act.02

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act.02

[2]  村井が病院に着くと、右手に包帯を巻いた夏木が、煤だらけの顔のまま待合室に出てきた。一般患者が、焦げ臭さに顔を顰め、夏木の見るとすぐに好奇の色を顔に浮かべた。  湿った前髪が垂れた夏木の顔は、煤にまみれても十分に美しく、人目を惹く。 「色男が台無しだな」  村井は、濡らして絞ったタオルを夏木に手渡す。夏木は「すみません」と小さな声で謝って顔を拭いた。 「で、傷の具合は」 「大したことはありません。三日もしたら、包帯は取れます」 「そうか」  村井が夏木の腰を軽く叩いて、病院の前に止めた出張所の車に夏木を乗せる。 「随分久しぶりだったな。“発作”」  車をスタートさせながら、村井が言う。夏木は再度「すみません」と謝った。 「やっぱ長居のおやっさんが居ないと駄目か?」  村井は真っ直ぐ前を見つめたまま、話を続けた。  夏木が、珍しく返事を返してくる。 「そういう訳ではないと思うんですが……」 「そうだな。事実、おやっさんが引退した後、現場に出たことはいくつもあった。お前……、日高となんかあったか?」  何か含みがある村井の声に、夏木は思わず村井の横顔に目をやる。 「どういう意味ですか?」  いや……と村井は、言葉を濁す。 「別に何でもないならいいが、日高が加わった後に、すぐこれだったからな。ひょっとして、と思ってよ」  夏木が、ため息をついて車の背もたれに深く身を沈める。 「本当にすみませんでした。自分は、彼の身も危険に晒してしまった。消防士として失格ですね。さすがに、後藤田さんも呆れ返ったでしょう」  夏木はその面差しのせいで冷たく見られる男だが、性根はそうではない。自分の身体の中に爆弾を抱え、傷を負う度に人知れず深く心を痛めていた。  村井も近森も後藤田も、そのことを知っていた。これまで夏木が、どんな思いで消防士を続けてきたか……。  幼い頃、火事で両親を失って以来、夏木は天涯孤独だった。  そして彼は、自分を火事場から救ってくれた消防士に憧れ、高校を卒業して直ぐに消防官になった。  後藤田は、夏木が消防学校に通っていた頃の校長だった男だ。  後藤田は、夏木の純粋さとひたむきさ、そして消防士としての才能を見出し、後見人を勤めてきた。彼のお陰で、夏木は今まで消防士を続けていられるのだ。後藤田は今でも、彼が今の心の傷を乗り越え、名実ともに優れた消防士として活躍することを切に願っている。夏木がその気になれば、日高正成にも負けない『伝説の消防官』になることだって可能だろう。夏木を理解する者は皆、彼の技術の高さがみすみす失われてしまうのを黙って見ていることはできなかった。  だが、夏木にとってそれは、ある意味拷問だったのかもしれない。  夏木は、その胸の内に抱いている闇をさらけ出すことは一切しなかったが、何か贖罪めいた気持ちを抱え、消防士を続けていることは明らかだった。  今でも彼は、コントロールできない自分の身体と、拭いきれない心の闇を抱えて戦い続けている……。  目の前の赤信号が、青に変わった。  淋しげな目をして車窓の向こうを見つめている夏木の横顔を盗み見ながら、村井はゆっくりとアクセルを踏んだ。      「ああ、もう苦痛。無理。面倒くさい」  日高のデスクの隣で、臼井がパソコンに向かいつつ、ずっと愚痴っている。  日高も臼井と同じくパソコンに向かいつつ、横目で臼井を見た。   ジーと見つめ続けていると、流石の臼井も日高の視線に気づいたらしい。 「 ── え? あれ? 俺、ウザいっすか?」  臼井のセリフに、日高は無言で頷いた。  臼井は「ですよねー。すみません、つい無意識に出ちゃって………」と頭を掻く。 「俺、書類仕事、苦手なんっすよねぇ」  書類仕事とはいっても。  自分が調べてきた内容を元に、頭を使って資料を作成している日高に比べ、臼井がしていることは、近森と村井から回された手書きの調査資料や出動報告書を単にデータ入力しているだけだ。  世間では知られていないが、意外と消防士は書類仕事をすることが多い。  道路工事や露店の出店許可、消防訓練に伴う消防職員の派遣などの各種届け出や申請書の処理、管内の建物査察の結果報告書、調査活動の資料作成などなど………。  その中でも特に難しいのは、火災の出動報告書だ。  どんな小さなボヤ火災でも、出動すれば必ず報告書を作成しなくてはならない。  出動報告書は、後々裁判での証拠にもなりうる特に重要な書類なので、神経を使う。  記載内容も、できるだけ細かく正確に鎮火までの流れを記録しなくてはならないので、日本語力も問われるものだ。  近年、消防の世界もデジタル化の波が押し寄せ、報告書や各種申請書、調査資料はすべて消防独自の管理システムに入力していく形になったので、報告書の作成は随分楽になっていたが、ベテラン組の中にはパソコン自体を毛嫌いしている職員も多く、結果的にパソコンが使える若い職員達に入力作業を押し付けてくる年長者は数多い。  村井もどちらかと言えばパソコンが使える世代だとは思うが、「俺の筋肉は、パソコンを使うようにはできてない」と変な難癖をつけて、臼井や夏木にデータ入力を押し付けているようだ。  もっとも、村井は皆の食事の準備を一人で行なっていることが多いので、そこは持ちつ持たれつと言ったところだろうか。  今も村井は、食材の買い出しに出かけている。 「司令補、先日の出動報告書、できました」  日高の向かいの席で同じようにパソコン作業をしていた夏木が立ち上がり、複合コピー機から出力した紙を手に取ると、それを近森の席まで持って行った。  近森は、夏木の作成した報告書を一読すると、「うむ」と頷く。  つまり、OKという意味だ。 「では、データ送信します」 「ご苦労」  夏木は席に戻り、送信ボタンを押した後、席を立って、事務室から出て行った。 「 ── 一発OKなんだ」  日高は目を丸くして、ボソリと呟く。  先日、日高が今の夏木のように報告書を提出した時、近森から赤ペンをビッシリと入れられたものが突き返されてきた。  日高も、どちらかと言えば書類仕事は苦手な方だから、仕方ないといえば仕方ないが、近森のチェック内容は、下手したら中央署の管理職連中より厳しいように思える。 「あの人、書類仕事“だけ”は得意なんですよねぇ」  臼井がパソコンの画面を見たまま、そう言った。  日高は、再び臼井を見る。  臼井は機関員なので、火事場に直接は入らない。  だから夏木の現場での実力を目にすることがないから、そう思うのだろう。  夏木が例の発作さえ起こさなければ、消火活動に関してもピカイチの腕前であることを知らないのだ。  だから近森や村井が夏木のミスをとやかく言わないのを、いつも不思議に………といよりは訝しげに思っている節が窺えた。  それは、余所の消防署や出張所の連中も同じだ。  身近で夏木の腕前を見る機会がない人間は、夏木の『メンタル系ヤバイやつ』という評価だけで彼を判断する。  事実、日高も風岡出張所に赴任するまでは、そう思っていた。 「 ── な、なんっすか? 俺、なんか変なこと、また変なこと言っちゃいましたかね?」  あまりにもまたジッと日高が見つめていたことに不安を感じたのか、臼井がそう訊いてきた。 「あ、いや………」  日高が曖昧な返事をした時、夏木が事務室に戻ってきた。  コーヒー片手に、窓際に置かれた応接セットのソファーに腰を下ろす。  職員の休憩コーナーとなっているそこには、漫画雑誌や新聞が散乱していたが、夏木はその散らかりを適度に整えた後、窓の外の風景に目をやった。  満開を過ぎた桜が風に吹かれる度にザァーと散って、ハラハラと舞った。  夏木の癖のない繊細な髪も風に吹かれ、サラサラと揺れる。  全体的に色素の薄い彼に、淡い色の桜吹雪はよく似合った。  日高の視線の先の光景は、夏木も含め、一枚の絵画のような美しさがあった。  彼が消防士特有の濃紺の作業服を着ていなければ、彼が消防士だなんて到底思われないだろう。  日高と同様にその光景を見つめていた臼井でさえ、さっきまで夏木に対して否定的なコメントを零していたのにもかかわらず、今は夏木が風に吹かれている姿にしばし見惚れている。  日高はその様子を、苦々しい思いで見つめていた。  ── あの容姿で、男を惑わせるのか。  日高は心の中で、そう呟いた。  暗くてドロドロとした感情が湧き上がってくる。  ── 涼しげで、おとなしそうなフリをして、妻子ある男の身を滅ぼしたのか。  確かに、窓辺の風景を眺める夏木の表情はどこか淋しげで、酷く儚く見える。  ちょっと面倒見のいい男なら、“守ってやりたい”と思うのかもしれない。  夏木が現場で発作を起こしフリーズしても、あの仕事に厳しい近森や職人気質の村井が彼を責めないのも、“守ってやりたい”と思わせる『魔性の魅力』が彼にあるせいなのかもしれない。  ふいに苛立ちが、日高の中に込み上げてくる。 「夏木さんはなぜ、消防士を続けているんですか?」  日高は突然、口を開いた。  以前村井に訊こうとして、答えをはぐらかされた質問。  村井から答えが得られないのなら、本人から訊くまでのことだ。 「え? ちょっ、そ、それ、本人に訊きます?」  日高の背後で、臼井がビビった声を上げる。  しかし日高は臼井をスルーして、夏木を見つめ続けた。  夏木がゆっくりと振り返る。 「質問、聞こえなかったですかね。もう一度言います。 ── 夏木さんはなんで…………」 「いい。聞こえてる」  夏木が静かに答えた。 「この前は、怖い思いをさせてしまって、すまなかった」     日高は、夏木の手に巻かれている包帯をちらりと見た。  そして再び、夏木を真っ直ぐ見つめる。 「別に謝ってほしくって言った訳じゃありません。単なる疑問です」  夏木はしばらく間を開けた後、こう言った。 「君のような優秀な人からしたら、俺みたいな人間と一緒に現場に出ることは不安だろう。その気持ちはよくわかる」 「いいえ。俺からしたら、あなたの消火技術はかなりのハイレベルだ。中央署でも、あなたレベルの隊員はそれほどいない」 「 ── いぇ? そ、そうなんっすか?」  夏木ではなく、臼井が反応を返してきた。  日高はそれもまたスルーして、質問を続けた。 「出場報告書も一発で仕上げられるということは、現状の把握にかけても、他の誰よりも長けている証拠です。それほど優秀な夏木さんなのに、なぜ現場でフリーズするんです? きっかけは同僚が火事場で殉職したせいだとのことですけど、それほどまでのトラウマになっているんだったら、わざわざ苦しい思いをしてまで消防士を続ける意味なんてないですよね? 夏木さんなら、消防士以外のもっと華々しい職業でも十分食っていけそうだと思いますけど」  夏木がゆっくりと瞬きをする。  その表情はとても真摯なもので、日高は更に嫌な気分に捕らわれた。  これまで夏木に向いていた苛立ちが、今度は自分に向いて。  夏木の“日高に責められて当然”と言わんばかりの表情を見ていると、まるで自分が彼を虐めているだけのようで、そんな自分が嫌になってきた。  日高は席から立ち上がって、「すみません。もう答えなくていいです」と夏木に告げると、事務室を出て行こうとした。  それを夏木の声が止める。 「待ってくれ、日高」  日高は、ドアの前で足を止めた。夏木を振り返る。  夏木は身体を日高の方に向け、言った。 「自分でも、この仕事にいつまでもしがみついていて情けないと思っているんだ。でも俺は、高校を卒業してからすぐに就職したから、消防の世界しか知らなくて…………。それしか、できなくて…………。ここをやめて、どう生きていっていいか、正直、わからない…………」  そう言いながら視線を下げる夏木は、仕事現場で見せる彼の聡明さとはかけ離れていて、本当に頼りなげに見えた。  ふいに胸の奥がズキリとして、日高は顔を顰めた。 「やめてください。そんな頼りなげな風を装うのは。あなたがそんな感じだから……!」 「?」  日高が突如言葉を止めたので、夏木も臼井も怪訝そうな表情で日高を見上げてくる。  日高は、ギリギリと奥歯を噛み締めた。 「もうそこまでにしろ、日高」  ずっと耳だけで傍観していた近森が、日高に声をかけてくる。 「当面、お前と夏木を組ませることはしない。だから安心しろ」 「 ── そ、そういうことを言ってるのでは…………」 「何をどう言いたいのかはわからんが、お前と夏木の相性が悪いのは、俺達にとっても不安材料になる。さすがにその意味は分かるな?」 「 ── は、はい……」 「所の周りでも走り込んでこい。調査資料のまとめは、明日の仕上がりになっても構わん」 「すみませんでした」  日高は頭を下げて、部屋を出て行く。  入れ違いに、村井が買い出しから帰ってきた。 「 ── ただいま〜。……って、おかえり〜の返事はないのかよ?」  村井はそう言ったが、すぐに場の雰囲気がおかしいことに気がついた。 「あ? なんだ? どうした?」  村井の疑問はそのままに、近森が俯き加減の夏木に近づき、声をかける。       「さっき日高に言われたこと、あまり気にするな。お前をこの職に引き止めているのは、後藤田さんだし、俺もその判断に異論はない。その点でお前は、日高に責められる謂れはない」 「はぁ?」  村井が派手に顔を顰めた。 「なんだ、夏木。あのニコニコハンサムボーイになんか言われたか?」  夏木は俯いたまま、「いえ……。悪いのは俺の方ですから………」と答える。  そして、「すみませんでした」と頭を下げると、彼もまた事務室を出て行った。  事情が飲み込めない村井は、再び席に座る近森を眺めた後、臼井を見た。  いや、正確には『睨みつけた』という方が正しい。 「う〜す〜いちゃん。食事の準備、手伝おっか」  村井の声は、セリフの内容とは裏腹で、恐ろしいほどドス黒かった。 [3]  休日。  静かでこぢんまりとした寺の境内に、バイクのエンジン音が響いた。  米軍払い下げのパイロットジャケットにジーンズという姿の日高がヘルメットを取ると、寺の住職が日高の姿を見つけた途端、ニコニコ微笑みながら会釈してきた。日高も笑顔で頭を下げる。  住職に水桶を借り、片手に白い花束と線香の箱を抱えつつ日高が向かった先は、日高家の墓だった。墓石の裏には、まだ刻印されて新しい日高の母の名前がある。  日高は墓の周りを丁寧に掃除すると、墓に水をかけ汚れを落とし、花を生けた。  白い花は、母親が好きだった花だ。特別母が好いていた花の種類は生憎覚えていないが、白い花だったことだけは、はっきりと覚えている。  ── 毎回種類を変えて買ってきているので、そのうち当たるだろう……。  母はそんな一人息子に墓の中で呆れ返っているかもしれない。  日高は両手を併せながら、息子なんてどこもそんなものだろうから、許してくれよと心の中で呟いた。    丁度その頃、村井は尾津井市内で二番目の規模を誇る市営のグラウンド場に来ていた。  見渡す限りガランとしたスタジアムに一人で座っていると、目の前のトラックを、車いすのロードレーサーが一台、猛スピードで走り抜けていった。向こうの方でタイムを計っている連中から歓声が上がる。ゴールし終わったロードレーサーは、惰性でぐるりとトラックを回りながら、流線型のヘルメットとサングラスを外した。  その顔は、日高優希を少し小柄にして、さらに優男にしたような風情の男だった。  日高正成。  日高優希の叔父にして、『伝説のレスキュー隊員』。  彼は、スタンドに村井が座っていることに気が付くと、笑顔を浮かべて手を挙げた。村井も手を挙げて応え、スタンドを降りる。 「ご無沙汰してます」  村井が頭を下げると、「堅苦しい挨拶はなしだ」と正成が答えた。  汗を流し終えた正成は、ロードレース用の車いすから普段使っている車いすに乗り換え、村井が買ってきたスポーツドリンクを受け取った。 「義足はもう使ってないんですね」  村井がそう訊くと、正成は膝下が失われている両膝を撫でながら「あれはあまり合わなくてね。今調整中なんだ」と答えた。  日高正成は、村井が消防士に成り立ての頃、同じ署で働いていた7年上の大先輩だった。その頃既に凄腕のレスキュー隊員だった正成は、村井が最も尊敬する消防官だった。  彼が消防の世界から引退を余儀なくされたのは、1995年阪神淡路大震災の時である。彼は自ら応援要員として志願し、神戸で救助活動に参加。倒壊家屋の中から多数の生存者を救出した後、突如起きた余震による二次災害に巻き込まれた。彼が生き伸びる為には、現場で両足を切断する他なかった。  当時、尾津井市西消防署で勤務状態にあった村井は、その日のニュースによってそのことを知らされた。多くの署員がそうであったように、その場で村井は号泣した。  そうして日高正成は、伝説のレスキュー隊員になった。  今でも、不屈の精神力は衰えておらず、両足切断のショックを乗り越え、障害者のオリンピックであるパラリンピックの陸上競技で日本代表の座を争っている最中だ。  村井は正成と目線が合うようにと、車いすの向かいにあるベンチに腰掛けた。正成がロードレース用の車いすを器用にばらす様子を見つめる。  運命のあの日はもう8年も前の話なのに、正成はあの頃のまま、ちっとも老け込まずそこにいる。だが、本来あるはずの彼の足が今ここにないことが口惜しくてならなかった。  正成はそう思われるのを嫌うだろうが、村井は会う度に後悔せずにはいられなかった。『あの時、なぜ自分はこの人の傍にいなかったのか』と。  今も、その村井の心中を正成は見透かしたのだろう。てきぱきとばらした車いすを片づけながら、「村井、お前、また変なこと考えてるんだろう」と言ってきた。  村井は「すみません」と頭を下げる。  村井が素直に頭を下げるのは、日高正成に対してぐらいのものだ。  正成は車いすを片づけ終わると、帰り支度を始めた。 「村井、今日どうやってここまで来た?」 「電車です」 「あれ? バイクは?」  そう訊かれ、村井は気まずそうに顔を顰めた。明後日の方向を見やる。 「養育費の為に売っぱらいました」 「え? お前、離婚したの?」 「もうとっくですよ。日高先輩には言いませんでしたっけ?」 「聞いたかな。よく覚えてない。お前の子ども……(そら)君だっけ? 元気?」 「無駄に元気ですよ」  お前に似てるんじゃないかと言いながら、正成は笑った。 「送って行ってやるよ。車だから」  正成について駐車場まで行く。  正成の車は、エンジ色のツーリングワゴン車だ。障害があっても自分で運転できるように改造してある。  正成は器用に運転席に乗り込むと、車いすを畳み、助手席を倒して後部座席に車いすを乗せた。村井のために再び助手席を起こす。 「失礼します」  村井が乗り込むと、正成は車のエンジンをかけた。 「そう言えば、肝心の用件を訊いてなかったな。今日はまた何で?」  本来ならギアがある位置にスピードを調節するレバーがついている。  正成は実にスムーズに車を転がしながら、村井に訊いてきた。  何となく本心が言えない村井が、「離婚報告」とぶざけると、「その手には乗るか」と釘を刺された。  正成は何もかもお見通しのようで、前を見たままニヤリと笑い、「俺の甥っ子のことだろう?」と言った。 「分かっているんなら、訊かんでください」  村井が鼻先を擦りながら言う。 「どうした? アイツ何かやらかしたか?」 「いや、そういう訳じゃないんですけど……」 「使えないか?」 「とんでもない。ウチに来て一ヶ月ですが、もう主要戦力ですよ。動きに無駄がない。正直、助かってます。随分」  正成は、フフフと鼻で笑う。 「アイツ、ああ見えて負けん気は俺より凄いからな。村井みたいな職人肌の人間が目の前にいると、闘争心に火がつくんだろう。涼しげな顔をしているが、情熱の男だよ、あれは」  正成も甥っ子のことは可愛いのだろう。目を細めて言う。それを聞いて、村井は益々解らなくなった。 「それなら何故、日高はレスキューの道を蹴ったんでしょう」  日高がぼんやりと墓の前に座っていると、一陣の風がふわっと吹き上げた。  線香の(かんば)しい香りが、日高の鼻を擽る。まるで母が自分に話しかけているようで、不意に日高の右目から一筋涙が零れた。  日高は慌てて周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、急いでその一粒の涙を袖で拭い、洟を啜った。  日高は、ジャケットの懐から古ぼけた手帳を取り出す。  深緑の皮表紙。小さいが分厚い手帳。  それは日高の父親が唯一彼に形見として残した日記だった。  日高がページを捲ると、無骨な字でびっしりと書き連ねてある。  ページのところどころは水に濡れたせいなのだろうか、インクが滲んでシワシワになっている。日高はぺらぺらとページを捲り、やがてしおりが挟んであるページを開いた。  最後の書き込みページ。  そこには書き殴ったような文字が、ページの真ん中に書いてあった。  『透、君を傷つけるようなことになって、すまない。こんなにも愛している』と。    なぜ、日高はレスキューの道を蹴ったのか。  村井が今度は素直に疑問を口にすると、正成がちらりと村井を見た。  正成が言う通り、それ程熱い情熱を心に秘めている男なら、レスキューの世界に飛び込んでみたいと思う方が自然なように思える。 「うちに来て初めての出場の時も、冷やかしでレスキュー試験を受けやがってと陰口を叩く奴がいました。そういう言い方は卑怯だと思いますが、現にそう思われても仕方がないと俺は思います」  村井がそう言った時点で、丁度信号に引っかかる。正成は赤信号を見つめながら、少し悲しげな表情を浮かべたのだった。 「優希は、冷やかしでレスキュー試験を受けたんじゃない。あれは冷やかしなんかで合格する試験じゃないし、そんな気分でいてはその後の研修に到底耐えられる筈ない。それは俺が一番よく知っている」 「日高先輩……」 「アイツは、本気でレスキューになるつもりだった。試験に合格して、40日間しごきにしごかれて、資格を受けるその瞬間まで。なぜなら、アイツにはそれだけの動機があった。俺がレスキューやってたから、なんて陳腐な理由なんかじゃないぜ。あいつも、お前と同じ理由があったからだ。『あの日、なぜ自分はあの場にいることができなかったのか』」  正成が村井をじっと見つめる。  村井はドキリとした。  正成が言ったことは、まさに村井が正成に対して思っている気持ちに他ならなかったからだ。  信号が青に変わって、後続車から軽くクラクションが鳴らされる。正成は車をスタートさせながら、その先を続けた。 「一昨年の末頃に高速道路上の玉突き事故があっただろう」 「ええ。確か、12台玉突きして、車両火災が3台。死亡者4名を出した……」 「そう。事故現場は、隣の市の管轄だったが、特殊な薬品を積んだタンクローリーが現場近くにいたために、中央署の連中にも後方支援の出動がかかったことは知ってるな」 「はい。その事故が何か?」 「その時の事故に、俺の姉 ── つまりアイツの母親が巻き込まれてな。レスキューに助け出されたんだが、病院へ搬送する途中に死亡した。もう少し救出が早かったら、助かっていたかもしれなかった」  正成にそう言われ、村井は驚きを隠せなかった。  そんな話、噂でも聞いていない。  村井の表情を正成は敏感に感じ取った。彼は、少し苦笑する。 「そのことが騒ぎにならなかったのは、俺がその話を抑え込んだからだ。当時優希は現場に出場していたものの、後方支援に止まったために、母親が事故現場に巻き込まれていることを知らなかった。アイツは、何も知らない状態で、母親が乗せられた救急車を現場で見送ったんだ。当然、そのことを後で知ったアイツはどん底まで落ち込んだ。母一人子一人で生きてきたからな。さすがにかわいそうで、余計な波風を立てたくなかった。だから俺は、渡瀬(わたせ)消防監にお願いしたんだ。この一件については、配慮して貰いたいと」  正成は、自分の地位と影響力を利用して何かするような男ではなかった。  その正成が、これまでの実績を圧力に変えてまで根回ししたとなると、それ相当のことだったのだろう。それを思うと、日高があそこまで立ち直っていることの方が驚異的に思えた。  目の前の正成といい、日高といい、日高家の男達は随分タフな精神力を持っているらしい。 「だから、レスキューですか。なるほど。自分がレスキュー隊員だったなら、もう少し早く助け出すことができたかもしれないと」 「もちろん、レスキューに成り立ての青二才にそんな芸当ができるほどレスキューの世界は甘くない。だが、動機にするには十分だろ?」  確かにそうだ。  村井は納得する。  だがそうなると、更に解らなくなる。何故日高は、レスキュー隊員になれるチャンスをみすみす断って、風岡出張所なんかに来たのだろう。 「残念ながら、その理由は解らない」  正成は呟く。 「もし考えられるとしたら……」 「考えられるとしたら?」  正成は、遠い目をして言った。 「アイツの父親も消防士でな。もう随分前に亡くなっているが……。その父親と昔パートナーを組んでいた男が、風岡にいる。でも、それだけだ。本当のところは俺にも分からない。アイツのことだから、何か考えがあるんだろうが……」  正成が話し終えた時、車は丁度駅前に到着したのだった。 [4]  その日、日高と夏木は、予防査察で管内の小学校を訪れていた。  予防査察とは、防災という観点で建物の安全性を確認する検査である。これもまた消防士として重要な仕事だ。  本来なら、尾津井市東署の予防課が行う仕事だが、先日他県で発生した大型公共施設の火災を受けて、尾津井市でも全域で一斉査察が行われることになり、人手不足から非番の職員が駆り出されていた。  風岡出張所も例外ではなく、日高と夏木は、午前中に小学校、午後は近隣の駅を回る予定だった。  防火扉の動作確認から、避難路の点検、消火設備が使える状態にあるかどうかの確認など、やることは単純だが、小学校ともなると確認箇所が多く、かなり時間がかかる。  だが幸いなことに、その小学校はきちんと日頃から管理がされているようで、特にトラブルはなかった。 「よし、これで終わりです」  夏木が点検をした内容を書類に書き込み、日高が声をかける。  夏木も「ああ」と返事をした。  丁度その時だ。 「夏木さぁ〜ん!」  廊下の端から、若い女性教師が手を振りながら駆け寄ってきた。  春らしい淡いピンクのスーツに気を包んだ、可愛らしいイメージの女性だった。 「佐藤さん」  夏木が少し驚いた表情を浮かべ、女性の名を呼ぶ。 「その節はどうも」  佐藤と呼ばれた女性教師は、にっこり微笑みながら、ペコリと頭を下げる。 「佐藤さん、どうしてここに?」 「四月からこの学校に移動になったんです。まさかこちらでもお会いできるとは思わなかったわ」  ── へぇ…………。  日高は、二人から少し距離をおいて、その光景を眺めた。  女性の朗らかさに釣られてか、夏木の表情もどこか柔らかだ。 「あの子、元気にしてるんですよ〜。ほらぁ、見てください」 「あ、本当ですね」  二人は楽しげに会話を交わしながら、女性教師が取り出したスマホの画面を覗き込んでいる。   ── なんだ。この人、男だけでなく、女もイケるのか。  日高はわざと粗野な言葉を使って、心の中で呟いた。  だがやっぱりそんな自分が心底嫌なヤツに思えて、またもや自分にうんざりする。  ここのところ、夏木と一緒にいると、すぐにこういうことになるから、正直日高は“恨み疲れ”を起こしていた。  人を恨むということは初めての経験だが、意外に自分自身が精神的に削られていくということを日高は知った。  日高は、夏木達をよそにため息をつく。  それに夏木が敏感に気がついた。 「あ、ああ。すまなかった。こちらは、佐藤先生だ。彼は同僚の日高君です」 「初めまして」  佐藤先生が、またぺこりと頭を下げる。  日高も釣られる様に頭を下げた。 「えっと………。いつも夏木先輩にお世話になってます」  焦った日高が思わずそういうと、佐藤先生と夏木は顔を見合わせて、同時に笑い始めた。  ── わ……。笑った…………。  日高は、夏木の笑顔を始めて目の当たりにして、大きな目をパチパチとさせた。  所ではいつも暗い顔をしていることが多いので、ある意味、衝撃的だった。  クールビューティーなイメージの夏木が、笑うと途端に雰囲気が柔らかくなる。  ── この人も、笑うことがあるんだ。  日高がそう思っていると、佐藤先生が「別に私、夏木さんとお付き合いしてる訳じゃないですよ」と手を左右に振った。 「え? あ、違うんですか?」 「夏木さんは、排水管にハマっしまっていた“この子”を助けてくれた人なんです」  佐藤先生は、日高にスマホの画面を向けてくる。 「…………ね、こ?…………」  スマホの画面上には、丸々と太ったトラ猫がおじさんの様にソファーに座り込んでいる奇妙な写真だった。  思わず日高の顔が緩む。 「こ、この子が排水管に?」 「あ、いや。俺が助けた時は、まだ子猫だったから」 「可愛いでしょ? チビちゃん」 「チビちゃん? この子の名前?」  およそ“チビ”とは言い難い猫の姿を指差して日高がそう訊くと、なぜか日高の隣で夏木がカァと頬を赤らめた。 「え? なっ……」  夏木の反応がいちいち信じられなくて、日高もギクシャクする。 「チビちゃんの名前をつけてくれたのは、夏木さんなんですよ」  佐藤先生がそう解説してくれる。 「あ〜…………」  日高が、合点がいったと言わんばかりに、大きく頷いた。  ── この人、凄く仕事ができるくせに、猫に名前をつけるセンスが異様に欠落してる。  日高が横目で夏木を見ると、夏木は顔を赤くしたまま、「いや、助けた時は凄く小さかったから………」と早口でそう言った。  今度は、日高が吹き出す番だ。 「いやぁ、夏木さん。子猫にチビはないですよ。絶対その後チビじゃなくなるのに」  日高が笑いながらそう言う様子を、今度は夏木がぼんやりとした顔つきで見つめてきた。 「でも、私は気に入ってるんですよ、チビちゃん」  そんな中、佐藤先生はそう言って、またニコニコと微笑んだのだった。      小学校を出て、日高達は近くの喫茶店で昼食を摂ることにした。  二人でナポリタンを頼んでそれを食べた後、食後のコーヒーが出てきた。  さっきのネコの件があったせいか、夏木はまたいつもの通りのだんまりに戻ってはいたが、その雰囲気はどことなくいつもと違っていた。  なんだかソワソワしたような、感じ。  おそらく、チビの件を日高にツッコまれ、テレくさいのだろう。  日高はその様子を見つめながら、思わずポツリと呟いた。 「…………魔性は魔性でも、天然の魔性、だったんだなぁ…………」 「? マショウ? テンネン?」  夏木が、怪訝そうな表情を浮かべて、小首を傾げる。  今度は、日高が顔を真っ赤にした。  無意識に思っていたことを口にしていたからだ。 「いっ、いや、今の、忘れてください」  日高はそう早口で捲し立て、グビグビとコーヒーを喉に流し込んだ。 「さ、次、行きましょうか。そろそろ時間です」 「あ、そうだな」  夏木とともに、席を立つ。  二人で車に乗り込み、駅に向かった。  日高は、運転席に座る夏木をちらりと盗み見る。  日高はてっきり、夏木は”わざわざ人を惹く仕草や行動を装って“、魔性の魅力を作り出しているのだと思っていた。  だからこそ、自分の父親はこの男に『惑わされた』と思っていた。  だがどうも、着任から今までずっと観察してきたが、夏木に取り分け二面性がある様には思えなかった。  むしろ、仕事はできるが私生活に関しては酷く不器用で、控えめな性格をしている。  表情に乏しく、黙っているとその冷たい美貌が余計に拍車をかけて、冷徹でミステリアスな人のように見えるのだ。  ── だとしたらこの人、メチャメチャ損な生き方してないか?  日高は夏木を見つめながら、そう思った。  しかし夏木は日高の視線を、別の意味で捉えたらしい。 「近森さんも、人が悪いよな。現場では日高と一緒に組まさないって言っていたのに、予防査察では一緒にさせるだなんて。俺に気を使わないといけないから、疲れるだろ? 申し訳ない」  前を見て車を運転を続けながらも、夏木はそう言う。 「い、いえ。そんなことないです」  日高は慌ててそう返したが、夏木は「そんな疲れた顔しているのに、無理だよ」と少し笑った。  人の機微を感じることに関しては、夏木は鋭いようだ。  事実、夏木といると疲れを感じているのは正しかったので、バツが悪い。   だが、その理由は夏木に気を使っているためではなく、夏木を心の中で強引に蔑もうと頑張っている自分に嫌気がさすという消化不良の悪循環を繰り返しているためだ。  それは日高の中の問題であって、夏木のせいではない。 「所に戻ったら、近森さんに配慮してもらうよう、言っておくから」 「い、いや! それはやめてください。夏木さんに気をつかって疲れている訳じゃないんです」  そのタイミングで信号に引っかかり、夏木は横目で日高を見る。  日高の本心を推し量っているようだ。  日高は、「本当にそれ、違いますから」と夏木を真っ直ぐ見つめ、日高は言った。  夏木は納得したようだ。  信号が青になる。  しばらくの間の後、夏木がこう口を開いた。 「 ── 日高も疲れることがあるんだと知って、ホッとしたよ。君も普通の人間だったんだな」 「どういう意味です?」 「日高が着任する前から、『鳴り物入りの天才がやってくる』って凄い噂になっていたから。あの日高正成さんの甥っ子だし、レスキュー試験もトップ合格したヤツだって聞いて、どんなエリートが来るんだと、皆そわそわしてたからな」 「 ── それ………夏木さんも?」 「俺?」 「ええ」  夏木は「そうだなぁ」と呟いて、また少し微笑みを浮かべた。 「俺も、緊張してたかな。警察官僚のエリートみたいなヤツが来ると思ってたから」 「なんだ、期待を裏切っちゃったかな」  日高が夏木から視線を外して苦笑いすると、「いい意味で期待を裏切ったんだから、いいじゃないか」と夏木にすぐさま返された。 「皆、安心してるよ。日高がとてもいいヤツで。日高がいると、所内がパッと明るくなる。臼井が一番喜んでるよ。今まで年の離れた頭の硬い先輩連中しかいなかったからさ」 「 ── そんな簡単に、俺が“いいヤツ”だなんて言っていいんですか?」 「え?」  夏木が自分を見つめてくるのを感じたが、日高は夏木の質問に答えず、車窓を流れる風景を見つめ続けた。         その日の午後、日高と夏木が予防査察を担当する駅は、ホームが二つしかない小規模の駅だった。  できてまだ新しい駅だったので、査察はすぐに終わった。古い駅と比べると建物自体の防災構造がきちんとしているからだ。  ただ、スプリンクラーの一カ所で鳥の羽によって目詰まりしていた箇所のメンテナンスと、避難路に当たる部分にキヨスクの商品在庫とみられる大きな荷物がせり出していたので、撤去するように指導をした。  その間も、ホームにたむろしている女子高生達が日高と夏木の姿を見て、密やかながらも黄色い声を上げていた。  試験期間中なのか、それともサボっているのか。  彼女達は日高らと一定の距離を置きつつも、日高達のしていることに興味津々の様子だった。  紺色の作業ズボンに揃いの色のキャップ。そして黒のブルゾン。背中には、青の刺繍糸を使って英語で『尾津井市東消防署』と書かかれている。例えそんな地味な格好でも、日高と夏木は人目を惹いた。  双方とも、一人で立っていても目立つのだ。二人でいると益々目立つ。  二人は女子高生の熱い視線にあえて気づかないフリをしながら、査察の終了を駅長に告げ、挨拶を交わした。 「一息つきませんか? 俺、コーヒー買ってきます」  ホームで駅長と別れてから、日高は自動販売機を指さして言った。  夕べは、真夜中に発生した交通事故のために出場がかかった。互いにあまり眠れていない。正直、女子高生の甲高い騒ぎ声は寝不足の頭に響いた。  遠くに電車の警笛を聞きながら、日高が小銭を販売機に入れたと同時に、背後からその女子高生達の悲鳴が上がった。今度は日高達を囃し立てる黄色い声ではなく、明らかに危険を感じている声だった。  日高は反射的に振り返る。  日高の目に、ホームから線路に転落する中年サラリーマンの後ろ姿と、その男に向かって走る夏木の姿がよぎった。  夏木の被っていたキャップが宙を舞う……。 「夏木さん!」  ホーム下に中年男と夏木の姿が消えた直後、6両編成の普通電車が大きく軋んだ音をさせながらホームに侵入して、急停車した。  日高はその場に呆然と立ち竦む。  全身から汗が噴き出していた。  周囲は突然のアクシデントに動揺した人々の悲鳴と怒鳴り声で騒然とし始めていた。  日高はハッとする。  ── 駄目だ。この状況はまずい。  日高は消防官としての顔を取り戻すと、辺りによく通る声で怒鳴った。 「皆さん落ち着いてください! 消防署の者です! 皆さん、道を開けてください!」  毅然とした日高の声に、落下地点に群がりつつあった人の壁が、さぁっと引いた。 「夏木さん! 夏木さん!」  ホーム下に向かって叫んでも、返事はない。  日高の額から、急に冷や汗が吹き出してきた。  駅員と駅長が駆け寄ってくる。  明らかに酷く動揺している二人に向かって、日高は指示を出した。 「まずは列車の管制センターに事故があったことを知らせてください。この駅に乗り入れる電車を止めてもらって。それと、駅構内とこの列車の中にもアナウンスしてください。落ち着いてもらうよう何度も繰り返して。それから、消防に連絡。列車内にいる乗客の安否も確認してください。さっきの急停車で、怪我をしている方がいるかもしれない。他の職員の方には、ホーム内の人の誘導をお願いします。パニックにならないように、ホームの外まで誘導してください。僕は、落ちた二人の安否を確認します」  日高の冷静な様子に、駅長も駅員も落ち着きを取り戻し始めた。降りてきていた列車の運転手と車掌が一番青ざめた顔をしていたが、日高が二人の肩を叩くと、彼らは息を少し吐いて頷き、それぞれ持ち場に戻って行った。 「よし! 適切に対応をしよう!」  駅長が駅員らに声をかけて、一斉誘導が始まる。  日高は、表面的に冷静さを保っていたが、内心はその場に倒れそうな程の恐怖を感じていた。  ── あのタイミングでは、とても助かったとは思えない……。  今にも身体中が震え出しそうだったが、消防士である以上、そんな素振りは見せられなかった。皆、日高を頼りにしている目線を送っている。  日高は自分の感情を抑えつつ、ホーム下になおも声をかけ続けた。 「夏木さん! 返事してください!」  日高は、被っていたキャップを背後に投げ捨て、列車とホームの間に頭を擦り付け、下を覗き込んだ。だが暗くて見えない。  ホームの端を掴む自分の手が小刻みに震えているのを感じて、「しっかりしろ」と日高は小声で自分を叱咤した。  冷静になるように言い聞かせながら、周辺の臭いを嗅ぐ。  オイルの臭いばかりで、血の臭いはしない。まだ希望は残されている……。    その頃、完全な非番シフトに引っかかっていた村井は、後藤田から携帯電話に直接連絡を受けていた。  夏木がホーム転落事故に巻き込まれたかも知れないという知らせを。  村井は取るものも取り敢えず、タクシーを拾った。  夏木の今日のパートナーが日高であることが気にかかっていた。  村井の脳裏に、あの現場での日高の目つきが思い起こされる。  背中がゾクリとした。  あいつは今回も、夏木の行動をじっと見ているだけだったんじゃないか……と。 「運転手さん、急いでもらえませんかね」  村井は酷く苛立った口調で、運転手を追い立てた。
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