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オメガじゃない(★)
日が沈んで星の光がうっすらと目視出来るようになった頃、白いシャツと黒の腰巻きエプロン姿の年配の男性が夕食を運んで来てくれた。
ミズキは、椿を助けて家に置いてくれたばかりか、有り難い事に食事まで手配してくれたらしい。
ホワイトソースで線が描かれたビーフシチューに、切り分けられたフランスパン、三日月形のオレンジが添えられたみずみずしいサラダ。
硝子作りの水差しとコップには指紋ひとつ付いていなくて、触れる事が戸惑われた。
それらが、曇りひとつない銀色のトレーに乗せられている。
年配の男性はトレーをテーブルの上に置くと、深々とお辞儀をして静かに部屋から出て行った。
死んでいてもお腹は空くらしく、濃厚なシチューの香りを間近で堪能した途端に椿の腹の虫が大きな鳴き声を上げた。
(食べていいのかな……)
いくら美味しそうだとはいえ、別世界の食べ物だ。
椿がいた世界の物と差異の無い見た目ではあるが、体に何らかの害が無いとは言いきれない。
虫の丸揚げや、名も知らない動物の血肉が入った料理が出て来たらどうしようと思っていたが、今となってはそちらの方が良かったかもしれない。一目で、食べるべきではないと決断出来るからだ。
しかし今目の前にあるのは、生唾ものの美味しそうなディナー。
ビーフシチューから立ち上る湯気がゆらゆらと踊り、葛藤する椿を誘惑している。
ぐうぅっ、と、再び腹の虫に催促され、椿は意を決してスプーンを手に取った。
とろりとしたシチューを野菜ごとすくって、一口で頬張る。
(……うっ、まーっ!)
高級ホテルで食事などした事は無いが、このシチューがそうですと言われれば疑いもしない。
味の深みもそうだが、口の中に広がる香りが、家庭で出されるようなシチューとは全く違う。
一度食べてしまえばもう止める事が出来なくて、椿はがつがつと残りの食事を食べ進めた。
シチューばかりでなく、サラダやパン、何の変哲もない水ですら驚く程に美味しい。
食器の中はみるみるうちに綺麗になっていき、最終的にパンの欠片ひとつ残さずに平らげてしまった。
椿は満足気に息を吐くと、座っていたソファーに深く腰掛け直しだらしなく身を沈める。
この世界に来て良かった。初めてそう思えた。
(まぁ、食べ物くらいでどうにかなったりしないよな……)
少なくとも、こんなに美味しい料理が毒であるはずがない。根拠の無い確信が込み上げてくる。
こちらの世界で目覚めた瞬間から、椿は少し楽観的な性格になっている。
まぁ、なんとかなるだろ、という思いが、常に頭の奥底に揺蕩っている。
それは本人も自覚していて、不思議な気分ではあったが、嫌ではなかった。
いつもいつも暗い事ばかり考えていた頃と比べたら、酷い目にはあったが今の方が何倍も楽に感じる。
(あぁ……、でも、これは、どうしよう……)
空になった食器が並ぶ銀トレーの横。
そこに、コルクで蓋のされた小さな硝子瓶が置いてある。
中には白い錠剤が数粒入っていて、瓶には“発情抑制剤”と手書きで書かれたシールが貼ってあった。
食事が終わったらすぐに飲むように。ヒナタがそう言って椿に渡していったものだ。
食品と違って、薬は中に何が入っているのか見当もつかないのが恐ろしい。
こればかりは、楽観的に構えている事は出来なかった。
本当にオメガの薬かもしれないし、もしかしたら毒薬かもしれない。
前者だったとしても、異世界から来た椿の体に合うかどうかは分からないのだ。拒否反応を起こして、身を守るはずの成分が毒に変わる可能性はゼロではない。
そもそも、自分がオメガだという宣告を、椿は微塵も受け入れていなかった。
小瓶を目前にかかげ、左右に振ってみる。硝子の向こうで、小さな粒がカラカラと跳ね回った。
「……いや、無理。やっぱ薬は無理」
こちらの世界に放り出されたばかりの時に感じた、身を焦がすほどの性的欲求。
万が一にもあれがオメガの発情期の症状だとしても、今は何とも無いのだ。逆に肌の感覚が鈍くなっているくらいだった。
「まぁ、寝ちゃえば関係無いよな」
ここにきて、浅慮な部分が再び顔を出す。
柔らかなベッドに体を横たえ、ふわふわの羽毛布団で体を包み込む。
もし朝起きて何とも無かったら、めでたしめでたし。体に異変があったら、その時に薬を飲むかどうか考えよう。
寝心地抜群なベッドの上で大人しく目を閉じていれば、ほんの数分も経たないうちに睡魔の誘いがやってきた。
すとん、という表現がしっくりくるほどに呆気なく、椿は眠りに落ちていった。
「……っ!!」
体に衝撃を感じて目を開ければ、シャンデリアが吊るされていたはずの天井が穏やかな青空に変わっていて驚愕した。
壁だった部分にはたくましい木々が生えており、包み込むような柔らかなベッドは所々を草に覆われたかたい土になってしまっている。
それに、シルクのパジャマで眠っていたはずなのに、こちらの世界に来た時に身に付けていた着古したスウェットに戻っていた。
背中が痛くて起き上がろうとするが、体が動かない。それに何だか、苦しい。
首だけを起こして自分の体を確認してみれば、更に衝撃的な光景が視界に飛び込んで来て意識が遠のいた。
「ミ、ミズキさん……!? 」
左右に大きく開かれた椿の太ももの間に、ミズキが跪いている。
助けてくれた時と同じ、軍服のような白い制服を着ていたが、その瞳は、椿の容態を案じてくれた時のような優しさに満ちたものでは無く、睨まれただけで身が震えるほどの凶暴な光を放っていた。
薄く開かれた唇からは荒い呼吸音が聞こえていて、それに合わせて肩が大きく上下している。
本当にミズキさんですか? 思わずそう尋ねてしまいそうになった。
「あっ……!」
ミズキは椿の腰を掴むと、強引に自分の元へと引き寄せた。
ズボンと下着はいつの間にか脱がされていて、片方の足首に纏わりつきぶら下がっている。
あらわになった臀部の谷間を何か硬いもので押し広げられ、ひっ、と喉が引き攣った。
もしかして、と、とある形状が真っ先に頭に浮かんだが、信じたくなかった。恐ろしくて、確認する事すら出来ない。
その固形物は尻臀の奥に隠れた門戸にまで到達すると、更にその先へ侵入しようと圧を掛けてくる。
「だっ、駄目だ、ミズキさ……っ!」
動かない体を必死に持ち上げようとした瞬間、防壁を突破した太く強固な塊が、一瞬にして椿の体奥深くへと到達した。
「あっ、あぁっ……!!」
更に激しく突き上げられ、体が大きくしなる。
「なっ、なんで……っ、やめ、あ……っ! あっ、や……!」
本来は開かれるべきではない側から穴を引き伸ばされ、荒ぶる男根に容赦なく犯されているというのに、痛みが微塵も無い。
苦しさはあるが、ただただ快感だけが大量に送られてくる。
ミズキの先端で内臓が持ち上がる程に奥深くを殴られる度、椿の口からは一際大きな喘ぎが漏れた。
それに連動するように椿の前部分の雄も反応を示し、ぴんと立ち上がったそれは突き上げに合わせて大きく揺れる。
触れてもいないのに、その振動を感じるだけで達してしまいそうだった。
(あ、あれ、俺、なんで……っ)
ミズキに助けてもらって、この世界の事を優しく教えてもらった。ヒナタは……、全然優しくなかったけれど。
あれは全部夢だったのだろうか? こっちが現実? そもそも、この世界自体が夢なのだろうか?
考えれば考えるほど分からなくなってくる。
それに、体の中に一段と気持ちの良い場所があって、ミズキの括れの部分がそこを引っ掻く度に、積み重ねた思考が一瞬で弾けてしまう。もはやまともに考える事すら出来ない。
「椿……っ」
絞り出すように名前を呼ばれ、心臓が口から飛び出しそうになった。
涙で潤んだ瞳を、ミズキの方へと向ける。
眉間に刻まれた深い皺、火照って色付いた頬。僅かな凹凸も見られない滑らかな肌の上を、硝子玉のような汗が流れ落ちていく。
伏せられた睫毛は、離れていても輪郭がくっきりと見て取れる程に長い。
その妖艶な表情に、椿の心音は更に激しさを増す。そればかりか、感度までもが高くなった気がする。
「あっ、あぁ……! う、んっ、あぁ!!」
嫌だ、駄目だ、という言葉が出なくなって、快感を伝える艶めかしい声ばかりが溢れる。
ミズキの雄をもっと奥に引き摺りこもうとするように、腹の中が何度も収縮を繰り返した。
ミズキの体が椿の上に覆いかぶさって来て、椿は無意識にその背中に足と腕を巻き付けた。
ミズキの荒々しい吐息と喘ぎが、椿の耳の中に直接注ぎ込まれる。
「は……、はぁっ、椿っ、出すよ……っ」
「あっ、んっ、うんっ……! うんっ、して、ください……っ、あぁっ、俺の事……っ」
孕ませて。
「にゃあああああいっ!!!!!」
椿の絶叫が、暗闇の中に響き渡る。
飛び起きた衝撃で地面が激しく軋み、体の上に乗っかっていたミズキ、もとい、羽毛布団は、床の上へと跳ね飛ばされてしまった。
激しく弾む心臓と呼吸を落ち着かせようと、必死に深呼吸を繰り返す。
辺りは真っ暗でほとんど何も見えなかったが、ここがあの広いベッドの上で、自分が身に付けているのが安物のスウェットでは無く滑らかなシルクパジャマである事だけは理解出来た。肌触りの良いシルクも、これだけ汗をかいた状態では流石に不快だが。
椿は手探りでベッドの傍らを探ると、ナイトテーブルの上に置かれていたランプのスイッチを見つけ出した。
布製のシェードの中から、柔らかな光が溢れ出す。
光に照らされてぼんやりと浮かび上がった景色はもちろん、森の中でも晴れやかな青空でも無い。
ランプの足元に寄り添っている置時計を確認すると、今はどうやら夜中の一時だ。
(……何という夢を! 何という夢を!!)
椿はベッドの上に蹲って何度も激しく頭を叩き付けるが、上質なベッドはそんな衝撃すらも柔らかく包み込んでしまう。
心臓はいまだに落ち着かず、呼吸の乱れもおさまりきれていない。夢の余韻か、体温がいつもより熱く感じられた。
何より……。
「ん……っ」
勃ち上がった性器が下着に擦れて、吐息混じりの声が溢れた。
自分を助けてくれた恩人を夢の中で変態にしてしまったばかりか、彼が好意で貸してくれたベッドの上で勃起してしまうなんて。
いっそ、このまま自己嫌悪に押し潰されて死んでしまいたい。
……いや、もう死んではいるのか。
椿は満身創痍でベッドから下りると、覚束無い足取りで部屋の出入口へと向かった。
静かに扉を開くと、顔だけを出して廊下を見渡す。
右を向いても左を向いても広い廊下が続いていて、確認出来る扉の数だけでも十近くある。
天井には等間隔に控えめな照明が付いていて、薄暗くはあったが十分な明るさだ。
こんなに広くても一応は個人宅らしいので、トイレはこちらです、という案内板が掲げてあったりはしない。
椿は迷ったが、ひっそりと部屋を抜け出した。
(何か……、トイレっぽい扉は……)
他所様宅のトイレで自慰をしようとしているなんて、不行儀な事は分かってはいるが、ギンギンに興奮しっぱなしの雄は一度宥めてやらないととても治まりそうにない。
わざわざ部屋を出たのは、他人のベッドの上で致すよりも、他人のトイレで致す方が幾分か罪悪感が薄れる気がしたからだ。
パジャマが大きめなおかげで隆起した下半身は隠れて目立たなくなってはいるものの、どうしても前屈みの姿勢になってしまう。
泥棒のような足取りで彷徨っていると、前方にあった扉が開いて、若い男性が出て来た。
まずい。椿は咄嗟に壁の後ろに身を隠したが、よくよく考えれば何も悪い事などしていないのだから堂々と通り過ぎて良いのでは無いだろうか。
……いや、今から他人の家で自慰をしようとしているのだから、堂々と、というのはあまりにふてぶてしいか。
しかし、トイレの場所を聞ける絶好の機会だ。
「あの……」
椿は必死に何気ない感じを装い、青年に声を掛ける。
「はい?」
優しげな声に安堵したのも束の間、青年は椿と目が合った途端に目を見開き、自らの鼻から口元にかけてを腕で覆い隠した。
押し付けられた腕の奥から、うっ、と、不快そうな呻き声が聞こえた。
(えっ、あ……、もしかして俺、臭い!?)
そう言えば、汗だくだったにも関わらず拭きもしないでそのまま出て来てしまった。
椿は自分の腕を鼻先に当てて、くんくんと匂いを確認する。
「すいません、俺、今汗が……」
言い終わる前に、青年は勢い良く椿に背を向ける。
長い廊下を何度も躓きながら走り去って行く男の姿を、椿はぽかんと呆けた表情で見送った。
(いくら臭いからって、そんな反応しなくても……)
この家にお邪魔している身でありながらも、湧き上がる苛立ちを抑えきれない。
「……部屋、戻ろうかな」
椿は大きく溜め息を吐くと、渋々踵を返す。
こんなに広い家なのだからトイレなんていくつもあるとは思うのだが、やはり扉を見ただけでは判断が付かない。かと言ってひとつひとつ開けて中を見る訳にもいかないし。
仕方無い。部屋に戻って、治まってくれるのを待つしかない。最悪の場合、せめて部屋の隅に体を寄せて処理させてもらおう。
「おいっ!」
とぼとぼと廊下を歩いていると、背後から怒号とも取れる叫び声が聞こえて、思わず振り返る。
「えっ」
少し離れた所でヒナタが仁王立ちしていて、椿の姿を確認するなり大股を開いて歩み寄って来る。
ヒナタは黒いガウンを身に纏っていたが、腰紐の結びが雑なせいか、胸も足もしっかりと隠しきれていない。
ヒナタが大きく足を踏み出す度に白い太ももがあらわになって、椿は思わず視線を泳がせた。
(いやいや、男、男だから……)
何度か咳払いをして邪念を拭い捨て、ヒナタの方へと顔を向ける。
あの、トイレはどこですか。呑気にそんな事を尋ねようとしたが、椿の声は寸でで喉の奥に押し戻されてしまった。
(お、怒ってる……?)
二人の距離が縮まるにつれて、ヒナタの顔の形もよく見えるようになってくる。
眉間にはきつく皺が寄っていて、ただでさえキツい印象のある目元は更に釣り上がっていた。
わずかに開いた唇の隙間から、綺麗に並んだ白い歯を噛み締めているのが見えた。
般若の形相で近付いてくるヒナタが恐ろしくて、椿はたまらず後ずさる。
(えっ、な、何で? もしかして部屋出たら駄目だった……? でも、だって、出るななんて言わなかったじゃん……っ)
走って逃げた方が良い? でもどこへ?
頭が混乱して立ち尽くす事しか出来ない椿の目前に、いよいよヒナタが迫る。
乱暴に胸ぐらを掴み上げられ、椿が思わず目を閉じれば、ヒナタは何の迷いもなく椿の頬を殴り付けた。
視界が白く点滅して、殴られた頬が熱と痛みに疼き出す。
椿は床に崩れ落ちると、頬に手を当てながら呆然とヒナタを見上げた。
ヒナタはいまだ激昂した様子で、再び襟元を掴まれる。
椿は恐怖のあまり叫び出しそうになったが、椿が悲鳴を上げるより早く、ヒナタが咆哮する獣のように声を荒らげた。
「なんで薬を飲まずに外に出た!!!!」
そこでようやく、ヒナタが何に対して怒っているのかを理解した。
(で、でも、だって、俺はオメガなんかじゃない……)
この体の疼きだって、発情現象なんかじゃない。変な夢を見て、それで、だから、時間が経てばおさまるから……。
頭の中では延々と言い訳の言葉が流れているのに、それが声に変わる頃には、あ、だの、う、だのと、形にならずに崩れてしまう。
「ご、ごめんなさい……」
ちゃんと意味の通じる言葉として吐き出せたのは、その一言だけだった。
「来い!!」
胸ぐらを掴み上げられ、無理矢理起立を促される。
また殴られるのだろうか。怖い。
けれど抵抗すれば更に神経を逆撫でしてしまいそうで、椿はよろめきながらも急いで立ち上がった。
首が締まった状態のまま、廊下を引き摺られて行く。
拷問部屋へ連行されてしまうのかと震えていたが、辿り着いたのは椿が元々寝ていた部屋だった。
部屋に入るなり椿はベッドの上へと放り投げられ、力無く倒れ込んだ。
ヒナタがシャンデリアのスイッチを入れたので、光の洪水が椿の目を襲う。
遅れてヒナタもベッドへ乗り上げると、椿の腹の上に跨った。椿は、それを下から見上げる形になる。
固定の緩いガウンの隙間から、太ももの奥にあるであろう性器までもが見えそうになっていて、目を背けずにはいられなかった。
「あ、あの……、ヒナタさっ……」
口を開いた瞬間、髪の毛を掴まれ、無理矢理上を向かされる。
視線を逸らす事を許されない紫色の瞳の奥に、どす黒い炎が見えた気がした。
「良いか!? 発情期のオメガが薬を飲まずに外に出て良いのは、目当ての男と子供を作りたいと思った時か、知らねぇ男達に輪姦されて孕まされても文句が無いって時だけなんだよ!!」
鼻先がぶつかりそうな距離にまで顔を詰められる。
あまりの迫力に、恥ずかしがっている余裕もなく、怒りに満ちたその顔にただただ視線を奪われた。
「でも……っ、俺、本当に、オメガなんかじゃ……」
今にも息絶えそうなくらいか細く反論すると、ヒナタの瞳で揺らいでいた炎が一気に燃え上がった。
再び胸ぐらを掴まれ、ベッドから引き摺り落とされる。
ヒナタは椿の服を掴んだまま勢い良く部屋の扉を開くと、何度も転びそうになる椿を引き摺るようにして廊下を歩いて行く。
「なっ、なに……っ!」
「家の外に出す。言っても分からねぇなら身を持って学べ。ここはミズキの敷地内だが、門の外は一般道で飲み屋も近い。お前の匂いを嗅ぎ付けた酔っ払いの男共がわんさか寄って来るだろうよ。楽しみだなぁ?」
昼間、自分を襲った男達の獣のような顔が脳裏に浮かんで、椿の体から血の気が引いていく。
「やっ、やだ……っ、やめろ……っ」
「オメガじゃないなら問題無いだろ」
襟を握り締めるヒナタの手を必死に引き剥がそうとするが、生地に巻き付いた指は簡単に離れない。
体格はほぼ同じなのに、何故こんなにも力の差があるのか。答えは簡単だった。
ヒナタの腕はしっかりと引き締まっていて、細くとも筋肉の盛り上がりが見える。それなりに運動をしたりトレーニングをしたりしているのだろう。
一方の椿は、ゲームのコントローラーを握るのが精一杯と言っても過言ではない、運動不足の引き籠もりだ。
(俺はオメガなんかじゃない……っ)
いまだ往生際悪くそう思うのに、何度も何度も、自分を襲った男達の顔が蘇って来る。彼らは、最初は心配して声を掛けてくれたはずだった。それなのに、豹変した。
あんなに優しそうなミズキですら、あの時は。
こわい……、こわい……っ。
知らない男の子供なんか孕みたくない。
「ご、ごめんなさい……、ごめんなさい……っ、うぅ、う……っ、ごめ、なさっ……」
謝罪の言葉と共に、ぼろぼろと涙が溢れて来る。
叱られた子供のように泣きじゃくりながら謝罪を繰り返していると、ようやく、ヒナタは椿の体を解放した。
椿はその場に崩れ落ちて、ヒナタの足元で体を丸めて嗚咽を漏らす。
「お前が強姦されようが孕もうが俺は別にどうでも良いけどな、お前を助けたミズキの顔に泥を塗るような事はすんな」
「うぐ……っ、ひっ、うぅっ……」
「……ここにいるのは、俺とミズキ以外は全員ベータで、信頼出来る使用人ばっかりだが、フェロモン垂れ流しのオメガを前にして理性がぶっ飛ばない保証はねぇ。さっさと部屋に帰って薬飲んで寝ろ」
言われ、椿は力無く立ち上がると、ヒナタの方を一瞥もせずに元来た道を辿った。
記憶を頼りに廊下を進んで行けば、開け放たれたままになっていた椿の部屋の扉が目に入った。
部屋に入って扉を閉めると、椿は真っ先に薬の入った小瓶を手に取る。
「うっ……、うぅ……っ、オメガなんかじゃ……」
もはやそれは、願望に近い呟きだった。
虚しい。悲しい。情けない。腹立たしい。底なし沼でもがいているみたいに気持ちが沈んでいく。
それなのに、性的欲求の度合いを示す下半身はいまだに熱を帯びていて、もう、いっそ、誰か切り落としてくれと本気で思った。
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