さよなら十八年(★)

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さよなら十八年(★)

     なぜ自分は、十八年ものうのうと生きてしまったのだろうかと思う。  小学生の頃は、目立つ存在にはなれずとも毎日それなりに楽しかった。  友達とのゲーム。公園での鬼ごっこ。百点満点のテスト。将来の夢。  そんな生命力に満ち溢れていた時代は今はもう遠く色褪せていて、ここ数年は生きる事よりも死ぬ事を考えている時間の方が多くなっていた。  椿(つばき)の世界が歪み始めたのは中学生の時。  きっかけはしょうもない事だった。  同じクラスの、少しやんちゃなグループに分類される男子生徒の一人が、席に座ってテスト勉強をしていた椿に声を掛けた。  けれど椿はその時目前の教科書に夢中で、その呼び掛けに気付かなかった。返事をしなかった。  たったそれだけの事だ。  最初は、すれ違い様に「きもい」「くさい」などと小声で呟かれるくらいで、気のせいかなと思うくらいの囁かな悪意だった。  しかしそれは時間の流れと共に増幅していき、たった一人から発せられた悪意の渦は、椿に興味の無かった他のクラスメイトまでをも飲み込んでいった。  私物に悪戯されていない日があれば珍しいくらいで、運が悪い日は人気のない所に連れ込まれ集団で暴力を振るわれた。  椿を虐げるメンバーよりも、直接的な害の無いクラスメイト達の方が多かったが、その中に椿を助けてくれるような天使はいなかった。  下手に関わってしまえば、今度は自分達が標的にされてしまうかもしれないのだから当然だ。  椿自身が第三者の立場だったとしても、やはり勇敢な勇者よりも目立たない村人Aを選ぶだろう。  仕方の無い事だ。そうは分かっていても、耐えられなかった。  中学三年生に進級する前に、椿は学校に行く事をやめた。  義務教育なので出席日数ゼロでも卒業は出来たが、高校には進学しなかった。  それからはずっと、四畳半の自分だけの世界に閉じこもった。  ゲームをして、ネットをして、漫画やラノベを読んで、ご飯を食べて寝る。型どられたハンコのような毎日。  優しい父と母が毎晩のように自分の事で話し合っているのを知っていた。泣いているのも知っていた。  こんな息子でごめんなさい。テレビゲームの中のゾンビを自分自身に見立てて、何度も銃をぶっ放す。  今が西暦何年なのかすら思い出せなくなっていたある日、椿はいつものように宛もなくネットの海をさ迷っていた。  その時に、ローカルニュースサイトに掲載されていた記事に目が止まった。  “県内各所の高校で卒業式”と見出しの付けられた記事。  記事内に貼り付けられたいくつかの写真の中に、一人の同級生の姿を見つけた。  記憶に残る姿よりも大分大人びていたが、間違いない。  椿の人生をめちゃくちゃにした、あの男子生徒だ。  胸に花を付けて、卒業証書を掲げて、何人もの友人に囲まれて満面の笑みを浮かべている。 「…………」  途端、椿の目からぼろぼろと涙が溢れ出した。  なんで、なんで、なんで、俺ばっかり。  いくつもの醜い感情が重なり合い、濁流となって椿の心を押し流していく。  流されて、流されて、もみくちゃにされて疲れ果てた頭で、ずっと悩み続けていた生と死の選択に決断を下した。 (あ……、お気に入りのラノベとか漫画とかゲームとか、俺の死体と一緒に燃やしてくださいって書けば良かった……)  今椿がいるのは、近々取り壊しが行われる六階建てのビルの屋上だ。  立ち入り禁止の札が貼ってあったり、窓や扉は板で塞がれていて本来は入れない。しかし、その一部、人目の届かない場所の板が壊れていて、こうして簡単に侵入する事が出来る。  何故そんな事を引きこもりの椿が知っているのかと言えば、中学時代、既に立ち入り禁止になっていたこのビルに連れ込まれてリンチを受けた事があるからだ。  その時は夕方だったので、打ち付けられた板の隙間からわずかに夕日が差し込んでいて、心許なくとも光源は充分にあったのだが、真夜中の今は懐中電灯が無ければ足元すら見えない。  階段をのぼる自分の足音が不気味なほど反響して、懐中電灯の中に得体の知れない人影が浮かび上がったりするのではないかと恐ろしくて仕方無かった。  それでも何とか屋上に出てみれば、先程までの息苦しさが嘘のように、開放的な町の夜景が目前に広がった。  都会のようにぎらぎらとした派手な夜景では無いが、普段家に引きこもっている椿にとっては、ラスベガスの夜景にも匹敵する光景だった。  しかも今日は夜空を切り抜いたような真ん丸の満月で、よりいっそう情緒的だ。  椿はしばらくその景色を眺めた後、意を決して歩みを進める。  ヒビだらけのコンクリートの上に“遺書”と書かれた茶封筒を置き、風に飛ばされないようその上に靴を揃えて乗せた。  屋上の周りは落下防止のフェンスでぐるりと囲まれていたが、二メートルもない高さをよじ登るのは思ったよりも簡単だった。  フェンスを乗り越え、屋上の縁ぎりぎりに立つ。 (父さん、母さん、もうこんな出来の悪い息子の事など気に病まず、これからは楽しい人生を送ってください)  今更になって、心臓がばくばくと脈打ち、呼吸が乱れる。  命の危機を察知した本能が、必死に恐怖感を送り込んで制止しようとしている。  恐怖に負けて思わず後ずさってしまいそうになった足を無理矢理引き戻し、深い呼吸を何度も繰り返す。  「はぁ……、はぁ……っ、……」  綺麗な満月を見上げながら、勢い良く一歩を踏み出した。  支えるものを失った体は重力に抗えず、一瞬で椿の体を暗闇の海へと引きずり込んだ。 「……いっ、だあぁっ!!!」  どすん、と、背中から思い切り地面に着地した椿は、内臓ごと叩き上げられたかのような激痛に悶え苦しみ、呻き声を上げながら転げ回る。  よろよろと地面に手を付き起き上がってからようやく、椿は今の状況の不自然さに気が付いた。  六階建てビルの屋上から転落したのに、何故こんなに体が動く?  椿は慌てて自分の体を見回すが、怪我どころか服に血液の一滴も付いていない。  背中はズキズキと痛むが、それだけだ。手や足を動かしてみても骨折している様子は無いし、意識も視界も良好だ。  ただ不思議と、心が軽かった。  悩みや憂鬱などの負の部分だけを吸い取られたかのように、何だか気分が晴れ晴れとしている。  確かにあの地獄のような日々は記憶の中にあるのに、まるで他人の人生を見ているみたいにぼんやりとしている。自殺を決意した時の濁流のような感情がどんなものだったのか、思い出せない。 「て……、天国……?」  椿は周囲を見渡して更に驚愕した。  青々とした原野がどこまでも続いていて、そこに咲いた色とりどりの花が暖かな太陽の下でそよ風に揺られ踊っている。  原野を分断する太い道が線のように引かれていて、椿はその道のど真ん中に座っていた。  道の行方を追って背後を振り返れば、そこには視界を覆い尽くす程の広大な森林があった。幹の太い立派な木々が、胸を張って椿を見下ろしている。  彼方から延びる歩道らしき道は、その森林の奥へと続いているようだ。  どこからともなく、小鳥の囀りと小川のせせらぎが聞こえた。  先程まで椿がいたはずのビルはどこにも見当たらない。  それどころか、今いる場所に見覚えすらないのだ。  自殺をすると地獄に堕ちると聞いた事があるが、どうやら天国に来れたらしい。それとも、近年の地獄はこんなに様変わりしてしまったのだろうか。  椿はしばらく呆然と周囲を見渡していたが、何の前触れもなく心臓が跳ね上がり、うっ、と呻き声を漏らした。  ただぼんやりと座っていただけなのに、心臓どころか体中が激しく脈打ち、体温が急激に上昇した。 「あっ……、な、何……っ」  体中を這い回った熱は次第に下腹部へと触手を伸ばし、性欲の高まりを如実に表現するその場所がずきずきと疼き出す。  こんな、開けた道のド真ん中で何を考えているんだと理性が必死に訴えていたが、獣のような情動をどうしても堪えられず、椿は自らの下半身へと手を伸ばす。  指先が触れる直前、森林の方から話し声が近付いて来るのに気付き、椿は何とか我に返る事が出来た。  こんな所で半勃起させているなんて、変質者だと思われてしまう。ここが天国だろうが地獄だろうが、恥ずかしいものは恥ずかしい。  木陰に身を潜めようと立ち上がるが、下着に性器が擦れただけでとんでもない快感が背筋を駆け抜け、椿はたまらずその場に崩れ落ちた。 「おい、どうしたアンタ」 「具合が悪いのか?」  森林から近付いていた声が、今はもう椿の頭上から聞こえてくる。  白い羽の生えた天使か、黒い尻尾の生えた悪魔か。  椿は鈍くなった思考でそんな事を考えながら顔を上げてみたが、そこに居たのは何の変哲もない二人組の中年男性だった。  羽も生えていなければ尻尾もないし牙もない。特徴的な部分と言えば、少し古めかしく感じる服装くらいか。  二人とも、へその位置まで上げたズボンをサスペンダーで吊っている。シャツは何度着回したのかと思うほどよれていて、汚れやほつれも目立つ。  大きな台車を引いていて、その上には木箱や布製の袋が沢山積まれていた。  これではここが天国なのか地獄なのか見当がつかないが、今はそれよりも大事な事がある。 「だ、大丈夫です……、だいじょうぶ……っ」  膨らんだ股間を見られないように、ダンゴムシの如く体を丸め蹲る。  本当は全然大丈夫では無いが、こんな事情で苦しんでいるのだと説明出来るわけがない。  二人は心配そうに声を掛けながら椿の体を揺すったり撫でたりしてくれていたが、そんな些細な刺激にすら体が反応してしまう。 (なん……、だよ、これっ……)  生きている時ですら、こんなに激しくもよおした事は無い。死んだら性欲が増幅するなんて初耳だ。 「あの……っ、ほんとに、大丈夫だから、放っておいてください……っ」  早くどこかに行ってくれ。そう切に願う椿を見下ろしていた二人が、どちらからともなくごくりと喉を鳴らした。 「お、おい……、まさかコイツ……」 「そんな馬鹿な……! こんな所に“雌”がいるかよ……!」 「でも本当に“雌”なら、売れば大金が手に入る!」 「そりゃそうだけど……っ」  椿の頭の上で、意味の分からない会話が飛び交う。  二人は鼻息荒く何かを打ち合わせた後、蹲る椿の体を無理矢理抱え起こした。 「うわっ……!」  一人が椿を羽交い締めにするような形で抱き抱え、もう一人は正面からまじまじと椿の姿を観察している。  頭のてっぺんから爪先まで舐め回すように観察され、椿が懸命に隠していたその部分にも視線が向かった。  その後に顎を掴まれ、右へ左へと顔を振り回される。  抵抗したかったが、体に力が入らない。やめろ、離せ、と、拒絶の言葉を吐き続けるだけで精一杯だった。 「……こんな間近で本物を見た事なんて無いが、絶対間違いねぇっ」 「な、なんでこんな所に落ちてるんだ……!? どっかの家から逃げ出して来たのか!?」 「知るかよ、売っちまえばこっちのもんだ!」  二人が何故豹変してしまったのか椿には理解出来なかったが、このままでは大変な事になるという事だけは予見出来た。  椿は力を振り絞り、手足を激しくばたつかせ必死に体を捩る。  突然の抵抗に驚いた男達が一瞬拘束の手を緩めた隙をつき、椿は飛び出すように道端に倒れ込んだ。  急いで立ち上がろうとするが、思うように体に力が入らない。 (くそっ……! なんなんだよ……っ!)  溺れる蛙みたいに無様に藻掻く椿の体が、再び持ち上げられる。乱暴に首根っこを掴まれ、息が詰まった。  一人が椿の上半身を抱えると、もう一人が足を持ち上げる。まるで荷物を運ぶみたいに、森の中へと引きずり込まれた。 「いやだっ! やめろ……! 警察に言うからな……!!」  柔らかな土の上に放り投げられ、男の大きな体が貧弱な椿の体の上へのしかかった。  もう一人は椿の頭上にいて、両手首をきつく握り締めて抵抗を封じている。  上に乗っかっていた男が鼻息荒く椿の服を捲り上げ、平らな胸を乱暴に揉みしだく。 「あっ、く、痛っ……!」 「すげぇ、肌が真っ白だ……!」  長年引きこもっていたのだから、当たり前だ。  そう唾吐いてやりたかったが、男のささくれだった指先が胸の先端を掠める度に、形になり損ねた声が次から次に漏れ出してしまう。  椿のその姿を見て更に興奮した男は、あろう事か自分のサスペンダーを取り外し、へそ近くまであったズボンを下着ごと太ももの位置まで引き下げた。 「ひっ……!」  男の浅黒いグロテスクな肉塊が、ぴんと背筋を伸ばしぎちぎちに張り詰めている。  とても直視できるような光景ではなくて、椿は首が痛くなるほどめいっぱい顔を背けた。  椿の手を拘束していた方の男が、少し焦った様子で、おいっ、と声を荒らげた。 「まさかヤるつもりか!? 売るんだろ!」 「どうせ何百回と男を咥えこんでんだ、今更だろ! こんな機会滅多にねぇぞっ!」 「だ、だからって……」 「俺が終わったらお前にもヤらせてやるから待ってろ!」  そう言い、男は椿の履いていたスウェットパンツと下着を乱暴に取り払った。  こんな状況だというのに、萎えきっていない自分の中心を見て椿は愕然とした。どうして、頭と体が正常に連動していない。  せめて見られまいときつく足を閉じるが、椿の太ももほどもある男の太い腕にかかれば、障子紙を破るよりも容易く開かれてしまう。  男が体勢を変え、椿の足の間に体を捩じ込む。尻臀を痛いくらいに割り広げられ、奥に隠れていた門戸に男の昂りを押し付けられた。 (あぁ、やっぱり、ここは地獄だった……)  死んでも尚、幸せになる事を許されないのか。 「そこで何を……?」  椿が虚ろな瞳で空を見上げていると、どこからともなく第三者の声が割って入って来た。  声のした方へと顔を向ければ、真っ白な軍服のような衣装を身にまとった長身の男が、目を見開いてこちらを見ていた。  木々の隙間から差し込む柔らかい光が、白んだ金色の髪の毛を一層輝かせている。  顔立ちも、服装も、椿を押さえ付けている二人とは比べる事すら無意味なほどに上品で美しい。  すらりと伸びた足がこちらに向かって来ると、男達の手から途端に力が抜けた。 「ミ、ミズキさん……、あの、これは、違……っ、違うんです、も、申し訳ございません……!」  先に逃げ出したのは、椿の腕を拘束していた男の方だった。  残された相方も、慌ててズボンを履き直すと、申し訳ございません申し訳ございませんと呪文のように唱えながら走り去ってしまった。  助かった、という安堵感は椿の中にはほとんど無く、重い手足をぐったりと投げ出した。  胸から太ももに掛けて肌は丸出しで、他人に一番見られたくない中心部分はいまだやんわりと反応を示していたが、それを隠す気力も湧かない。  ここが地獄ならば、どうせこの男からも何かしら罰を受ける事になるのだ。いっそ殺してくれればいい。もう死んでいるので、殺してくれもなにもないが。  男は椿の傍らに膝を付くと、剥き出しになった下半身へと手を伸ばした。  どうにでもしてくれというヤケクソな気持ちがあっても、恐怖を感じないわけではない。  何をされるか分からない不安に全身が痛いくらい引き攣ったが、椿が覚悟していたような暴力の雨は降っては来なかった。  男は椿の下着とパンツを腰の位置まで引き上げて、めくりあがっていたトレーナーも優しく整えてくれた。 「え……」 「大丈夫? 起き上がれる?」 「わ、あ……、は、はい……」  男の手に肩を抱かれながら、ゆっくりと上半身を起こした。男はそのまま、椿の服に付いた土や葉を丁寧に取り払おうとしてくれている。  高い鼻に長い睫毛、優しそうな瞳は雲ひとつない空のような青さだった。間近で見ても、綺麗な肌には汚れひとつない。  それに、とても良い匂いがする。  生クリームたっぷりのケーキみたいな甘ったるさと、柑橘類のような爽やかさが混じり合ったような匂い。  一度は落ち着いていた椿の呼吸が再び乱れ始め、下腹部の疼きが深刻さを増していく。  陰茎が反応を見せるばかりか、尻肉の奥が何度も収縮を繰り返す。お腹が空いた、早く食べたいと訴えかけているみたいだ。  磁石に引き寄せられるように男の胸へと頭を擦り寄せれば、細かな装飾の施された衣服の向こうから僅かに鼓動が聞こえた。  心地の良いその音をもっと聞いていたくて、椿は更に体を寄せる。  椿の耳に届くリズムは徐々に速さを増していき、それと連動するように椿の胸も激しく弾む。  ふと顔を上げれば、あんなに涼し気だった男の表情が苦悶に歪んでいた。  けれどそんな顔ですら美しくて、椿はうっとりと目を細める。  もっと間近で見たい。触れてみたい。  どこからともなく湧き上がって来た衝動に抗えず、椿は男の口元に顔を寄せる。男の吐息が唇に当たるくらいの距離にまで近付いた所で、椿の体は地面の上へと弾き飛ばされた。  体勢を整える間も無く男の体が覆い被さって来て、椿の動きを拘束する。  男の呼吸はひどく乱れていて、快晴の空を思わせる爽やかな青の瞳は、激しくうねりを打つ嵐の海の色に変わっていた。 「うあっ、や……っ、駄目だ……っ」  せっかく整えられたトレーナーは再び捲り上げられ、男らしい手が急いたように肌の上を滑る。  わずかに残った理性に組み立てられた言葉が弱々しく喉の奥から漏れるが、体の方は何の抵抗も示さなかった。それどころか、期待している。  先程の男達に触れられた時は嫌悪感の方が強かったものの、今はそんな拒絶の感情は一切湧いて来なかった。  常識的な自分が頭の中で、ダメだダメだと叫んでいるが、熱い手の平で体の輪郭をなぞられれば、快感の波に飲まれて呆気なく彼方へと流されてしまう。  思考回路がまともに機能していない。自分の体が自分のものではない。 「あっ……!」  男の手がいよいよ下腹部へと伸びて、椿の口からは、焦りとも期待ともつかぬ声がこぼれ落ちる。  しかしそれ以上、椿の体を喜ばせるような快楽が襲いかかって来る事はなかった。 「はぁっ、は……っ! くそ……っ、すまない……っ!」  男は転げ落ちるようにして椿の体の上から離れると、胸元を握り締め何度も深呼吸を繰り返す。  ……しないの?   思わず問い掛けてしまいそうになった椿を、また違う男の声が遮る。 「ミズキ様!!」  どこからともなく現れた男は彼と似たような軍服を着ていたが、色は真っ黒で、その生地の上を走る金糸の装飾も大分控え目だ。  黒い軍服の男は悲鳴を上げるように叫ぶと、駆ける馬のようにこちらへと走り寄って来る。  ミズキ……。先程の二人組もその三文字を口にしていた。それが、美しい彼の名前なのだろうか。 「ダメだ、近付くな! オメガがいる……っ! ヒナタは来ているかっ……!? いないなら医者を呼んでくれ……!」  ミズキと呼ばれた彼は、声を荒らげて男の接近を阻止する。  その後も椿の頭の上で会話が飛び交っていたが、それを理解しようとするだけの気力はもう残されていなかった。  メスとか、オメガとか、なんだそりゃ。俺の名前はツバキなんですけど。  頭の中でそう抗議してから、ゆっくりと目を閉じる。  椿の意識は一呼吸の時間を待つ間も無く、暗闇の中へと沈んでいった。    
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