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第二章
次の日、奏太は早めに起きて学校の勉強をしていた。昨日は結局、何もしないままで終わってしまったので今日は昨日の分も取り返さなければならない。ページを開いて、勉強に集中しようとしても昨日見た服の柄が頭によぎる。そういえば昨日、売り物になりそうなんて言っていたな。あの服が似合うのはどんな人なのか考えながら、奏太はぼんやりと勉強を進めていた。午後になってやっと勉強のノルマを達成した。じっくりと時間をかけたはずなのに、頭には何も残っていない。奏太は、何も考えずに携帯と上着をつかむと家から逃げるように和服店を目指していた。
店では女店主が僕を待っていた。
「やっぱり、今日も来てくれたね。上がって、新しい着物が仕上がったところなの。」
そう言われるがままに、気がつけば僕は奥の部屋に通されて正座させられていた。そわそわしながら待っていると、女店主が紺色の布を持って戻ってきた。裏返しにしてあるようだ。
「じゃじゃーん」
そう言って、女店主がバッと和服を裏返すと黒の下地に朱や赤といった色の紅葉が散っていて、引き込まれそうだった。店主が誇らしそうな顔をしているのを横目に僕は、ため息が出るほどに見とれていた。そのとき、どこからか低い動物のうなり声のようなものが聞こえた気がした。はっとして、辺りを見回しても、動物はいない。すると女店主は、少し呆れたような顔をして、席を外したかと思えばおにぎりを片手に戻ってきた。そのときにやっと、さっきの動物のうなり声が自分の空腹を知らせる音だったと気がついた。恥ずかしくなって今すぐにでも逃げたかったが、おにぎりをせっかく持ってきてくれたので頂くことにした。
おにぎりを食べているときも僕は着物を眺めていた。大小が様々な赤い紅葉の存在を黒い下地がより強く印象づけている。女店主が気を利かせてくれたのか、帯も持ってきてくれた。帯は黒いラインが赤いラインに挟まれていて、その黒いラインの上には独特の存在感を醸し出す、紫と白の藤の花が花を散らしている様子が描かれていた。
「奏太君、食べる手を止めるほど綺麗に見える?」
女店主にはい、と答えると思ってもいなかった返事が返ってきた。
「着てみる?この服。」
その瞬間に、うれしさよりも不安感や罪悪感ともいえない複雑な気持ちに飲まれそうになった。
「いえ、みてる方が好きです。」
そう答えて、僕は視線を和服に戻した。その日の帰りに、女店主がこういった。
「これる日は是非来てよ。買わなくてもいいから、一人よりは賑やかだからさ。」
僕はそれがすごくうれしくて、ほとんど毎日通った。ある日には、模様を一緒に考えたり、刺繍の練習をして、手伝うほどに仲良くなった。まだまだ店主に比べれば刺繍は歪だが、形が整う程度にはなってきた。そして、奏太の刺繍の腕が上がるのと同じくらいの時間で、家の重い空気も消えていった。
夏休みも残り少なくなった日も、奏太は着物店に行た。その日は、店主が少し暗い気がしたが一緒に刺繍をしていたらそんな心配もどこかに行ってしまった。
「じゃあまた来ます。もうすぐ完成なので早く綺麗に仕上げられるようになりたいです。」
今は、二人で一つの服を仕上げている。それがもうすぐ完成する予定だ。遅くても、夏休みが終わるまでには完成すると思う。だが、
「ごめん、奏太。明日はお店開いてないんだよね。いつも手伝ってもらってるしこれ持って行って。一日は簡単につぶせると思うから。」
そう言って、箱が入った紙袋を渡してくれた店主の顔は、うれしそうにも、寂しそうにも見えたが、僕にはどうしたのかと聞くほどの勇気はなかった。その日、家に帰って開けたその箱に入っていたものは、僕にぴったりのサイズの和服で今まで見てきたものよりも綺麗だった。着る気にはならなかったが、見ているだけでも一日を潰すのは簡単だった。灰の上に赤い金魚が泳いでいる。金魚は今にも動き出しそうで、圧倒的な存在感が灰色の地味な着物を華やかに飾っていた。金魚は悠々しくしく泳いでいるが、寂しそうにも見えてしまう。そういえば、なぜ今日に店を休むのか聞いていなかった。明日、店に行ったときにでも聞こうと思った。奏太は、和服を丁寧に紙袋にしまった。だが、和服と一緒に紙袋に入っていた封筒に奏太は気がつかなかった。
翌日、奏太が店に行っても、店主は留守だった。客が来たところを見たことはないが、さすがに張り紙などもなしに店を休ませるのはどうかと思う。和服を見られないことが不満だが、しょうがなく帰ることにした。帰り道、奏太は店が閉まっていることが不思議でたまらなかった。確かに一昨日、店主は明日は店を閉めると言っていたが今日まで閉めるとは聞いていない。単に伝え忘れたりしただけと言うのなら、何も言うことはないが、どうにも胸騒ぎがして落ち着かなかった。家に帰ると、僕の部屋に来た母さんが、勝手に袋から僕の灰色の和服を取り出して眺めていた。
「何してるんだよ!」
気が付けば僕は、母さんの手から強引に和服を取り返してにらみつけていた。
「ごめんさなさい、大切なものだとは知らなくて。」
その驚いた顔は、毎日見る優しそうな顔と違っていてとても憎らしく見えた。
「これに触るな!やめてくれよ!」
結局母さんが僕の部屋から出ていくまで僕は自分の服を固く握って、母さんを睨んでいた。僕は服を綺麗にたたんで紙袋に戻そうとした。その時に、紙袋の中に封筒が入っているのを見つけた。綺麗に糊付けがされている白い封筒だった。
それを見つけた瞬間にこれは、女店主が書いたものだと確信した。何も疑わずに奏太は乱暴に封筒の口を破き、むさぼるように手紙を読んだ。そこにはよくできたドラマの展開にでもありそうなことが書き綴られていた。
___奏太へ
急にいなくなってごめんね。そういえば、私の名前言ってなかったよね。私の名前は神崎津っていうの。あ、津って書いてミナトって読むんだよ。かっこいいでしょ。
ごめんなさい。私は奏太に嘘をついていました。その嘘は、私が店を開けたことに関係しています。
確か、奏太には「店が賑やかになるから来て」って言ったけど、本当は着物に興味を持ってくれる人が欲しくて何とか捕まえようと思ったんだよね。私にはもう、時間がなくてここにはしばらく帰ってこれないから。
実は私、海外で和服の店を出しているところがあってそこにお呼ばれされちゃったんだ。私自身、海外でどんなふうに和服が使われてたり、着られてたりするのかすごく気になってはいたんだ。今回のを、断っちゃったらもうチャンスがないと思った。だから、私は海外に行くことに決めました。
これで最後。もう一つ嘘があります。私が海外に行く理由は、和服店だけが理由ではありません。アメリカに一度、入院して手術を受けに行きます。この手術は、アメリカでしか受けられないものらしくてすっごいお金もかかるんだけど、退院したらすぐにその着物店に行かなきゃいけないから。ほんとに時間がなくて。ごめんなさい。
奏太には、私がいなくなった後のお店を私が日本に帰る日まで預かってて欲しいの。もちろん、馬鹿な話だとは思ってる。でも、年齢の割に奏太はしっかりしてるし二人で仕上げるって言った服も後は奏太一人でも出来ると思う。別に向こうのお店で働くとかじゃないけど、一週間くらいお店の手伝いとかをしに行ってくるだけだから。でも、入院しなきゃだからそっちは多分長くなると思う。最短で半年だって。日本でも治療が出来ない訳じゃないんだけど、退院したお店に行くのが間に合わなくなっちゃうみたいで。しっかり直してから行きたくて、向こうで治療することにしました。
奏太が私がいなくなった後でも和服を作ったり、眺めたりしたい時は封筒の中にお店の鍵を一緒に入れておいたから。いつでも好きなときに行ってあげて。道具とかも全部自由に使ってくれていいから。
___ごめんね奏太。お店はよろしく。
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