act.03

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act.03

[5]  日高は、列車とホームの間に腕を突っ込んだ。  隙間はとても狭く、ホームのセメントに腕が擦られて痛みを感じる。  だが、そんなことには構っていられなかった。  まずは、夏木と転落した男性の身体がどこにあるのかを把握したかった。  状況が解らぬうちに列車を動かすわけにはいかないが、身体の位置さえ把握できれば、動かすことは可能かも知れない。 「夏木さん……!」  日高は、祈るような気持ちで腕を伸ばした。  ふいに手をグイッと捕まれる。 「……無事だ……。電車をどけてくれ」  夏木の細い声が聞こえてきた。軽く咳き込んではいたが、しっかりした声だった。  日高は夏木の手をぎゅっと握り返した後、腕を引き抜いた。  振り返って、背後にいた駅長を見る。 「生きています。電車をゆっくり下げてください」  電車が、再び軋んだ音を立て始める。 「夏木さん、車体を動かします。めいいっぱい下がっていてください」 「……分かった」  どうやらホームの下にある僅かな隙間に転がり込んでいるらしい。  随分長い時間に感じられたが、ようやく二人の姿が確認できる程度に電車が下がる。  日高は安全を確認して、線路に飛び降りた。  素早く中年男性の身体をチェックし、脈拍を取る。  落ちた時の傷だろうか、中年男性の膝小僧が両方破れて血が滲んでいるようだったが、見る限り命に別状はなさそうである。  一方夏木は、男性を庇った時にぶつけたのか、額を切っていて血が流れていた。 「二人とも無事です」  日高が心配げな駅員達に向かってそう言うと、歓声が上がった。その頃になって、駅の外からサイレンが聞こえ始める。  日高は、両目を見開いたままボロボロと涙を流している中年男性に「大丈夫ですよ」と声をかけながら抱き上げた。  ちらりと夏木を見ると、「俺は平気だ」というように夏木が手を挙げる。  見た目は夏木の方が重い傷を負っていたが、消防官としてはまず民間人から救出をするのが暗黙のルールとなっていた。  日高は、男性の身体を持ち上げた。駅員が二人がかりで男性をホームの上にまで運び上げる。  日高がホーム内に走り込んでくる救急隊員の姿を確認して振り返ると、夏木は自力で立ち上がっていた。  まずは日高がホームに上がって、夏木の腕をひっぱり上げる。  ホームに夏木の姿が現れると、列車の中で息を潜めていた乗客やホームで固唾を飲んで見ていた駅員から、拍手の渦が沸き起こった。 「夏木さん、傷を見せてください」  血に塗れる夏木の前髪を掻き上げて、日高が額の傷の具合を見る。  生え際の皮膚が5ミリほど裂けていて、その周りが青く変色していた。少し腫れている。だが大した傷ではなさそうだった。  ただ顔面の傷はよく血が出るので、日高は自分のハンカチで夏木の額の傷を押さえた。 「大丈夫だ。自分で押さえられる」  夏木が自分でハンカチを押さえる。 「立ちくらみとかしませんか? 他に痛いところは?」  夏木は、首を横に振る。 「そちらは大丈夫ですか?」  風岡二係の救急隊員が声をかけてくる。夏木は再び手を挙げて応えた。 「我々は一応男性を病院に搬送します。一緒に乗っていきますか?」  夏木は即座に「病院に行く必要はないから」と答えた。 「夏木さん……」  日高が心配げに呟くと、「大丈夫だから。あまりことを大げさにしたくない」と強い口調で夏木は言った。  日高は敏感に何かを感じ取り、担架で運ばれていく男の姿を見やった。  ── まさか、あの人……。 「乗客の方に怪我はなかったですか?」  夏木が駅長に訊いた。駅長は夏木を尊敬の眼差しで見ながら、「ええ。ご心配なく」と頷いた。  駅のホームに風岡出張所の二係と後藤田所長、そして東署の特別救助隊の連中がなだれ込んでくる。  だが彼らは、ホームの様子に拍子抜けしたような表情を浮かべた。  日高が後藤田まで駆け寄り、頭を下げる。 「おい、大丈夫か……」 「はい。被害者、救出者とも無事です。転落した男性はついさっき救急車で搬送されました。他に怪我人はいないとのことですが、念のため急停車した電車の乗客チェックをお願いしたいのですが」 「分かった。おい! 行くぞ」  紺色やオレンジ色の作業服を身にまとった隊員達が、列車の中に入っていく。  ホームの中には、劇的なドラマを目の当たりにした妙な熱気に満ち溢れていた。  日高が夏木の元に帰ると、駅長に駅員室に救急箱があるからと案内された。  駅員室の片隅にある応接ブースに通され、救急箱が差し出される。  駅長は、事後処理があるからと駅員室を出て行った。  ドアが閉まると、外の喧噪からようやく逃れられる。  日高が、慣れた手つきで応急手当を始める。 「ハンカチ……、すまないな。汚してしまった」  夏木は、自分の手に残った血塗れのハンカチを見下ろしながら、ポツリと言った。  日高が視線を落とすと、今までしゃんとしていた夏木の両手が、目に見えてブルブルと震えていた。  他人の目が周りになくなったせいで、緊張の糸が切れたのだろう。きっと今頃になって恐怖が沸き起こってきたのだ。あの状況は、本当に“やばかった”のだから。  あの時、上手いタイミングでホーム下の隙間に潜り込めたが、一つ間違えば列車にはじき飛ばされるか、車輪側に流れる高圧電流によって丸焦げにされていたところだ。  例え完璧な消防士だったとしても、感じる恐怖は他の人と変わらない。消防士だって人間だ。  日高は眉間に皺を寄せ、唇を噛み締めた。  そんな状態になっても、日高のハンカチのことを口にする夏木を見て、何とも言えない気持ちになった。  日高は夏木の両手を、右手でぎゅっと押さえ込んだ。  身体つきも手も夏木より一回り大きい日高なので、小さく縮こまった夏木の両手は日高の手の下にすっぽりと隠れた。 「ハンカチなんて、気にしないでください」  夏木が、ぼんやりと日高の顔を見上げる。  その時、駅員室のドアが乱暴に開けられた。  日高が顔を上げると、黒い薄手のセーターに色落ちしたジーンズ姿の村井がそこに立っていた。 「無事か?」  村井がツカツカと歩み寄ってきて、夏木の額に当てられたガーゼを捲った。 「他に怪我したところは?」 「ありません」  村井がため息をつく。  そして傍らに立つ日高を睨みつけた。 「お前、黙って見てたのか」  日高の顔が強ばる。 「“また”黙って見てたのかと訊いているんだ」 「村井さん……」  夏木が立ち上がる。  日高は驚いたように目を見開いていたが、やがてすっと顔の力を抜いた。そして妙に達観した顔つきでこう答えた。 「はい。俺は黙って見てました」  その答えにカッとなったのか、村井が日高の胸ぐらを掴んで、側のロッカーに日高の身体を打ち付けた。  駅長室にガシャンと大きな音が響き渡る。 「貴様!」 「村井さん!」  夏木が村井の肩を掴んだ。  だが、村井の勢いは止まらなかった。 「俺はな。仲間の生命(いのち)を平気で危険に晒すような奴が一番嫌いなんだよ」  日高を睨み付け、唸るように村井が言う。 「お前が風岡に来たのは、こういうことが目的なのか……?」  日高は、一瞬だけ唇を噛み締めた。  まるで今にも泣き出しそうな顔だった。  だが、すぐに表情を消す。 「確かに、村井さんの言うように、俺は見ているだけでした。俺は何もしなかった。できなかった。村井さんに責められて当然です」  村井が、戸惑いの色を浮かべた。  一瞬浮かべた日高の泣き出しそうな表情。  そして今の冷たい響きのする声。  ── なんだ……? こいつ……。  そんな村井に、夏木が声をかける。 「日高はあの時、俺より距離のある場所に立っていたんです。何もできなくて当然だった。仕方なかったんです」  村井は、ゆるゆると日高を拘束する手を解いた。  なおも怪訝そうな瞳で、日高を見つめる。  ── 夏木の言うことが本当なら、なぜこいつは事情を説明しない? 言い訳だってしていい筈だ。なのに何だ。どんな感情を押し殺しているっていうんだ……?  村井の目の前で、日高は打ちひしがれたように俯いたのだった。 [6]  優希がダイニングに続くドアを開けると、そこには母親の丸まった背中があった。  彼女の頭は低く項垂れていて、テーブルの上に右手で頬杖をつき、テーブルの上に広げた茶褐色の冊子を見つめている。 「かぁさん、ただいま。……どうしたの、電気もつけないで」  子どもながらも不穏な空気を感じながら、優希は母親に近づいた。  母の傍らに学生鞄を置き、学ランの襟を緩めながら、母がぼんやりと見ているものに目をやった。 「なんだよ、母さん。小学校の文集なんか見て。しかもそれ、二年生の時のじゃん」  母親の佳奈(かな)は、一人息子がやっと帰ってきたことを知ると、まるで記号のような文字が並ぶ息子の作文を声に出して読み始めた。 「『ぼくのお父さん』。  ぼくのお父さんは、しょうぼうしです。  火をけしたり、火じにあったひとをたくさんたすけています。  だから、土よう日も日よう日もありません。休みがあわないから、ぼくはお父さんにときどきしか会えないけれど、ぼくはちっともさびしくなんかない。  この前も、火じでにげおくれた男の子をたすけたお父さんが、テレビに出ていました。  そのテレビをみて、ぼくはかっこいいなぁと思いました。  ぼくも大きくなったら、お父さんのようになりたい。  お父さんみたいに、かなしいめにあっている人をたすけてあげたいと思います。」  優希は無性に恥ずかしくなって、「やめてくれよ。ふざけてんの?」と悪態をついた。  いつもの母なら、ここであの持ち前の明るい笑顔を浮かべて「そうよ」と返してくれるのに、その日の母は、いとおしそうに文集のページを撫でるだけだった。 「ホントに……、どうかしたの?」  母親が優希を見上げる。  その真っ赤に充血した目。  優希は、無意識のうちに息苦しさを感じる。  うまく息ができない。  嫌な予感。 「お父さんがね……、死んじゃったんだって」 「……え? え、なんで……」  優希は、その答えが分かり切っているのに思わずそう口に出していた。  ── そんなこと、訊かなくったって分かってるじゃないか。火事場に出て、炎か煙に巻かれたんだ。そうなんだ。  誰かを助けるためなのか。危険なところまで近づき過ぎたのか。  だが優希は、「なんで」と繰り替えし、呟き続けた。  優希の父親は、ほんの数ヶ月前に母親と自分のもとを去った。それだけじゃ飽きたらず、この世からも去ってしまったというのか。  どうして納得できるのだろう。  そんな方法があるのなら、教えて欲しい。  母は、静かに取り乱そうとしている息子の身体を掴んだ。そして彼女は再び大粒の涙を流し、息子の身体にすがった。  当たり憚らず大声で泣く母を、まだ僅か15歳の少年は、ただ抱き留めることしかできなかった。  「お母さん、負けちゃった。あの人に、負けちゃったのよ」と泣く母に、誰に負けたのかと訊くことすらできないまま……。    日高は、うっすらと目を開いた。  細く長く、ため息をつく。  全身寝汗をぐっしょりとかいており、その気持ち悪さに日高は身体を起こした。  時計を見ると、まだ午前一時だった。  先程やっと眠りについて、まだ30分しか経っていなかった。  日高はベッドから起き上がり、汗でベタベタのTシャツを脱ぐと、そのシャツで顔の汗も拭って、ベランダの洗濯機の中に投げ込んだ。  三畳の狭いキッチンに向かい、冷蔵庫を開ける。  ビールの缶の前でフラフラと指が迷ったが、結局明日 ── といっても今日のことだが ── の勤務のことを考えて、ミネラルウォーターのボトルを手に取った。  フローリングの床の上に直接座り込み、ボトルから水をガブ飲みする。口の端から零れた水滴が喉を伝って流れ落ちた。ひんやりとした壁に身体を凭れさせる。  そして再びため息をついた。  村井に突っかかられた後、後藤田が駅員室に入ってきて有耶無耶になってしまった。  村井は、奇怪なものを見るかのように日高を見ていた。  それも当然か……と、日高は思う。  日高自身も、あの時自分の中に巻き起こった感情に、戸惑っていたのだから。  日高は、床にそのまま寝っ転がると、まるで赤ん坊のように身を丸めた。  心がせめぎ合っている。  血が滲むように、胸が痛い。  日高は、苦しげにハァと再び息を吐いた。  この気持ちは、叔父の正成にも言ったことがない。  確かに。  村井が想像しているように、日高は夏木のことを恨んでいる。  なるだけそうしようと、むしろ頑張ってきた。  だが、本当の夏木を知るにつけ、混乱し、そんな自分がイヤになってきている自分がいる。  夏木透という男は、父を自分と母から奪い去った男だった。  夏木は昔、日高の父・松下昇三(まつしたしょうぞう)のパートナーだった男だ。  パートナーといっても、夏木はその当時消防士になってまだ2年目で、父は19年目のベテランだった。  彼が自分達から父を奪った、というのは、夏木が火事場で父をみすみす死なせたということを指しているだけではない。  その以前から、夏木は父を既に“奪って”いたのだから。      松下は、優しい男だった。  母の佳奈は、自分の弟・正成と親しかった松下の優しさに惚れ、まるで押し掛け女房のようにして結婚した。  間もなくして元気な男の子が産まれ、その子に「心優しく勇気があり、そして希望のある子に育ってもらいたい」という願いを込め、『優希』と名付けたのは松下だった。  周囲は女の子のような名前だと反対したが、佳奈は、松下らしい名前の付け方に賛成した。  日高にとって父・松下昇三は、まさしくヒーローだった。  生きるために金を稼ぐという理由だけでなく、目に見えない名誉と人々の生命と財産を守るという使命のために自分の命をかけて炎や死の恐怖と戦う人。  そんな父親と珍しく休日が合った日は、二人で木の模型飛行機を作って、河原で飛ばした。  父とは何度も笑い合った。抱き締め合った。  あんなに幸せだったのに。  なのに父は、ある日黙って家を出て行った。  日高にとっては突然の出来事で、父が突如母に別れを告げた理由なんて、当時まだ子どもだった日高に想像できる訳がなかった。母に訊いても、母はその理由をはぐらかすだけで、「最初から無理だったのよ」と繰り返すだけだった。  そしてその母が突然の事故で死に、皮肉にもその後やっと日高は、その理由(わけ)を知ったのだ。  父の死を知らされたあの日、「あの人に負けちゃった」と泣いた母が指していた“あの人”が、夏木透だったことに。  それを悟ったのは、丁度日高が特別救助隊員の試験に合格し、研修を終えた時期のことだった。  レスキューの資格を得ることで母の事故死に対する気持ちの整理をやっとつけ、母の遺品を整理している最中だった。  問題の手帳は、母のベッドの下、マットレスの間から出てきた。明らかに日高の目からそれを隠しているものだと窺えた。  深緑色の分厚い手帳。  中を開くと、母のものではない字が出てきた。すぐに父の日記だと気が付いた。  日記には、出場した火災の状況や自分の管轄地区に建ち並んでいる大規模建造物の構造図、新たに導入された消防器具の解説などが細かく書かれてあった。  そして所々に、『透』と呼ばれる少年に関する記述が出てきた。  文章の内容から推測するのに、その透という少年は、父が火事場から助け出した少年のことだった。  透少年はその火事で両親を亡くしており、父は何年もの間、暇さえ見つけては透少年の元を訪れていた。それは、日高が生まれる前からずっと続けられていることで、日高が生まれてからも度々、父は少年の元を訪れているようだった。  手帳には、その少年が既に父の後を追って消防官になっていることが書かれてあり、さらに父の部下として常に行動を共にしている様子が書かれていた。  最初読み始めた頃は、何の違和感もなく読み進んだ。父は優しい男だったから、そういうことはあり得ると納得できたからだ。  だが、その日記の最後の部分に差し掛かるに従って、それを読む日高の手が震え始めた。  日々の出来事をあんなに事細かに書き込んでいた父の日記が、次第に『透』という文字のみに変わっていき、最後のページにはこう書かれてあったのだ。 『透、君を傷つけるようなことになって、すまない。こんなにも愛している。』と。  日高は、悟った。  父・松下昇三は、透という男を愛していたのだ。その愛情は、母と夫婦関係を続けていられない程、そして息子との日々をかなぐり捨てる程、強い想いだった。  日高は、その場で泣いた。  声が嗄れるまで叫んで。声が出なくなるまで泣いて。  そして日高は、『透』という男を恨んだ。  父を母から奪ったばかりか、父の死の場にいたはずの『透』のことを。  日高は、父が死んだ時の状況について調べ始めた。不思議なことに、消防士になってから一度もしたことがなかった。  その『透』という男が、風岡出張所にいる夏木透のことだということはすぐに分かった。  そして父の死に不可解な点があることも。  火災による倒壊事故に巻き込まれて、父は死んでいた。  焼かれて脆くなった三階の床が抜け、そこにいた父と夏木のうち、父だけが一階まで真っ逆様に転落したのだ。首の骨が真っ二つに折れた父は、即死だった。  その時、父と夏木の間でどういうことがあったのか、そこまでは分からなかった。報告書にはその点がざっくりとした表現でしか書かれていなかった。  消防官になった立場の今なら、その報告書が『普通でない』ことは明らかだった。  消防士が一人殉職しているのに、あまりにもその部分がぼんやりとしていたからだ。  火災によって床が脆くなり崩れ落ちることはよくあることで、それに消防士が巻き込まれて怪我をしたり命を落とすことは、不思議でも何でもない。   ── だか……。  日高は、納得ができなかった。  父は消防官として19年の実績を誇っていたし、昇格試験も受けず、常に現場に止まることに拘った父が予測できない崩落事故ではなかった。  経験が浅い夏木を庇った為か。  いいや。それも納得できない。  報告書によると、あの時上部の階に要救助者はいなかった。それほど差し迫った状況ではなかったのに、燃え上がって脆くなっている上の階に新人を連れていくなんて真似、ベテランならまずしない筈だ。  確かにその時、何かがあった。  普通でない状況が、二人の間にあったのだ。  日高がその事実に気が付いた矢先、風岡出張所に近く欠員が出ることを知った。職員の一人が定年を迎える年だと気が付いたのだ。  これは何かの運命だと思った。  目に見えない力が、真実を突き止めろと自分を追い立てているような気がした。  だから日高はレスキューの誘いを断り、風岡出張所に行くことを決めたのだった。心の底に『憎しみ』という暗い感情を宿しながら。  しかし、実際に夏木を前にして、その思いは日高を苦しめた。  村井が言ったように、夏木が自分の生命を危険に晒すことを平気な顔をして眺めていられたのなら、どんなにか楽だったろう。  人を憎むことが、こんなに苦しくて、こんなに自分を傷つけることになるなんて。  夏木を冷たい目線で見つめる自分の中には、常に「そんなことはもうやめよう」と泣き言をいう自分がいた。  日高の目に映る夏木はとても傷ついていて、そして日高が憧れてもおかしくない消防士としての才能と勇気を持っていた。  駅のホームで夏木が取った行動は、まさしく日高の中での理想的なヒーローだった。  大好きだった頃の父の姿が、瞼の裏に浮かんだ。  かつて自分の幸せな生活を壊された子どもとしての憎しみ。  そして消防士としての尊敬の念。  その相反する感情が日高の中で生まれ、夏木の震える手を押さえた時に、夏木のことを守ってあげなければと思う感情が勝った。  村井が、日高のことを理解できないといった顔をして見せたのは当たり前のことだ。  あの時、日高自身、自分のことを見失っていたのだから……。  日高は益々自分の身体を小さく抱え込むと、こう思った。  この憎しみや悲しみに、いつか殺されてしまうかも知れない、と。
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