生きる数字

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 言葉、植物、食べ物や街の景色、全てが新鮮で楽しかった。日本で全てを知り尽くしたように考えていた自分が愚かに思えた。わたしが100パーセントの人間だとしたら、120パーセント、130パーセントの人間が大学には山ほどいた。そんな人たちもわたしに対してとても優しく、沢山のことを教えてくれた。一人で暮らすことになった異郷で、わたしは「100」扱いされなかった。当たり前なのだが、この国の人々には、大晦日に鐘を108つ突いたり、煩悩というものを意識する文化は全くなかった。そもそも、人間が内に秘める特性や能力を定量的に評価することをあまり考えない場所なのだった。故にわたしは18年間生きてきてはじめて標準的な、周りの人と揃った生活が出来るようになった。  移り住んでから初めての夏に、わたしはジョディという女の子と友達になる。ジョディは言うなれば、90パーセントくらいの完璧さを持ち得ているという感じで(それでも十分賢いのだけど)、自分が専門とする学問に対しては周りほど熱心である様子が無かった。漫画やアニメが大好きな金髪で二十歳のジョディとは、ダンスパーティーで出会い、日本の文化について興味があるということで仲良くなった。ジョディはわたしのことを「モモ」と呼んだ。  ジョディはある日の授業終わり、「ねぇモモ、今日の夜BARに行きましょ。迎えに行くから」とわたしに言った。わたしは、バー?と首を傾げただけだったが、ジョディはその夜、一方的な約束の時間にフライングして、本当にわたしをアパートまで迎えにきた。わたしは言われるがままに彼女の運転する車に乗り、窓から入ってくる夏の湿った風を浴びながら景色をみていた。  倉庫が立ち並ぶ暗く怪しい通りを抜けたあと、冷蔵庫を合体させたような無骨な建物が沢山並ぶ、ネオンに照らされた街に出た。その中で、壁は白いけど緑の看板と緑の扉がついているひとつのBARにわたしは引っ張っていかれた。  中へ入ると、外のネオンの明るさとは反対に薄暗い空間があった。ジョディやわたしと同じくらいの年齢の人達が沢山いて、狭い地面を共有し合いながら、ジュークボックスから流れる古そうな音楽に体を揺らしていた。まだお酒も飲んでいないというのに、その景色に一気にくらりとしてしまい、わたしはジョディにしがみついた。  ジョディは、乾杯しよう、と言って、これまた狭いカウンターの中にいる店員にウォッカを二つ注文した。ジョディは好きなアニメのキャラクターやそのかっこよさについて滝のように語ったあと、電池が切れたようにガクッとカウンターのテーブルに突っ伏して眠ってしまった。握ったままのグラスには水割りがまだ半分以上残っていた。自分が連れてきたくせにどういうことだよ、とげんなりしていると、苦笑するように口を曲げたマスターが水を出してくれた。わたしはジョディを叩き起して、もう帰ろうよ、と言おうとしたが、ジョディの赤ちゃんのような寝顔を見ていると、なんだか急に自分は全くもってアウェーの地にきてしまったという実感が湧いてきて、わたしも暫くフリーズしてしまった。  考えごとをしながら、ぼーっと空を見つめていると、にわかに視界の隅にひとつの人影が現れた。わたしがその方に目を向けるのも束の間、その影はジョディの腰に手を伸ばし、皮の財布を抜き取って素早く出口の方向へ向かった。わたしはパニックになって、今度こそジョディをばしばしと叩いてやっとのことで上半身を起こしてやると、事情を説明した。ジョディはまだ醒めない眼でぼんやりとするだけで、全くわたしの言葉が飲み込めていなかった。どうしよう、と人のことなのに勝手に焦ったわたしは狭い店の中を見回すが、さきほどの黒い影は見つからない。  すると、どこからか野太い男の叫び声が聞こえた。「分かった分かった!悪かったって!離してくれよっ!」さっき見た黒い影であろういかにも泥棒面の男が、背の高い白人の店員に財布を掴んだ腕をねじ上げられていた。店員は勢いよくその腕を振り落とすと、脇から出てきたもう1人の大柄の店員に男の身柄を預けた。取り返した財布を持った体を翻して、こちらへ向かってくる。まるでおとぎ話のようにハンサムな青年だ。  そのころ呑気なジョディはまたカウンターに向かって眠りこけてしまっていて、わたしは再び慌てる。しかし、その店員は慣れた手つきでジョディを抱え起こし、「おい、起きろよ」と笑いながらジョディの頬を叩いた。ジョディは彼の腕の中で魔法を解かれたようにうっとりと目覚め、店員は「財布ぐらいしっかりもっとけよな」とからかうように言った。ジョディが目を擦りながら財布を受け取ると、次の瞬間二人は近くに居るのがはばかられる様な情熱的なキスをし始めた。突然の異様な光景に、わたしはウォッカの酔いが醒めないうちに悪い夢を見せられている気分になって、吐きそうになった。  わたしの悪い夢を解いたのはマスターだった。マスターは、キスをする店員のこめかみを人差し指でどつき、「こらっ、ピーター!仕事中になにしてやがる」と軽くちゃかすように言った。店員とジョディはそれでやっと互いの腕を解き、うっとりと一、二秒見つめあったあと、マスターに向かって恥ずかしそうな表情をした。それからジョディはわたし向かって、「モモ、彼がわたしの彼氏のピーターよ」とあっけらかんと手を広げてはにかんだ。
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