行く末

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行く末

 花の色は うつりけりな いたずらに   わが身世にふる ながめせしまに  あぁ、たしかそれは小野小町の歌だと、舟を操る船頭は思った。彼が耳にした歌は乗り合わせている尼僧が口ずさんだものだ。  船頭は後方を振り返る。尼削ぎされた射干玉色の髪は肩で切りそろえられ、彼女の眼は優しげな眼差しを川面へと落としていた。  揺れる川面は銀色に輝き、彼岸に生える山桜の姿を映しこんでいる。尼僧は白い手を川面へと伸ばし、川を下る花笹を優しくなでていた。 「お好きなんですか? 桜」 「えぇ、とても」  帰ってくるのは、鈴のように玲瓏な声音。彼女はゆったりと川面から手を離して、船頭へと笑顔を向けてくれた。  久しぶりの客は、なんと品が良くて美しい方だろうか。上機嫌になって、船頭は思わず顔を綻ばせてしまう。そんな船頭に、彼女は続けた。 「昔は、桜の散る様子が自分の哀れな身の上と重なって泣いてばかりいました。でも今は、この旅が楽しくて楽しくて、仕方ありません」 「冥府の川下りが、そんなに楽しいですか」 「だって、ほら」  彼女は横へと顔を向けた。その先には、レールの走る岸部が見える。そのレールの上を、黒塗りの汽車が走っているのだ。アルコールで走っているそれは、黒い煙も出すことなく銀の水面を讃える川面にその姿を映しこんでいる。 「桜が散ってすべてが色あせても、面白おかしく時は変わるものですね。それも、あの世がこんな姿になるだなんて思ってもみなかった」 「へい、最近はあの列車のせいで、この仕事もなかなか客が付かなくて大変なんです。ジョバンニとカムパネルラだったか? 二人がこの黄泉の川をあの列車で旅した本が現世で売れに売れてね。今の子たちに言わせれば、渡し舟なんて古いそうで……」 「あんなに急がなくても、ゆったり旅は楽しめばいいと思いますのに」 「それが、そうも行かないようで」  船頭は汽車へと顔を向けていた。窓際の席に二人の青年が向かい合って座っている。彼らはお互いに微笑みないながら、一つの林檎をかじり合っていた。 「ここで、彼らを見るのは何度目かしら?」 「何度も生まれ変わっては、ここで再開するのが死後の楽しみなんだそうです。銀河鉄道の職員たちからそう聞かされています」 「ジョバンニとカムパネルラでしたっけ」 「はい。これで生まれ変わって再開するのは、三度目ですね」 「こうやって、彼らを見つめるのも三度目ね。私は彼らよりずっと前に死んだのに、まだ一度も生まれ変わってないわ」  鈴のようのように笑いながら、彼女は口を開く。  我死なば 焼くな埋ずむな 野にさらせ  痩せたる犬の腹を肥やせよ  その歌を聴いて、船頭はぎょっと眼を見開く。 また、小野小町の句だ。それも辞世の句。私が死んだら焼いて埋めないでください。野にさらして、犬の腹を満たしてあげてください。  恋多き歌人として知られる小野小町最後の歌にしては、なんとも悲壮なものだ。 「いやはや、そんな歌をうたうものではありません」 「いえ、私はこの歌が好きですよ」 「今のあなたには、こちらの方が似合いますよ」  苦笑して、船頭は口を開いていた。  ゆく川の水は絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 「鴨長明の方丈記」 「ゆく川の流れは絶えず、その上もとの水と同じでない。淀みに浮かぶ水の泡は生じては消えて、長く同じところにとどまることも知らない」  笑いながら尼僧が船頭の言葉の引用元を口にしてみせる。船頭は得意げに言葉の意味を話してみせた。 「それが書かれた時代に、私はまだいませんよ」 「でも、私と出会ってお知りになったでしょう。びっくりしましたよ。あなたがまだ旅を続けてらっしゃるから」 「なかなか、降りたい岸部が見つからなくて。まるで、恋を渡り歩いていた若い頃のようですわ。船頭になったあなたと再会したときは、それはもうびっくりしましたよ」  無常の支配する浮世の生を終え、彼女とこの笹舟に乗り合わせたのはいつのことだったろうか。自分の書いたお気に入りの言葉と似ているこの職が気に入って、彼は黄泉の河の船頭として働くことを決めた。  まさか、旅を続けている彼女を乗せるとは思いもよらなかった。  まったくもって、人の出会いと別れというものは、川の流れのごとく留まるところを知らない。新しい出会いと別れが一気に起こったと思えば、こうやって思いがけず先輩とも呼べる人物と再会することもある。 「まったくもって、これだからあの世の旅はやめられません。川の流れのように、一度として同じことが起こらない」 「それは、現世でも同じでしょうに」 「私はどうも一つのところにとどまれない性分なのです」  そう言って、彼女はころころと笑ってみせる。ああ、本当にこの人は何と魅力的な女性だろうか。男たちが放っておかないのも無理はない。  だが、水の流れのごとく自由な彼女は、一つのところにとどまることを知らないのだ。  現世でも、この黄泉の世界でも。  そんな彼女を自分の好きな岸部に誘ったらどんなに面白いだろう。でも、今は彼女との旅をこうやって楽しみたいものだ。  竹で銀色に輝く川の底をつきながら、船頭はゆったりと川を下っていく。  汽笛が鳴る。船頭と尼僧は顔を上げ、二人の青年を乗せた汽車を笑いながら見送るのだった。  
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