居場所

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居場所

   発情抑制剤を飲んでからしばらく、椿の体の火照りはほとんど消え去ってしまっていた。  偶然なのか、それとも、自分の体がオメガ用の薬を受け入れたのか。  それを考えてしまうと、素直に「良かった」と安堵するのは難しい。  それに、体の方は落ち着いても頭の中はぐちゃぐちゃのままだ。  先程は快眠を与えてくれた大きなベッドも、肌触り抜群のシルクのパジャマも、今はひどく心地が悪い。   睡魔が目前で揺らいでいるのに眠れなくて、何度も寝返りを繰り返した。  眠っているのか起きているのか、自分でも分からないような曖昧な時間が静かに過ぎていく。  カーテンの隙間から淡い光が差し込み始め、鳥が陽気に歌い始める時間になると、椿はいよいよ睡眠を諦めた。  大きな劇場の舞台で使われているような豪奢なカーテンをわずかに開いて、外の様子を確認する。  一帯は青々とした芝生で覆われており、人が通る部分だけがタイルや土で固められている。  植物園かと見紛う程の色とりどりの花壇があって、計算されているのであろう花の配置は、地面に描かれた絵画と言っても過言では無い。  少し離れた所に見える生垣は誤差無く同じ高さに揃えられており、等間隔に植えられている木々も枝や葉を綺麗に整えてあるのが分かる。  今はまだ太陽が顔を出し切っていないので輪郭がぼんやりとしているが、快晴の空の下で眺めたら更に壮観だろう。  しばらく庭を眺めたり、部屋に置いてあった本わ読んだりして時間を潰し、日差しがくっきりと認識出来るようになった頃、椿は再びベッドへと潜り込んだ。  ようやく眠りの世界へ旅立つ準備が出来たと言うのに、部屋の扉を叩く音が聞こえて、椿は覚醒を余儀なくされた。 「はい……」  ぼんやりとした意識の中、半分眠ったままの状態で扉へと歩み寄り、鍵を開ける。 「おはよう」  廊下にはミズキが立っていて、氷水を叩き付けられたかのように一瞬にして頭の中が冴え渡った。 「お、おっ、おはよう、ございますっ」  喉が引き攣って、声が不自然に上擦ってしまった。  夢の中で自分を抱いたミズキの姿が自然と頭の中に浮かんで来て、かっと顔が熱くなる。  ミズキは出会った時や夢の中と同じ、白い軍服のような制服を身に纏っていて、余計に記憶を呼び起こされる。  夢の彼と、目の前の彼はイコールでは無い。  分かってはいるのに、椿の中で揺らめく羞恥の影は消えてくれない。 「朝食、食べられる?」 「あ、はい……っ、いただきます……」  どうやらミズキは、直々に朝食を運んで来てくれたらしい。  銀色のトレーにはパンやスクランブルエッグといった王道の朝食が並んでいて、今の今まで空腹の度合いなど気にもとめていなかった腹が、ぐうっと小さく訴えかけてきた。  椿は慌てて腹部を押さえたが、ミズキには聞こえなかったらしい。  お腹痛いの? と尋ねられ、慌てて首を横に振る。 「いえっ、すいません、有難うございます……っ、いただきます……っ」  美味しそうな朝食の乗ったトレーを受け取ってから、ミズキの背後に人影がある事に気付く。  途端に、心臓が縮み上がった。 (ヒ、ヒナタさん……)  ミズキから少し離れた所。ミズキの衣装と形のよく似た黒い制服に身を包んだヒナタが、気だるそうに壁に寄りかかって自分の足元に視線を落としている。  うっすらとした記憶しか残っていないが、ミズキが椿を助けてくれた時に駆け寄って来た男性も、似た服を着ていた気がする。  昨日のゆるい私服やはだけたガウンとは違い、体のラインが明確に浮き出たデザインと上品な黒色はヒナタのスタイルの良さを際立たせていた。  その姿に視線を奪われていると、ヒナタがふいに顔を上げる。  見つめていたはずが逆に見つめ返され、椿は慌てて目を逸らした。 (昨日の事……、謝らないと……)  深夜の悶着を思い出し、頬の痛みが蘇る。  殴られたり、引き摺られたり、散々な目にあったけれど、それもこれも己の軽率な行動がきっかけなのだ。  ヒナタにも謝ってほしい事はあるが、先に謝らなければならないのは自分だろう。 「ヒ、ヒナタさん、あの、夜中の事、すいませんでした……」  トレーを持ったままでは、腰を深く曲げて反省の姿勢を示す事が出来なかったが、出来るだけ頭を下げて謝罪を口にする。  ヒナタは少しの沈黙の後、別に、と言って顔を背けた。  決して穏やかな表情では無いが、苛立っているようにも見えない横顔だ。 「……ミズキ、俺、先に仕事行くから」  許すとも許さないとも告げないまま、ヒナタはミズキにそう断りを入れて立ち去ってしまった。  許してくれるんですか? まだ怒ってるんですか?  追い掛けて問い詰めるわけにもいかず、椿は朝食のトレーを持ったまま、為す術もなく見送る。  わだかまりを拭いきる事が出来ず、腹の底がどんよりと重くなる。 「大丈夫、もう怒ってないよ。あぁ見えて、ヒナタも申し訳無いって思ってるんだ」  椿と同様、ヒナタの背を視線で追っていたミズキが、優しそうな笑い声を漏らす。  夜中に起きた騒動を把握しているかのような口振りだった。  だとしたら、余計にバツが悪い。椿の視線は自然と下を向く。 「す、すいません……」 「ヒナタは優しいけど気性が荒いから、大分怒られたんじゃない?」 「う……、は、はい、少し……」  殺されるかと思いました。そう心の中で呟く。  ミズキの笑みには、苦々しい心情が滲んでいる。 「ヒナタはオメガの苦労とか理不尽さとかを全部知ってるから、君に同じような目にあってほしくないんだよ。言い方はキツかったかもしれないけど、それは分かってあげてほしい」 「はい……」  椿の為と言うが、ヒナタは、ミズキの為に怒っているように見えた。  だからと言って何もそこまでしなくてもと腹は立つが、そこまでされなければ、恐らく自分は今も能天気なままだったろう。  ヒナタの事をいまだに怖いとは思うが、憎いとか、嫌いだとか、そういった感情はほとんど無い。  ミズキづてではあるが、ヒナタがもう怒っていないという事を知って、椿は少しだけ肩の力を抜く事が出来た。  昼時になるとスーツ姿の若い男性が食事を運んで来てくれて、朝食の時に使った皿をついでに片付けてくれた。  昼食を食べ終わったら忘れずに発情抑制剤を飲んで、少し仮眠を取った後はソファーに座って本を読んだ。  椿のいる部屋の本棚には幻想小説が多く、ファンタジーの世界に来てファンタジーの小説を読むという珍妙な事態になっている。  いくら広いとはいえ部屋の中で出来る事は限られていて、退屈な時間がゆったりと流れていく。インターネットやゲームの存在がいかに偉大なもなのかを思い知らされた。  昼食を運んで来てくれた男性にトイレの場所を聞いたので廊下に出る事もあったが、用もないのに敷地内をうろちょろするのは流石に躊躇われて、直ぐに部屋へと戻った。  太陽の位置が大分水平線に近付いて来た頃、再び部屋の扉が叩かれる。 (あれ……、もう夕飯の時間?)  重量感のある木製の置時計が、夕方の五時過ぎである事を教えてくれた。  昼食を食べたのが昼の一時頃だったので、夕食には少し早い気もする。  不思議に思いながらも扉を開くと、そこに立っていたのはミズキだった。  朝と同じ、白い制服を着ている。  今朝みたいに椿に食事を運んで来てくれたわけではないようで、手には何も持っていない。 「体調はどう?」 「おかげさまで、大分良いです」 「それじゃあ、良かったら一緒に庭を散歩しない?」 「えっ?」  予想だにしていなかった提案に、戸惑いの表情が浮かんでしまった。  ただ、嬉しいという気持ちが微塵も湧かなかったと言えば、嘘になる。  部屋に閉じこもって、先の見えない不安に鬱々としていた自分の事を、考えてくれたのだろうか。  椿はぎこちなく視線を泳がせて、俯き気味に頭を掻く。 「め……迷惑でなければ……、お願いします……」  答えれば、ミズキは嫌な顔ひとつせずに、綺麗にアイロン掛けされたシャツとズボンまで用意してくれた。パジャマのまま外に出るのは嫌だろうと、気遣ってくれたのだ。  椿がそれに着替えると、じゃあ行こうか、と、暖かな笑顔で部屋から連れ出してくれた。   「すごい……! 映画みたいだ!」  部屋の窓から見るだけでも充分に偉観だったが、実際に自分の足で庭を歩いてみると何倍もの感動が押し寄せた。  緑の芝生は柔らかくて、花壇は間近で見ると美の迫力が凄まじかった。  部屋から見えなかった場所には噴水や池もあって、透き通った水が夕陽の光を反射してキラキラと輝いている。  こちらに来る前から狭い部屋の中に閉じこもっていた椿にとっては、興味を惹かれて仕方が無いものばかりだ。  最初はミズキの後ろをついていくだけだった椿だったが、いつの間にか率先してミズキの前を歩いていた。 「うわっ、すごい! トンネルだ!」  アーチ状に編まれた骨組みに、濃い緑の葉っぱが隙間なく絡み付いている。  トンネルの左右は高い生垣に阻まれていて、向こうにどんな景色が広がっているのかはよく分からない。  ここは不思議な世界への入口ではないだろうか。そんな子供みたいな事を考えて胸が高鳴った。 「ミズキさん、ここに入ってみても……っ」  良いですか、と尋ねる前に、声は喉の奥へと引っ込んでしまった。  椿の少し後ろを歩いていたミズキは子供を見守る保護者のように笑っていて、椿は途端に恥ずかしくなる。  真っ直ぐにトンネルを指差していた手を、たどたどしく自分の背に隠す。  椿の横に並んだミズキが「入ってみる?」と優しく声を掛けてくれたが、素直に頷く事が出来ずに口ごもった。 (十八歳の男子が一人ではしゃいでんの……めっちゃ痛々しいじゃん……っ!)  ミズキが落ち着いている分、余計に自分が見苦しく思えた。  馬鹿みたいに興奮している自分の後ろを、ミズキはどういう気持ちでついて来てくれていたのだろうか。推し量るだけで悶え苦しみたくなる。  出来ることならば玄関を出た辺りからやり直したい。 「この先は俺のお気に入りの場所なんだ。是非見てほしいな」  黙り込んでしまった椿の心情を察してくれたのか、ミズキがそうやって背中を押してくれた。  そんな気遣いが申し訳ないやら、照れくさいやら。  しかしそう言われてしまえば断る理由も無く、椿は静かに頷いた。  トンネルの中は少し薄暗くて、葉の間から差し込む木漏れ日が地面のタイルに無造作な模様を浮かび上がらせていた。  はしゃぎたくなるのを必死に堪えて、ミズキの後ろを大人しくついて行く。  トンネルと言っても五メートル程の距離しかなく、一瞬で通り抜けてしまえた。  その先が異世界に繋がっている……事は無かったが、周りをぐるりと生垣に囲まれた小さな空間には、秘密基地のようなわくわく感があった。  真ん中には、丸い木製のテーブルに、同じ素材の一人掛け用チェアがみっつセットになって置かれていて、公園にある休憩スペースみたいな六角形の屋根が付いている。その屋根と同じくらいの範囲には芝生が植わっておらず、硬いタイル敷きになっている。  今まで見て来た花園に比べれば大分地味ではあるが、小さな花壇もあった。 「こっちにどうぞ」  ミズキが椅子を引いて、椿を呼び寄せる。 「えっ、あっ、う、有難うございます……っ」  ドラマや漫画などで、高級レストランを訪れた際に椅子を引いてもらうシーンを何度も見た事があるが、椿自身が体験するのは初めてだ。  しかも、こんな美形にエスコートしてもらうなんて。  気恥ずかしくて仕方無かったが、ミズキをそのまま待たせるのも申し訳ない。  椿はぎくしゃくとミズキの元に歩み寄り、引かれた椅子の上に腰を下ろした。  椿が座ったのを確認してから、ミズキ自身も向かいの椅子に腰掛ける。  神々しい形貌をそんな間近から直視する事が出来ず、椿は自分の手元をじっと見つめた。 「そう言えば、名前を聞いてなかったね。名前は……覚えてる?」 「あ……、つ、椿です……」  「ツバキか。冬に咲く健気な花と同じ名前だね」  綺麗だ、と臆面もなく言われ、椿の方が恥ずかしくなる。  自分が女だったなら、昨日と今日だけで何十回心臓を握り潰されていたか分からない。 「疲れた時はここに来るんだ。ここでおやつを食べたり、本を読んだりしてると癒されるよ」 「あ……、分かります。よく晴れた日にここで昼寝とか出来たら最高だろうなって思いました」 「昼寝か、なるほど、いいね。ハンモックを作ろうかな」  ミズキの表情や口調が穏やかなおかげで椿の緊張は徐々に和らいでいって、ガチガチだった体から力が抜けていく。  会話の最中に自然と笑みが浮かび、気付いたらミズキの目を見て自ら話題を振る事も出来るようになっていた。  楽しい。嬉しい。誰かと話していて心からそう思えるのは久しぶりだった。 「そう言えばこの前、仕事で失敗して怒られたんだけど……」 「ミズキさんも怒られたりするんですか?」 「するよ、もちろん。特にヒナタが怖いんだ」 「分かります」  フェイント気味に激しく同意の意志を示せば、後頭部に何かがぶつかるような軽い衝撃を受けて、椿は慌てて振り返る。  朝と同じ、黒い制服を着たヒナタが腕を組んで立っていて、飛び出しそうになった悲鳴を寸でで飲み込んだ。 「何が、分かります、って? あ?」  言いながら、ヒナタは片手に持っていた大きな封筒で椿の顔を叩く。  軽く当てられる程度で痛みは全くなかったが、ヒナタから放たれる威圧感が凄まじい。 「す、すいません……っ」  椿が謝罪を口にすると、ヒナタはミズキの元へと歩み寄り、同じようにミズキの頭を封筒で叩いた。  ただ、椿の時より何倍も優しい力加減だ。 「人の悪口言ってんなよ」 「悪口じゃないよ。ヒナタが怖いって話」 「それを悪口って言うんだろうが」  大きな封筒が、再びミズキの頭頂部に落ちる。  ミズキは、ごめんごめん、と謝ってから、ヒナタの腰に腕を回して抱き寄せた。  その動作があまりにも自然で、関係ないはずの椿の心臓がドキリと跳ねた。  ヒナタはミズキの手を嫌がりもせずに、椅子に座ったミズキの傍らに身を寄せている。 (この二人、一体どういう関係なんだろう……)  昨日から薄々は感じていたが、家族や友人、主従関係とは明らかに違う異質な空気が二人を取り巻いている。  もしかして、恋人……。  ここまで絵になる美しい二人であれば、ホモだ何だと騒ぎ立てる気も起きないが……。  その可能性が頭を過ぎると、椿の心がわずかな焦りに揺れた。  ただ、何に焦っているのかと問われても、これだという答えが見つからない。 「おい、聞いてんのか」 「えっ」  ヒナタはいつの間にか空いていた椅子に座っていて、頬杖をつきながら椿の事を見ている。  テーブルの上には大きな封筒と、何人もの男性の写真が貼られた書類が数枚広げられていた。  ミズキもヒナタも椿の方へと視線を向けていて、先程とはまた質の違う焦りに襲われる。 「す、すいません、ぼんやりしてて」 「あのなぁ、こっちはお前の為にやってんだぞ?」 「ヒナタ、もっと優しく」  ミズキが苦笑しながらそう言うと、ヒナタは口元を歪めて黙ってしまった。  説明を放棄したヒナタに代わって、ミズキが口を開く。 「椿の捜索願が出されていないか、協会や近隣の保護施設に問い合わせたんだ」 「は、はぁ……」 「……あぁ、えぇっと、オメガは初めての発情期が来たら、番(つがい)……パートナーになるアルファを紹介されるんだ。それが協会だね。そして、番と死別したり、何らかの事情で番関係が解消されて相手のいなくなった場合、新しく番になるアルファが見つかるまでオメガの面倒を見てくれるのが保護施設だよ」 「はぁ……、そんなシステムがあるんですね……」  アルファとオメガという種は、椿が思っているよりも壮大なようだ。  ミズキはアルファ、ヒナタはオメガ。  夜中、この家にはミズキとヒナタ以外にはベータしかいないとヒナタが言っていたのを思い出す。  となれば、この二人は、その番というパートナーなのだろう。  ミズキはテーブルの上に置いてあった書類を一枚一枚確認しながら、困ったように頭を掻く。 「番のオメガがいなくなったら、絶対このどちらかに報告が来るはずなんだけど……」  その書類が尋ね人の一覧だとすれば、その中に椿の情報が無いのは当たり前だ。  昨日こちらの世界にやって来たばかりの椿に、自分を探してくれる番などいるわけがない。  何と言えば良いのか分からず、申し訳無さに視線が下がる。 「明日、もっと遠い所の施設にも聞いてみる予定なんだけど、住んでた場所とか、何か覚えてないかな」 「……いいえ、何も。すいません」  住んでいた場所なら覚えている。郵便番号も住所も、近くにあるスーパーやゲームセンターの名前まで言える。  けれどそれを言った所で、ミズキ達がその場所を見つける事は不可能なのだ。 「あ、あの……、もし、家が見つからなかったら、俺はどうなるんですか?」 「その時は、保護施設にしばらく保護してもらって、それでも番が見つからない場合は新しい相手を紹介してもらう事になるね」 「新しい番……?」  そ、それって、知らない男とパートナーにされるって事……?  妊娠出来るオメガと、受精確率の高いアルファ。  その二種類をパートナーにすると言う事は、恐らく……。  知らない男に抱かれている自分の姿が脳裏に浮かんで、椿はきつく拳を握り締めた。  顔面蒼白になって震える椿の背中を、ミズキの手が優しく叩く。 「そんなに心配しなくても、きっとすぐに見つかるよ」 「……こ、ここに」 「え?」 「ここに居させてください……!!」  ミズキは目を見開き、今まで黙っていたヒナタは「はぁ?」と怪訝そうな声を漏らした。  そんな事出来るわけないだろ、と、ヒナタが呆れたように言う。ミズキもそれを否定しなかった。 「椿……。既に番のいるアルファが二人目のオメガを迎える事は出来ないんだ……。この家には俺しかアルファはいないし、俺には、ヒナタがいる」 「番とかじゃなくて、使用人としてここに置いてほしいんです……! 皿洗いでも掃除でも洗濯でも、俺っ、ほとんどやった事無いけど、死ぬ気で頑張りますから……!」 「つ、椿……!」  椿は椅子から立ち上がると、地面に膝を付いて頭を下げた。硬いタイルの上に額を擦り付けながら、お願いします、お願いしますと懇願する。  ミズキは慌てて椅子から飛び降りると、地面に這い蹲る椿を抱え起こす。 「そんな事はやめてくれ、君をここに置いておくのが嫌なわけじゃないんだ。アルファが一人しかいない家にオメガが二人いるのは許されないんだよ」 「だって、だって、じゃあ俺は……!」  ミズキを困らせたくはない。  でも、だからと言って、そうなんですね、と簡単には引き下がれない。  この世界に一人で放り出されて、頼れるのはミズキとヒナタしかいない。居場所はここにしかない。  瞳にじわりと涙が滲んで、世界がぼやける。 「じゃあ、妊娠出来ない事にすれば?」  混乱する場に水を打ったのは、ヒナタの声だった。  再び土下座の体勢をとっていた椿は、足を組んで椅子に座ったままのヒナタを見上げる。 「ヒナタ、何を!」 「妊娠出来ないオメガはアルファの番には出来ないから、協会も保護施設も門前払い。不用品。そんなオメガが、番のいるアルファの家に転がりこもうが道端で野垂れ死のうが気にもされない。そうだろ?」 「ヒナタ……」  ミズキはゆっくりと立ち上がると、ヒナタの手を握って視線を合わせる。  二人は小声で何かを話していたが、心臓の鼓動が大音量で頭の中に響いている椿にはほとんど聞き取れなかった。  もしかして、ヒナタが説得しようとしてくれている……?  椿は呆然と座り込んだまま、二人の会話が終わるのを待つ。 「いいじゃん、俺の世話係にでも雇ってやれよ」  呑気に口元を笑ませるヒナタと違って、ミズキの表情は深刻そうだ。  少しの沈黙の後、ミズキが重く唸るように声を漏らした。 「……分かった。ヒナタが、言うのなら」  ミズキは地面に跪くと、椿の瞳を真っ直ぐに見据える。 「偽りとはいえ、妊娠出来ないオメガになると、世間からたくさん嫌な事を言われたりされたりする。俺が守りきれない事もあるかもしれない。死にたくなる事もあるだろう。それでも、良いの……?」 「は、はい……、はいっ、覚悟します……っ」  生きている時に、嫌な事をたくさん言われた。たくさんされた。誰にも守ってもらえなかった。毎日死にたいと思っていた。  その地獄を知っているから、簡単に「大丈夫です」とは言えなかったけれど、だからこそ覚悟は出来る。  前にいた世界での自分みたいに「死にたい」が「死のう」に変わるまでは、この世界で生きていくしかない。  それならばせめて、その過程くらいは自分で選びたい。  ミズキは溜め息を吐くと、地面に置かれた椿の手を優しく握り締めた。 「椿の家が見つかるまではここに居てくれていい。保護施設や協会に引き渡さないって約束するよ」 「はい……、はい、有難うございます……、有難う、ございます……」  何も解決したわけではないが、安堵の波が一気に押し寄せて来て、涙となって瞳から溢れた。  ミズキに何度も感謝の言葉を告げてから、ヒナタの方へと顔を向ける。 「ヒ、ヒナタさんも、有難うございます……っ」 「……きったねぇ顔だな、おい」  そう言って泣き顔を嗤われ、椿は慌てて両手で顔を覆う。  せっかく見直したのに、相変わらずひどい性格だな、この人。  でも何だかそれすらも嬉しくて、一緒に笑いたくなった。  
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