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第一話 再会の中華粥
一
よろよろとオフィスのエントランスを出ると、明るい陽射しが目にささる。
体内の淀みを入れ替えるように深呼吸をすると、乾いた喉の粘膜がヒリヒリと痛んだ。
まごうことなき風邪の症状だ。それも、かなりこじらせてしまった部類の。
自覚すると同時に、むせるような咳が出る。
喉の奥から、かすかな血の味がこみ上げてきた。
「……早退させられるわけだ」
掛けていたシルバーの眼鏡を外し、レンズを拭いて、また掛ける。
レンズに汚れはないはずなのに、どことなく世界がくすんで見えた。
日の高い時間帯に帰宅するのは、新人研修の初日以来――五年ぶりのことだった。
二
神田神保町に建っている、真新しいビル。その八階に、俺の職場が入っている。
俺は就職とともに上京し、このIT企業に入社した。
新卒エンジニアとして働き始めてから、そろそろ五年が経とうとしている。
ひとつの会社に五年間。
早期転職が当たり前のご時世に、そこそこ頑張っている方ではないだろうか。
――頑張りすぎた結果が、この、こじらせきった風邪であるのだが。
帰路を辿りながら、そんなことを考えていた。
その矢先。
「腹減った、かも」
最後に食事をしたのは、昨日の夜だったことを思い出す。昨夜の終電間際にカロリーメイトをかじり、今朝は抜き、昼は食い損ねた。
早期回復のためにも、カロリーを摂ったほうがいいだろう。
しかし――
家に帰っても、食べるものはない。スーパーで買い物をしたところで、それを調理する気力もない。コンビニで、ゼリー飲料でも買うのが妥当だろうか。
ゆるりとあたりを見回せば、一軒の中華料理屋が目に留まった。現在時刻は、午後一時五十三分。ランチ営業に、ぎりぎり間に合うかどうかというタイミングだ。
――そういえば大学生の頃は、風邪を引いたらニンニク大盛りラーメンで治してたっけ。
すでに、足は中華料理屋に向いている。
懐かしきニンニク大盛り、背脂マシマシのラーメンは期待できないだろう。だが、この際ラーメンならなんでもいい。
そういう心持ちだった。
赤いのれんをくぐり、引き戸に手をかける。年期の入った見た目に反し、戸は軽やかな音を立てて開いた。
「いらっしゃいませー」
店員――若い男の声が、いやに頭に響く。熱が上がってきたのだろうか。
こじんまりとした店内には、四人掛けのテーブルがふたつ。調理場を囲むカウンター席が五、六席。
先客はいなかった。他人に気兼ねする必要はなさそうだ。
知らず詰めていた息をほうと吐き、コートを脱ぐ。
少し迷って、一番手前のカウンター席に腰掛けた。入ってきたばかりの引き戸に、背を向ける格好だ。
着席とほぼ同時に、お冷やのコップがカウンターに置かれた。
「こちらメニューになります」
差し出されたものを受け取ろうとして、顔を上げる。
そこで初めて、店員の顔を見た。
赤茶色のセルロイド眼鏡をかけた、おとなしそうな顔立ちの男だ。
癖のない茶髪を、清潔感ある長さに整えている。
白いカットソーに、黒いエプロン。シンプルで、いかにも飲食店の店員といった格好だ。
もういちど顔に視線を移すと――こちらを見ていた店員の瞳が、眼鏡の向こう側で、驚いたように見開かれた。
おや、と思う間もなく。
カウンター越しに対峙していた店員が、ぐっと身を乗り出してくる。
「ち……千島? 千島正春!?」
目の前で声を上げる男の顔と、その声。
すっかり過去のものとなっていた記憶が、ぐいと引っ張り出される。
「そうだけど……もしかして、谷口?」
「そう、谷口。谷口啓だよ。覚えててくれたんだ!」
その名前を聞いて、ついに確信した。
目の前に立っている男は、高校時代の同級生だ。
突然の再会に驚いたのだろう。谷口の頬は、うっすらと上気している。
出会えたことを、心から喜んでいる。そういう顔だ。
――しまったな。
それが、俺の正直な感想だった。
さらに言えば、どうして谷口が俺に声を掛けてきたのか。その真意をはかりかねてすらいた。
なぜなら、俺と谷口は、ただの元同級生ではない。
「こんなとこで千島に会うなんてなぁ。九年……十年ぶり?」
「ん、そんなもんかな」
俺と谷口は、高校二年生の冬――盛大に衝突し、喧嘩別れをした。つまり、元友人――そう言っても差し支えない間柄だからだ。
「千島、同窓会来てくれなかったもんな」
「そういう谷口は、成人式来なかったろ」
記憶と同時に、かつての気まずさがよみがえってくる。
笑顔がひきつらないよう、頬にぐっと力を込めた。
「あ、そっか。すれ違いになってたんだなぁ」
対する谷口の笑顔は、驚くほど自然だ。
純粋に、旧友との再会を喜んでいるように見える。
明るい髪色とあいまって、その表情はずいぶんとあか抜けたように感じられた。
――こいつ、喧嘩のこと忘れてんのか?
気が抜けた瞬間、げほげほと咳が出る。
「あれ? 風邪気味?」
「ちょっとな。今日は会社早退した」
谷口は、あからさまに眉をひそめる。
「中華料理なんて食べて大丈夫? 脂っこい料理多いよ?」
「だいじょーぶ。昔から、風邪はラーメン食って治してるから」
これ幸いと、谷口から視線を外した。
カウンターの上にメニューを置いたまま、うつむくようにのぞき込む。
麺類の項目を指でたどっていると――すっと、メニューが引き抜かれてしまった。
追いかけるように顔を上げる。
犯人は、ひとりしかいない。
「こら、店員が注文の邪魔すんな。店長を出せ」
「残念でした。店長は今、昼休憩。っていうか千島、ラーメンで風邪が治せるような歳じゃないでしょ」
言い返せないでいると、谷口はいたずらっぽく目を細めた。
「俺も去年、レバニラで治そうとして大変な目にあった」
「お前もか」
「先達の言うことは聞いとくもんだよ」
「同い年のくせに」
「体験談の重みが違うだろ?」
軽口に、軽口が重なる。
喧嘩をする前。ただの友人であった頃と変わらないテンポは、懐かしさと違和感を交互に呼び起こす。
「今日はキッチン担当のお任せにしなよ。風邪にいいもん出すからさ!」
言うや否や、谷口は業務用冷蔵庫の扉を開けた。
俺の返事を聞く気はないらしい。諦めて、右手で頬杖をついた。
「……谷口、料理もするんだな」
「まぁね。バイトで慣れてるから」
聞かせるつもりのなかったひとりごとに、すっと言葉が返ってくる。
そうか、と返事をしたつもりだったけれど、谷口に届いていたかどうかはわからない。
待ちの姿勢に入ったとたん――思考は、喧嘩をした〝あの日〟に飛んでいた。
三
喧嘩をしたのは、高校二年生の、秋のはじめ。
俺は、東京から電車で五時間は離れた田舎街に暮らし、地元の高校に通っていた。
夜の訪れが、日に日に早くなっていた時期の話だ。
その日も、放課後の教室にはオレンジ色の夕陽が差しこんでいたように思う。
俺と谷口は教室に残り、何ともなく雑談をしていた。
話題は、進路についてだ。俺も谷口も、県外にある理系国立大学への進学を希望していた。
理系の大学受験は、文系のそれより難易度が高い。それが、その高校に通う生徒や教師陣の、おおよその認識だったと思う。
そのせいだろうか。あの高校では、三年生進級のタイミングで、志望大学の傾向ごとにクラス分けがなされることになっていた。理系のクラスと文系のクラスは、校舎ごと離れてしまう。
俺と谷口は、二年生まで理系のクラスにいたのだが――俺は、進級とともに文系へ転向しようと考えていた。
勉学は、平均程度にはこなせていたと思う。死にものぐるいで努力し続ければ、理系の大学だってなんとかなったのかもしれない。
それでも俺は、文系に転向することを決めた。大学受験に失敗するのが、どうしても怖かったのだ。
それを谷口に打ち明けたのが、口喧嘩の発端だ。
俺の言葉を受け取った谷口は、しばし茫然としたあと、ゆっくりと口を開いた。
「文系は将来大変だよ。就職とか……やめなよ」
そんな内容のことを言われたと思う。
ショックだった。
文系に転向することを、否定されたからじゃない。
俺は〝大学受験の失敗〟なんていう、目先の恐怖に囚われていた。それなのに谷口は〝将来〟や〝就職〟を――俺よりも、もっとずっと、先を見ていたからだ。
自分の幼さを、突きつけられた気分だった。
「口出すなよ。谷口、俺の将来に責任取れんの?」
もっともらしいことを、言い返した。
そのあとも、ひどい言葉を重ねたと思う。
最初は驚いていた谷口も、俺の言葉につられるように、語気を強めていった。
軌道修正はできなかった。
俺は、劣等感の塊になってしまっていたのだ。
――そして、それ以降はお互い言葉を交わすことなく、三年生に進級。
宣言通り、俺は文系クラスに転向し、理系クラスの谷口とは校舎が分かれた。顔を合わせることもなくなった。
移動教室のとき、姿を見かけることもあった。
でも俺は、受験の忙しさを理由に、谷口を避け続けた。
大学には、無事に合格した。
しかし最後まで、谷口に声をかけることはできなかった。
四
「はい、おまちど」
ふっと、我に返る。苦笑する谷口と目が合った。
ずいぶん長い間、物思いに沈んでいたようだ。
「中華粥です。トッピングはサービスだから」
目の前に、湯気を立てる白いお椀が置かれる。
続けて、小鉢が三つ。
「ザーサイと、茹でた鶏肉と、針生姜ね」
小鉢のチョイスに、病人への気遣いが見えるようだった。
「なんか、悪いな」
「いーって。ただ、店長にはナイショね」
「……ん」
頷いて、お粥に目を向ける。
うっすらと漂う鶏出汁の香りに、改めて空腹を自覚した。本当は、ラーメンのように味の濃いものを食べたい気分だったが――風邪を引いたときくらいは、薄味の食事で養生することも大切なのだろう。
中華料理屋で、わざわざお粥を食べるのは初めてだ。
「いただきます」
手を合わせて、れんげを手に取る。
真っ白なおかゆの真ん中に、赤いクコの実が乗っている。
その実をおかゆに沈めないよう、そっと白い部分だけをすくいあげた。
口元まで運ぶと、眼鏡のレンズがふわっと曇る。慌てて口に含むと、鶏の出汁が口内にふわっと広がった。
その濃厚さに、驚く。
塩分は控えめなのかもしれない。しかし芳醇な鶏出汁の香りで、物足りなさは感じない。それでいて、からっぽの胃に染みる、優しい味。
粥、という名から連想する〝薄味の柔らかい米〟とは、まったくの別物だった。
トッピングで塩分を追加しなくても、完食してしまえそうだ。
がっつきそうになる手を押しとどめて、お冷をひとくち。
めがねを外して、小鉢に手を伸ばす。
クコの実を中心にして、左前にザーサイ。右前に茹でた鶏肉。奥の真ん中に針生姜。
混ざり合わないよう、お粥の上に乗せた。
茹でた鶏肉にお粥を絡めて、ひとくち。
しっとりとした鶏肉に、お粥が風味を添える。もちろん美味しいが……飲み下して、分けて乗せていたトッピングを、お粥全体に混ぜ込んだ。
あとは、無心で食べる。
ザーサイの酸味。生姜のさわやかな香り。茹で鶏のほのかな脂。
その三つがお粥に混じり合って、れんげを運ぶ手が止まらない。
半分ほど食べたところで、お粥の中からクコの実を見つける。口に含めば、ほんのりと渋みのにじんだ、野性的な甘み。このお粥が中華料理であることを、なにとなく意識した。
初めて食べたが、中華粥というのは、こんなにおいしいものだったのか。
それとも、谷口が特別に料理上手なのだろうか。
お粥から視線を外し、カウンターのほうをちらりと見る。少し離れた場所からこちらを眺める谷口と、目が合った。
俺に向かって、シンプルな問いが投げかけられる。
「おいしい?」
その瞬間。
この優しい味と、谷口の存在がすっと噛み合って――ぶわりと視界がにじんだ。
「……う、わ」
涙があふれてきたのだと気付いて、あわてて下を向く。
谷口に、見られただろうか。否、見られていないはずがない。
どうして泣いてしまったのか、自分でもわからない。ただ、わかるのは、自分が久しぶりに〝食事らしい食事〟をしたということだ。
仕事が忙しい自覚はあった。人間らしい生活を、少しずつ削って――でも、みんなそんなものだろうと思っていた。
それなのに、このお粥を食べて、気付いてしまった。
俺は自分で思うより、ずっと参っていたらしい。
――そのとき、谷口が近づいてくる気配がした。
ぎゅっと目をつむり、急いで涙を切る。しかし、濡れている頬をどうごまかそうか。
カウンターを回り込んで、谷口が俺のとなりに立つ。
何かを言われるかと思った。
しかし谷口は何も言わず、お冷のコップに水を注ぎ足した。
「わるい」
「いーよ、慣れてる」
「……この店、俺みたいな客多いのか?」
ご飯を食べて泣き出す成人男性が、そうそう居るとは思えないが。
「そうじゃなくて、泣い……えっと、疲れてる子の話聞く機会が、ときどきあるから」
「人生相談みたいな?」
「そんな大げさなもんじゃないけどね。バーで働いてるから、女の子のお客さんとかから」
「あ?」
〝女の子〟というワードに、思わず妬みの声が出る。こちとら、会社員歴イコール恋人いない歴を更新中の男だぞ――いかんいかん、感謝の気持ちが霧散しかけた。
余計なことを言いそうになる口を、お粥で封じる。
最後のひと匙まで丁寧に、米粒ひとつ残さず戴いた。
注ぎ足してもらったお冷を飲み干すころには、涙もすっかり乾いていた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
「いや、ほんとにうまかったよ。谷口が料理人になってるとは思わなかった」
「料理人?」
谷口は目を丸くし、照れくさそうに笑う。
「そんなんじゃないよ。俺はただのバイト」
「そういえば、さっきバーで働いてるとか言ってたな」
「うん、そっちもバイト。っていうか、本当はそっちの店がメインかなぁ。ここには、ヘルプで入ってるだけなんだよね。次のバイトさんが見つかるまでの、繋ぎって約束でさ」
そう言う谷口に、悪びれた様子は見当たらない。
そんな谷口を見て、俺は――谷口への興味が、むくむくと湧き上がってしまった。
就活に失敗したのだろうか。
はたまた、夢を追っているのだろうか。
――俺には、就職がどうこうって言ってきたくせに。
そう思ったら、もうどうしようもなかった。
会計伝票を持ってきた谷口に、俺はなんでもない素振りで声をかける。
「あのさ谷口。また今度、メシでも食いに行かね?」
「千島の風邪が治ったらね」
「来週の土日は? 夜なら金曜でも大丈夫だけど」
「来週は……ごめん、ぜんぶバイトで埋まってる」
「じゃあ、再来週」
「再来週も……あー、ごめん。俺、基本的に平日休みなんだよね」
「まじかぁ」
「飲食は、土日と祝日が稼ぎ時だからねぇ」
考えてみれば、飲食店で働く谷口と会社員の俺では、勤務形態が違って当たり前だ。
しかし、だからこそ。ここで約束を取り付けなければ、次いつ会えるかわからない。
それに俺は、どうしても谷口ともう一度会うのだと決めていた。
高校生活最後の一年間に、ちいさく影を落としていた男。
俺の就職を心配して、喧嘩の原因を作っておきながら――自分自身は、のうのうとフリーターをやっている男。
十年も前の、ささいなひと言を根に持っている俺のほうが、どうかしているのはわかっている。
それでも――こいつが今日までどう生きていたのか、俺は知りたくなってしまったのだ。
必死で食い下がろうとする俺を、谷口は不思議そうな顔で見ている。
やや考えるような間のあと。
「あ、そっか」
そんな呟きとともに、谷口はエプロンのポケットから、小さな手帳を取り出した。
「それじゃあさ、俺のバイト先に、飯食いに来る?」
「えっ?」
最初は、言われた意味がわからなかった。ぽかんとする俺に、谷口は手帳を開きながら続ける。
「来週の土曜日、昼過ぎからバイト入ってるんだけど、いっつも割と暇なんだよね。ほとんど店番みたいな感じ」
「……アイドルタイムってやつか?」
「そうそれ! だからさ、千島がよければ、メシ食いに来なよ。お喋りはカウンター越しになっちゃうけど、その分サービスするからさ」
なんだか、キャバクラの営業をかけられているような気持ちだ。
俺の複雑な心持ちを知ってか知らずか、谷口は、ランチの誘いをこう締めくくった。
「俺に注文してくれたら、俺が作るし」
「じゃあそれで」
即決だった。
一度〝うまい〟と認識してしまったメシをみすみす逃すほど、食への執着は死んでいなかったらしい。
――いや、それ以前に。
谷口がどんな誘い方をしてこようが、俺が複雑な気持ちになる必要はなかったはずだ。
俺は、谷口と仲良くメシが食いたいわけじゃない。谷口のことを詮索したかっただけなのだから。
後ろ暗い好奇心に蓋をして、「来週の土曜日な」と繰り返す。
谷口は、うんうんと頷きながら、手帳にメモを取っていた。
「昼の、二時集合でいい?」
「おう。二時に、この店な」
「ううん、集合は駅で。水道橋なんだけど、大丈夫?」
「え?」
「言ったでしょ? この店も、臨時で働いてるだけだって。俺、他にもイロイロ掛け持ちしてんの」
「掛け持ちっていくつ?」
「あはは、ナイショ。っていうかコロコロ変わっちゃうから、はっきりいくつとは言えないなぁ」
谷口のプライベートが、ますます気になってしまう情報だ。
詳しく聞きたい気持ちをぐっと抑えて、呟く。
「……水道橋の駅に、二時」
「そうそう、よろしく! 待ち合わせは東口ね」
次は、どんな店なのだろうか。
「なあ、谷口……」
「あ! いらっしゃいませー」
尋ねようとした瞬間、タイミング悪く、新しい客が入ってきた。
申し訳なさそうな顔をする谷口に、ひらひらと手を振って、カウンターに代金を置く。
そうして、やや慌ただしく、俺は店を後にした。
五
「あ、連絡先」
谷口の連絡先を聞き忘れた。そのことに思い至ったのは、駅の改札をくぐる直前だった。
あの店から駅まで、歩いて十分前後。うまいものを食ったおかげか、体調も少し良くなったような気がする。
引き返してもよかったが、今、谷口と顔を合わせるのは、なんとなくためらわれた。
高校卒業後に一新した連絡先を、千島には教えていない――昔のことを忘れている様子の谷口に、喧嘩のことを思い出してほしくないのかもしれない。
もしくは、品の良くない好奇心に突き動かされたことを、今更ながら恥じているのかもしれない。
難しいことは、考えたくなかった。
頭の回転が鈍るのは、きっと風邪のせいだ。
そう、自分自身を納得させた。
ともかく、約束は取り付けたのだ。
来週の土曜日、昼の二時に、水道橋駅の東口。
そこに行けば、会えるはずだ。もし、会えなかったら――そうしたら、俺と谷口の縁もそこまでだ。
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