる「100」という数字の運命を、大きな支障はなくとも煩わしい足枷(あしかせ)だと認識していたけれど、思春期を経て自分の精神論や哲学が確立されることにより、「これは、自然の成り行きによってわたしが世界から受け取った、究極の人間に成長するための宿命なのだ。そういう因果なのだ。」と考えるようになった。  高校三年生になり、受験期を迎えるとき、わたしは担任から海外の大学への進学を薦められた。当時、学校の勉強に物足りないわたしは、あらゆる学問領域の専門書を片っ端から読み漁っていたのだが、そういえば肝心の進学先のことは全く考えていなかった。これからわたしは何を学び、どこへ進めばいいのかは、どんな本を読んでも唯一見当がつかなかった。  引き続き専門書で独自に勉強をしながら、一年かけてもその答えは出ず、結局わたしは担任の言う通り海外の大学を数校受験して全て合格し、世界トップレベルの大学に入学することになる。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加