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ちくたくなのか、ちっくちっくなのか、たくたくなのか、夜の零時を過ぎた時計の針が、ゆっくりと、ゆっくりと、深く響く。暗い部屋で机の電気だけを点けて、画用紙に鶏の絵を描いて遊んでいた。鉛の粉が画用紙の繊維にこびりついた。細く流せば、さりっさりっと鳴り、太く押し付ければ、ごりっごりっと鳴り、そのふたつの真ん中くらいの力加減では、ざりっざりっと鳴る、ように聞こえた。
机の材質と、画用紙と、畳と、着ている服の布と、飲みかけの温かなレモンティーと、膝にかけた毛布の重みと、少し湿った髪のシャンプーの匂いと、唯一光り続ける机の電気と、あらゆるものが混ざり合い、夜の零時を過ぎた恰好をしていた。
そういう心安らぐ空気を換えたくないと思っていながらも、外の冷たい空気を浴びてみたくなった。視線を鉛色の鶏から窓ガラスへと移す。外の景色を見るつもりだったが、机の電気の光が反射して写し出されていた。
椅子を後ろへ引いて、畳が擦れた。窓に近づくほど、窓に写る人影も近づく。鍵を外し、窓越しに人影と触れた。そのまま窓ガラスを横にずらせば、人影は消えて、夜の景色とともに冷たい風を感じた。結露と指紋が窓ガラスに残った。
遠くに見える黒い山よりも、近くに見える黒い木の枝葉よりも、暗い中で青く光る誘蛾灯が目立っていた。誘蛾灯が、ぱちっと鳴った。それからしばらく待って、ぱちっと鳴った。そのあとすぐに、ぱちっぱちっと鳴った。また、少しおいて、ぱちっと鳴った。瞬きのように命が燃やされて、砂になるのが儚かった。それでも青い光は綺麗で、蛾は踊るように舞い続けていた。
家の裏から山を登ることが出来て、誘蛾灯が照らす道を挟んだ、ガードレールの向こう側は何もない。ただ、町まで下ってゆくだけ。だから、誰も通るはずがない。暗く、とても静かな夜。息は白く、後ろの机に置かれたコップに入っている、レモンティーの香りが外へ逃げていく。窓ガラスには、まだ指紋が残っているが、結露はとうに消えていた。
コップを抱え持ってから、窓の方へと戻った。レモンの香りを直に感じながら、手を温めた。冷え切る前に飲み干したかった。一口飲めば、それが口から喉へ、そして胃の中へと流れていくのが分かった。一口ずつ、ゆっくりと含み、飲み込んだ。
時間は流れ、お腹は温かくなっていき、コップは冷えていった。そして、吐く息の白さが濃くなったように感じられた。誘蛾灯が、ぱちっと鳴った。風が吹いて木々が、ざあざあと鳴った。たくさんの葉がひとつの役目を全うし、風に乗って、枝から離れ、やがて落ちた。先に冷たくなったものたちと一緒に、彼らは朽ちていく運命を受け入れたようだった。窓の淵を人差し指でなぞったら、埃がこびりついた。腕を窓の外へと伸ばした。遠くの黒い山に向かって伸ばした。木々が、ざあざあと鳴ったら、ほとんどの埃が吹かれていった。そして、人差し指と親指を摺り合わせて、残りを下へと落とした。それからしばらく青く光る蛾の踊りを眺めていたら、ウサギが通り過ぎて行った。暗いけれど、見えた。見られていることも知らずに悠々と跳んで走るウサギを思うと、可笑しかった。ウサギを描いていれば良かったなと思った。
机に冷え切ったコップを置いて、椅子に座って、続きを描こうと思ったけれど、窓が開けっぱなしになっているのに気が付いて、もう一度、椅子を後ろへ引いて、開いている窓を向いたとき、何かが入ってきた。一瞬、さっきのウサギかと驚いたけれど、そうではなかった。それは、ウサギほどの霧だった。霧というのが、適切だと思った。どうやら霧は生きているようだった。
「なあに?これ?」
そう言っても、霧は声を発することはなかった。霧は、ただ漂い、部屋の端から端へと動いたり、天井と畳の間を上下したりしていた。近づいて、恐る恐る手を伸ばして、触れてみようとした。触れる寸でのところで、避けられた。もう一度、試してみた。また、寸でのところで避けられた。それからは、常に一定の距離を保つようになった。
「あなた、道に迷ってしまったの?」
なんとなく、逃がしてあげようと思った。窓まで誘導してみるけれど、霧が部屋から出ることはなかった。冷たい風が顔に当たった。窓を、閉めた。窓には指紋が増え、机の電気の光が反射して、人影が現れた。霧に影はなかった。椅子に座り、腕を組みながら、しばらく霧を睨んでいた。唇が少し乾いたから、舌で舐めた。霧は漂い、部屋の端から端へと動いたり、天井と畳の間を上下したりしていた。
ちくたくなのか、ちっくちっくなのか、たくたくなのか、時計の針が、深く響く。鶏を描き上げて、羊を描いている最中でも、後ろからずっと霧の気配を感じていた。音も匂いもないのに気配だけがある、その不思議な存在の他愛無い変化に気付いてはいるけれど、認めたくはなかった。鉛筆を置き、身体ごと後ろを振り向いて、霧を見た。霧は、大きくなっていた。両手をいっぱい広げたくらいの大きさになっていた。溜息をつき、天を仰いだ。
「ねえ、いつまでいるつもりなの?」
左右の頬を、ぱんぱんと叩いた。気合を入れて、続きを描こうと思ったら、霧の方から近づいてきた。目を細めて、少し身体を後ろに引いてしまった。時計や外の風の音、周りの音が小さくなったように感じられた。恐る恐る手を伸ばして、今度こそ触れてみようとした。霧は避けなかった。受け入れたようだった。けれども、触れた感覚はなかった。ただ、霧の中というのだろうか、その空間は生々しく温かかった。本当は怖いはずなのに心地よく感じて、分からなくなった。触れているあいだ、霧は色を暗く濃くしていった。霧の中から手を外そうと動かした。その感覚は、はじめに霧の中に手を入れたときの、触れていないような感覚とは違い、温かい水、湯の塊のように感じられた。
やがて手を外に出したとき、すでに霧の中ではないはずなのに霧の中の感覚がねっとりと残っていた。霧は、また部屋の中を漂い回りだした。手に残った生々しく温かい感覚を煩わしく思いながら、羊を描き続けた。鉛の粉が画用紙の繊維にこびりついた。細く流せば、さりっさりっと鳴り、太く押し付ければ、ごりっごりっと鳴り、そのふたつの真ん中くらいの力加減では、ざりっざりっと鳴る、ように聞こえた。机の材質と、画用紙と、畳と、着ている服の布と、飲み切った冷たいコップと、膝にかけた毛布の重みと、少し乾いたレモンの匂いと、唯一光り続ける机の電気と、あらゆるものが混ざり合い、夜の一時を過ぎた恰好をしていた。
景色が景色では保っていられなくなり、生々しく温かな感覚が全身に広がった、そのとき、何かが後ろから肩を優しく叩いてきたから、
私は、眠りについた。
「ねえ。」
と、夢の中で、霧が言った。霧の声は小さな小さな子供のようだった。そして、霧は続けた。
「ありがとう。あと、おめでとう。」
そう言うと、霧は、みるみる形を作っていって、やがて紫色のウサギになった。
やっぱり、ウサギだったんだ。
「妊娠、おめでとう!」
そうか、わたし、妊娠するのか。
紫色のウサギは跳んで走りながら、夢の外へと消えていった。その姿を見ていたら、何だか可笑しくて、笑ってしまった。
ちくたくなのか、ちっくちっくなのか、たくたくなのか、時計の針はもう聞こえない。
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