生きる数字

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 ジョディとピーターと一緒に、わたしは色々な遊びをした。ピーターは大学には通っておらず、BARと新聞配達のアルバイトをしながら小説家を目指していた。ジョディよりも年上の23歳の青年だった。ピーターは、ジョディとわたしの為なら、夜勤明けでも飛んできて一緒に遊んだ。ジョディもピーターも、わたしが知らないどうでもいいようなことを本当に沢山知っていて、話していると馬鹿らしくもなってきたけれど、死ぬほど面白かった。  ジョディとピーターとわたしは本当に仲良しになった。BARでの出来事のように二人の振る舞いに驚くことはしばしばあるのだけれど、わたしにとっては、徳を積んだような優しい性格の二人なのだった。二人ともわたしの生活の助けになるようなことを頼んでもないのに進んでやってくれるし、わたしが街でからかわれた時にはどこかから棒かなんかを持ってきてわたしより怒って追い払ってくれたし、わたしが大学で一人ぼっちにしているときは、何故か直ぐに見つけ出してどこかへ連れ出してくれた。  毎日ジョディの家で、テレビゲームをやったり、雑誌の服を見比べて遊んだりした。わたしが適当に作った詞にジョディがセンスある鼻歌でメロディをつけて、ピーターがギターを鳴らしてみんなで歌った。三人で夕方の日が沈む様子を、川の土手に座って黙って眺めたりもした。例のBARでマスターと一緒にただただ笑い話をして過ごす夜もあった。  三人して幼児返りしたような毎日を過ごして仲良く遊んでいたのに、時々わたしがジョディの家に遅れていくと、彼女の部屋から二人の喘ぎ声が聴こえてくることもあったので、なんとも距離が掴めない優しさに包まれた、夢見心地の異世界にいる感じだった。  というものの、幼い頃から勉強の習慣がついているわたしは、学業をおこたることは決して無く、大学で学年が上がると、「百」に関する世界の歴史や文学、数学について研究するようになった。  母国の「百」にまつわる文学、たとえば百人一首や内田百閒などや、他にもG・マルケスの『百年の孤独』をはじめとする「百」関係の世界中の書物を読み漁った。  どうしてわたしが今まで「100」という数字に取り憑かれて生きていかなければならなかったのか、それが知りたかった。思春期の日本にいた頃のわたしは、自分が「100」と共に生きていくことが良いこと、幸せな使命だと思っていた。しかし、この異国に来て分かった。世界の中に、100パーセントの人間は居ないし、わたしはそうではない。言われるがままに数字のように生きてきた過去のわたしよりも、今の、ジョディやピーターやマスターと過ごす毎日の方が、遥かに瑞々しくて楽しくて人間らしい。  わたしは多くの書物を読み漁るうちに、一冊の自然科学全体に関する本に書かれたある『数字』の存在を知った。
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