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act.01
あなたにこの想いを送ろう。
俺は決して完璧なヒーローではなくて。
人間の醜い部分や弱い部分がたくさんあるけれど。
明日、この世が終わってしまうかもしれないのなら。
この魂を、あなたに捧げよう。
[1]
「本気かね」
朝の強い日差しが窓から差し込むせいで、その部屋は白と黒のコントラストが強い色相に支配されていた。窓の外には、ゴミゴミした街並みが楽々と見渡せる。
男は逆光に照らされていて表情が読めなかったが、明らかに落胆の色を窺わせた。その声色が。
「一昨年の特別救助隊試験にトップの成績で合格しておきながら、ようやく出た中央署特別救助隊の空き席まで断って、中心部から離れた街の、しかも出張所勤務を選ぶなどと。きっと誰もがこう思うだろう。なぜ、自ら都落ちするような真似を、とね」
嫌みとも取れる言葉を浴びせかけられた青年は、直立不動で男に対峙している。
「幹部連中が皆、随分落胆していたよ。単なる消防士という階級の青年ひとりに対して上層部がそんな反応を見せるのは珍しいが、何せ君は、あの日高正成君と血縁関係に当たるのだからね。期待を背負って当然だろう。君はそれを裏切ってまでこの道を選んだ」
辛辣な言葉を浴びせかけられても、青年の強い光に照らされたその顔は実に穏やかで、物怖じしている様子は全くなかった。
青年は、ある程度予想していたのだ。本来なら、尾津井市東消防署で人事異動の辞令を受ける予定だったところを、その前にわざわざ尾津井市消防局の局長室に呼び出された段階で既に。
普通、階級で言えば一番低い『消防士』が、辞令式の前に消防局長に単独で呼び出されるなんてことはまずあり得ない。今回の人事が、誰の目にとっても『異例』であることは間違いなかった。
「しかし……。しかしなぜ君は、そのような希望を出したのだね? それなりの理由があってのことなのだろう?」
青年はそう訊ねられ、少し思いを巡らせるような表情をしてみせた。
やがて、一言こう答える。
「自分には、火消しの血が流れていますから」と。
桜が咲いている。
まさに満開と散り際の合間。
尾津井市の一番はずれにある尾津井市東消防署風岡出張所の向かいには、若木ながらも姿のいい桜の木から、一枚、二枚と桜の花びらが風に乗って時折舞い降りている。
桜が咲く季節になると、人間誰しも新しい世界の始まりに浮き足立つものだ。
風岡出張所も例外ではなく、どこかそわそわと落ち着きがなかった。現に、一係に新しく配属される消防士のことが気になるのか、本当なら今はいるはずのない二係の連中がまだ事務所に残っていた。前日24時間勤務をした二係から本日勤務の一係への引継交代は既に終了しているというのに。
一係の村井勇消防士長は、事務所に隣接する洗面所で、朝の日課である髭剃りをしながら事務所のざわつきに耳を貸していた。
「それにしても来るの遅いっすよねぇ! ねぇ、村井さん」
洗面所に顔を突っ込みながら大声を上げるのは、消防士になって2年目の下っ端・臼井賢治だ。今年から念願の機関員 ── つまり消防車を運転できる資格を取った。
「村井さぁ〜ん、いい加減家で髭剃ってから来たらどうですか」
今時シェーバーを使わず、フォームと剃刀で男臭く無精髭を剃る村井の姿に、今時の綺麗好きな若者の典型である臼井は、耐えられないといった表情を見せた。
「うるせぇ。これが俺の気合いの入れ方なんだ。小僧にとやかく言われる筋合いはねぇ」
火災現場にいつ出るとも分からない消防士は、髭を伸ばしてはならない。酸素補給の為につけるマスク『面体』を装着する時に邪魔になるからだ。休日はいつも無精髭の村井も、髭を剃る瞬間は現場に戻ってきたという緊張感を感じることができる。彼にとっては、正しく『儀式』なのだ。
先輩からきつい一言を貰うのはいつもの事なのか、臼井は全くお構いなしに話し続ける。
「それにしても今回うちに来る人、本気で鳴り物入りっていうんですか? あまりに経歴派手過ぎて、近森隊長もびびってますよ」
ザバザバと顔を洗う村井に、臼井が条件反射のようにタオルを渡す。この業界は上下関係が厳しい。
村井はタオルで顔を拭いながら、事務所の様子を覗いた。
確かに、いつも生真面目で戸惑った表情などあまり見せない近森定雄消防司令補が、どこか緊張した面もちで戸口の方をちらちらと盗み見ている。
── まぁ……、無理もねぇか……。
村井も、今回来る新入りの経歴は当然耳に入っている。
日高優希、25歳。
昨年度まで消防激戦地区がひしめき合う尾津井市中央消防署に席を置き、消防官歴三年にして華々しい武勇伝の数々を作り上げた、次期『伝説の消防士』候補。
更に日高は、消防業界で『伝説のレスキュー隊員』として名を残す日高正成の甥にして、一昨年の特別救助隊員試験に合格した。
レスキュー隊員になるためのその試験は、難攻不落と言っていいほど厳しく、また競争率が激しい。何度もチャレンジする消防士が多い中で、彼は一発 ── しかもトップ合格だ。
普通なら想像もできない離れ業をやってのけた日高優希は、叔父の七光りでも何でもなく、その実力で最も今注目される若手消防士だった。
そんな男が、皆の憧れの的であるレスキュー隊員の誘いを蹴って、町外れの小さな出張所に配属希望を出したというニュースは、瞬く間に業界に拡がった。苦労してやっと手に入れた筈のレスキュー隊への切符をやすやすと投げ出すだなんて、正気の沙汰ではなかった。
尾津井市中央消防局が“本社”だとしたら、中央消防署が“本店“で、東消防署は“支店“に相当し、その管轄エリアに点々と配置されている出張所は支店が抱える“営業所“のようなものだ。そんなところに消防エリートの男が幹部連中に惜しまれつつ転属してくるなど、前代未聞のことである。そんな新入りを迎えることになった風岡出張所が浮き足立つのも無理はない。
── 配達のおばちゃんまで、ソワソワしてらぁ。
既にはしゃぐ年でない筈のおばさんが健康乳酸菌ドリンクを各自に配り終わってもまだ居座り続け、二係の職員と盛り上がっている様を見て、村井は軽くため息をついた。
風岡出張所の中で冷静さを保っているのは、出張所一の度胸の持ち主である村井と、村井の部下、夏木ぐらいのものだ。夏木は馬鹿騒ぎしている連中とは一線を引き、物静かな横顔を見せながら、書類仕事を片づけている。
夏木透消防士。村上より5つ年下の30歳。消防官にしておくにはもったいない程の端正な顔立ちをしている。
細面で睫の長い切れ長の涼しげな目元。小鼻の小さな、すらりと通った鼻筋。大きくもなく小さくもない均整の取れた唇の形。細身ながらも消防士独特のしっかりした身体つきでなければ、非常に女性的な面差しだった。
そんな夏木であるが、火事場で先輩の消防士を亡くして以来、すっかり心を閉ざしてしまっている。その為陰鬱な印象が拭えず、所内でどこか浮いた存在となっていた。
夏木がこの出張所に来て8年経つが、所内の者が夏木の笑顔にお目にかかったことはなかった。
そのことに少し淋しい感情を感じながら自分の席に戻る村井を、夏木の分まで騒がしくしてくれている臼井が追いかけてきた。村井の側のイスに腰掛けながら、「日高優希って一体どんな奴なんでしょうねぇ」としゃべり続ける。
「きっとエリートを鼻にかけた、すかした奴なんですよ。叔父さんの七光りにあやかってチヤホヤされてさ。レスキューの誘い断ったんですよ? そんなのあり得ないですもん、普通。第一、引継の時にいないってのが、もう既にアウトっしょ。いかにも自分が特別扱い受けてるって感じ?『優希』だなんて女みたいな名前の奴に限って、かなりの強面っていうオチが多いから、きっとこいつもそんな奴ですよ」
私服を着ている時はまるっきり消防士に見えない臼井は、自分のアイドル顔をどこか自慢している節が垣間見える。臼井が夏木に懐かないのも、夏木の氷のような静かさに閉口する以外にも、容姿の点で夏木にはとても叶わないというバツの悪さもあるのだろう。
だが確かに、初出勤でこれほど遅れてくるのは、あまりいいイメージではない。臼井が必要以上に攻撃的になる気持ちも分からないではなかった。
ここ風岡出張所は、消防車と救急車が一台ずつしかない、小さな出張所だ。市の中心部から遠く離れていることや、消防にとっては天敵である『風』が出張所の名前についていることもあって、業界の中ではどこか忌み嫌われる出張所だった。
まことしやかな噂では、夏木がここに8年もの長い間移動もなく居続けているのは、『あの一件』をきっかけに精神的に不安定になった夏木を、中央の人間達がやっかい払いしているせいだという話がある。4年前にここにきた村井からしてみれば、そんなことは馬鹿げた話だと思うが、そんな話がまるで本当のことのように囁かれてしまうような場所なのだ。ここは。
そんなところをわざわざ選んで来る消防エリートなんて、何を考えているか分からない。実体も見えないから、つい勘ぐってしまう。
互いに命をかけて支え合わないと仕事にならないのが消防士だ。臼井の愚痴は、恐怖の現れなのだろう。得体の知れない者と一緒に火事場に出なくてはならない恐怖の。
「それにしても、本当に遅いですね……」
さすがに焦りが出てきたのだろう。後藤田所長に近森が呟きかけた時、窓の外からようやくバイクのエンジン音が聞こえてきた。
「きた!」
臼井が先頭になって、事務所の窓から、左隣に見えるガレージ前を覗き見る。
「うわ〜、ヤマハのドラッグスターだ。とっぽいな〜」
国産のアメリカンタイプバイクの名に惹かれ、村井も窓の外を覗き込んだ。
男の顔はヘルメットに隠され、見えない。
どうやら本局の方で上官と会っていたのか、コクのある漆黒色の制服を着ている。
それを見て、村井はふっと笑った。
どうやら臼井や他の連中は、初出勤にお堅い正装で、低い排気音のバイクで乗り付ける生意気さが気に入らないといった様子であったが、逆に村井は好感を持った。
村井もバイク乗りだが、もし自分がバイクに乗るなら、消防官の制服を着てバイクに乗りたいだなんて死んでも思わない。
あの格好であのタイプのバイクに跨るのは、結構恥ずかしい。それならば、ホンダのスーパーカブに乗る方がよっぽどましだ。
多分、遅れたことに対してよっぽど焦っていたに違いない。私服に着替える暇もなく、ましてや通常消防士がよく着ている紺色の作業着に着替える隙もなく、そんな仰々しい格好でバイクを走らせてきたのだ。
── これは案外、臼井の言ったたことは外れたかもな……。
村井がそう思いつつ自分の席に戻った時、ガレージ横の駐輪場からバタバタと慌ただしい足音が聞こえてきて、ふいに事務所の前で止まった。一拍置いて事務所のドアが開く。
制帽を小脇に抱えた背の高い青年が、額に少し汗を浮かべながらそこに立っていた。
「遅れまして誠に申し訳ありません! 本日付けでこちらに配属されました日高です。この地区配属は初めてですので、まだまだ未熟ですが、皆さん、よろしくお願いいたします」
日高優希は、そう言って深々と頭を下げると、にっこりと笑顔を浮かべた。
身長は、村井とほぼ同じぐらいだから180cm以上はあるだろう。消防士としては長身の部類に入る。身体付きは予想に反してスレンダーだ。くっきり二重でアーモンド型の黒目がちな瞳。高い鼻梁。男らしい真っ直ぐな眉。艶のある黒い髪は襟足ですっきりと切り揃えられていて、笑うと口の両端にエクボが出る。とてもハンサムだが、夏木のような冷たさは感じられない。例えれば、日だまりを駆け回る元気のいい日本犬のような。夏木とは正反対のタイプと言ったところだろうか。
臼井をはじめ、さっきまで不平を零していた連中が、口をポカンと開けて『いけ好かない消防エリート』の筈の日高を眺めている。
「これ、辞令書です」
「う、うむ」
いつも冷静沈着な後藤田所長でさえ、あてが外れて今ひとつ調子が出ない。両手で差し出された辞令書を受け取り、間が抜けた声で新任者に対する型通りの挨拶をしている。
「予想に反して、ニコニコくんですねぇ……」
人の良さが笑顔に滲み出ている日高を見ながら、救急救命士の磯谷消防士長が村井に対して呟いた。村井も磯谷と同じように小さく唸り声を上げる。
あの笑顔にどんな内面が隠されているか。
予想外の日高優希の姿を見て、逆に村井は不安を覚えた。
日高を迎えての最初の出場は、それから一週間後のことだった。
昼食の準備をし終わったと同時に、壁のスピーカーが予告司令を流し始めた。じきに出場指令のブザー音が派手に鳴り始める。
『建物火災第一出場。風岡区小河原5丁目106号。一戸建て平屋住宅より出火。37分』
「 ── ちぇ、ついてねぇや……」
うどんと汁が別々の器に盛られた俗に言う『消防うどん』を眺めながら臼井が愚痴る。
「ぼやくな! 行くぞ!」
村井が臼井の頭を叩く頃には、日高も夏木も既にドアの向こうに姿を消していた。
車庫では、指令プリンタから出力された指令書を持った隊長の近森が、防火服を羽織る部下に言い放つ。
「恐らく俺達が一番乗りだぞ!」
「はい!」
先刻まで口を尖らせていた臼井も、近森から指令書を受け取ると途端に別人のような表情を浮かべる。彼は新人ながら卒のない動きで出庫準備を終え、消防車を始動させた。車庫を揺るがすような大音響が響き渡り、赤色灯が辺りを照らし始める。
その間に、夏木、日高、近森、最後に村井の順で消防車に飛び乗る。村井がドアを閉めた後、窓から手を出してバンバンと二回ドアを叩くと、それを合図に消防車が動き始めた。
「消防車が出場します。道を開けてください」
近森の冷静な声と共に、消防車はサイレンを高らかに響かせた。
現場到着までの道すがら、必要な情報は消防車に取り付けられた無線機から送り続けられる。
尾津井市は3年以内に政令指定都市の指定を受けてもおかしくない程の急激な成長を遂げている街だった。風岡出張所が属する尾津井市東消防署が管轄する地区は、古くからの住宅地が乱立する傍ら、5年前に大きな幹線道路が開通したことをきっかけに、郊外型大型店舗の建設ラッシュが始まった地区だ。新しく開発された住宅地も増えてきつつある。これまで、大規模な火災はなかったにせよ、今後どうなるか分からない未知の地区である。
「緊急車両が通ります。道を開けてください!」
けたたましいサイレンと共に、まるでモーゼの十戒のように一般車両が二手に分かれて道を譲る光景を見ながら、村井はさりげなく隣に座る二人に目をやった。
左側に夏木、その奥に日高。
夏木は相変わらず何を考えているか分からないような瞳でぼんやりと前を見つめている。一方日高は、恐ろしいほど落ち着いた表情で、手元にある消防用の住宅地図を見つめていた。
── 年の割に、肝が据わってやがる。
日高の横顔を見ながら、村井は目を細めた。
どんなベテランでも、初めてのチームでの出場は緊張で顔が強ばってしまうものだ。
この一週間 ── といっても一日交代の出勤だから正味4日間のつきあいの中で、日高は実に気さくな男だということが分かっていた。
外見通り人なつっこく、それでいて自分の立場も十分解っている。
出しゃばらず、引っ込まず。話しをするのも聞くのも上手い。あれ程反感を持っていた臼井が、今では「日高さん、日高さん」と奴のケツを追い回している。元々消防マニアで、日高の叔父・正成の大ファンである臼井のことだ。その内、日高を通じて本物に会わせてもらおうという心づもりなのか。それとも単に日高の人の良さに惹かれているのか。
その優男さ加減が現場で仇になりそうだと思っていた村井だったが、静かながらも戦う男の放つ清々しい緊張感を漂わせる日高の様子を見て、村井は少し安心した。
「見えた!」
臼井が怒鳴る。
幹線道路から200メートルほど南に入った箇所から真っ黒い煙が青空を背にして立ち上っている。村井は直ちに無線機を握った。
「風岡1から消防尾津井。風岡1走行中。黒煙確認、どうぞ」
尾津井市中央消防局が村井の報告を復唱した後、「了解」と返事をしてくる。その報告は、直ちに他の出場隊に伝えられた。
臼井が、左ウインカーを点灯させる。
信号無視の状態で左折するため、日高と村井が窓から大きく身を乗り出し、一般車両の進入を止める。
歩行者や車の運転手が、不安と緊張、そして憧れや好奇心といった感情を織り交ぜながら、消防車を見つめていた。
左折後は、道幅がどんどん狭くなっていく。ここら辺は旧住宅地だ。
現場につくと、近森隊長が言った通り、一番乗りだった。
木造の平屋建て。同じ様なデザインの住居が南北に隣接している。
周辺道路は狭かったが、それぞれの家の南に小さな庭があり、出火している家の前が駐車場になっていた。幸い家屋の裏側には護岸工事がされた小さな川が流れており、西側への延焼の心配はない。それにいざとなれば、この川から水利が取れる。
だが、楽観はできなかった。
延焼を続ける家屋の庭には、たくさんのゴミが大なり小なり山積みされており、それらから出火したことは明らかだった。そしてその火が、今や室内に燃え広がっている。
「うわぁ……、ゴミ屋敷か……」
臼井が憂鬱そうな声を上げた。
嫌な雰囲気を感じた村井、夏木、日高が互いに顔を見合わせる。燃えグサが多量にあることに加え、火の気がないところからの発火は放火の疑いが強いからだ。三人とも、無言ながら敏感にそれを感じ取っていた。
村上が現着情報を本局に送るのを待って、近森が隊員に指示を出す。
「50ミリホース一線延長。タンク放水及び、人命検索を実施する。筒先は夏木、日高は筒先補助。村井は人命検索に入れ」
村井が聞く限り、現在の状況を考慮した近森の最良の決断だった。
いくら経験が豊富といっても日高は新入りだし、機関員の臼井を除くと一番若い。本来なら、筒先員 ── 放水用のホースの先をコントロールするのはベテランの村井が適任だが、そうなると夏木を単独で人命検索にあたらせなくてはならない。
基本的に消防士は二人一組で行動するのが鉄則だが、人員の少ない風岡出張所は、近森が現場調査を終えるまで誰かが一人で行動しなくてはならないのだ。
近森は、夏木を単独行動させることに不安を抱いていた。
10年前、彼の相棒である消防士を現場で失って以来、当時婚約していた女性とも別れ、休職するまでに落ち込んだ夏木を励まし続けてきたのが、この3月まで風岡出張所にいた長居元消防士長である。彼が定年退職で空いた穴に、今回日高が配属されてきたのだ。
情緒不安定だった夏木をコントロールしていたのが長居だっただけに、近森はそれを心配しているのだった。
夏木だって、いろんなことがありながらも消防士を勤めてきた男だから、要らぬ心配かもしれないが、不安要素があるのなら、できれば最初に手を打っておきたい。それが近森の本音だろう。
隊員が指令を復唱した後、近森が夏木の肩を叩く。
「新入りにウチの流儀を教えてやれ」
恐らく、近森の夏木に対する励ましだった。夏木もそれが分かったのだろうか。彼は「はい」と小さく答え、消防車を出た。
「村井、夏木は空気呼吸器装着。日高はホース延長作業にかかれ。俺は現場確認に行く!」
そう言って、近森は家屋周辺を調べにかかった。残された三人が迅速に動き始める。
ボンベを背中に背負う二人の横で、鮮やかな手つきでホースを転がす日高。さすがにホース結合の手並みも鮮やかだ。
近森が延焼状況の確認と周囲の家の人命検索を進める中、状況を無線で伝えてくる。
『家屋南側、庭から室内にかけて火災確認。予定通り内部に侵入し、まずは人命検索を実施せよ。なお、庭側からは障害物多数で進入困難。正面玄関より進入されたし、どうぞ』
村井、夏木に続き日高も空気呼吸器を装着し、人命救助のための機材を一通り身につけると、玄関に向かった。
そこでは近所の住人が口々に「早くしろ」と村井達に怒号を浴びせかけている。このように密接した住宅地ではよくある光景だ。
「ただいまから消火活動に入ります。危険ですので、下がってください」
冷たい響きの夏木の声に、住民達が益々興奮した顔つきを見せる。
「今からって、遅いんだよ! ウチに燃え広がったら、どうするんだ……」
消防隊がいくら早く到着しても、燃え始めから見ている住人にとってしてみれば永遠に近い時間と感じるものだ。こうして消防士をやじる人は多い。だが、こういう人でも大抵根はいい人なのだ。人間誰でも、炎を見ると異常に興奮する傾向がある。
一刻を争う中、どう対処しようと村井が考え始める前に、日高が男性の肩に手を置いた。
「精一杯頑張るから。大丈夫。おじさんの家までは燃やさないよ。おじさんも怪我しないように、安全なところに避難しててね」
日高の爽やかな笑顔に口をパクパクしている男の横で、近所の主婦が「邪魔になるから下がりましょうよ」と男性を連れて下がってくれた。「ご協力、感謝します!」と叫ぶ日高に向かって、村井の声が飛んだ。
「日高! 入るぞ!」
入口ドアの鍵は、合い鍵をポストの中から探し出した村井によって解除されていた。
夏木が臼井に向かって「放水開始」と怒鳴る。臼井がそれを復唱して、消防車の放水口のレバーを全開にした。
途端に、平らだったホースが、小さな破裂音のような音をさせる。ホースは、まるで生き返るようにと魔法をかけられた蛇のように丸く棒状に膨らんでいった。
夏木が腰を低く構えて注水姿勢を取ったことを確認した村井は、玄関ドアに手を当てて温度を確認した後、薄くドアを開けた。もうもうとした煙が、隙間から零れ出てくる。
夏木と日高が、煙を避けながら中に向かって目を凝らす。先に炎を確認したのは夏木だ。
「奥の部屋に火災確認」
狭い家だ。玄関を入ってすぐ右手の部屋と直進した先の左手にある台所は延焼していない。その先のガラス戸の向こうにチロチロと赤い光が揺れているのが見えた。
突入時は、どんな消防士も緊張する。いくら安全に気を使っていても、30分、1時間後に自分がどうなっているかは誰も分からないのだから……。
傍らで村井が自分の腰にロープを結び、その先を臼井に託した。煙が充満している狭い室内では、視界が悪い。万一の時の対策だ。
「よし、かけてくれ。さっさとこっちを終わらせて、そっちに加勢する」
火の勢いが次第に酷くなるのを横目で見ながら村井が言った。中に要救助者がいるという報告がない場合でも人命検索は常に行う。だが、いないと分かっているのなら、早く済ませて火を消す作業に移りたいのが本音だ。
夏木が筒先のコックを捻り、壁に向けて放水した。霧のように飛び散る水が、村井の身体を濡らす。
「面体装着! 気ィ引き締めて行け!」
マスクを被った三人が、夏木、日高、村上の順に中に入る。
三人に襲いかかってくる黒煙を、夏木が放つ噴霧放水がグイグイと押しやっていく。
── なんだ……。この人、凄く上手い。
日高は、夏木のホース裁きに正直驚いていた。
中央署の先輩達から聞いていた噂とは違って、夏木の放水技術は一目見て優れていると分かったからだ。
どうして他の所員が夏木を『落伍者』扱いするのか分からなかった。
しかし村井は夏木を信頼しているらしく、夏木が開いた道を躊躇いもなく進んでいく。
目前でガラスの割れる音がした。
熱気が一気に三人を襲う。火勢が強まって、確実に火が燃え広がっている。
防火服の上についた水滴が、熱気にさらされて湯気を立て始めた。
「夏木さん!」
生き物のように振動するホースを抱え、力づくで室内に引き入れながら、日高は夏木に向かって怒鳴った。面体をつけると殆ど会話らしいことはできなくなるが、この距離なら何とかなる。
「台所に燃え広がるとマズイです!」
日高はガスの元栓を閉めながら叫ぶ。夏木も承知しているのだろう。彼は一回頷くと、台所を背にして、襲いかかってくる炎を水で蹴散らした。しかしこのままでは火点 ── つまり、最初に燃え上がり始めたところが叩けない。火災は、その火点を消火しないと決して鎮火することはない。
日高は、台所にある勝手口を開けて外を確認した。顔が青くなる。
── この家は都市ガスじゃなくて、プロパンだ……。
「夏木さん! しばらくここいいですか!」
「どうした!」
夏木が前方の火に目を据えたまま、訊いてくる。
「プロパンがそこに……。安全なところまで運び出します」
互いに見つめ合う。
「よし、行け!」
日高はプロパンボンベの口をしっかりと締めると、固定してあった鎖を外しボンベを抱え上げた。転がしながら運んでいる暇はない。あまりの重さに噛みしめた奥歯がきしむ。
担ぎ上げたまま、向かいの駐車場までそれを運ぶ。それを見ていた野次馬がどよめいた。ボンベはもう一本ある。
「消防士さん、手伝おうか!」
先ほど怒鳴り上げていた住人が、煤と汗にまみれた日高に声をかける。肩で息する日高は、「危ないから、下がってて! あそこの人に燃え始めの様子を教えて上げてください!」と叫んだ。日高が指さした先には、近森が周辺の人々に聞き込みを開始していた。
再度戻って二本目のボンベを運び終えた時、近森が日高に気が付いた。走り寄ってくる。
「日高! 夏木を一人にするな!」
近森の顔が必死だった。日高は怪訝に思いながら、すぐに面体を付け直して中に戻る。
── 一体どういう意味なんだ……?
さっき見つめ合った時。
面体越しの夏木の目は、しっかりしていた。数々の現場で様々な消防士を見てきた日高だったが、その中でも夏木の腕は一流だった。なのに、なぜ……。
中に戻ると、夏木はまだそこにいた。
強まる火勢に負けもせず、水圧で暴れ回る筒先を完璧にコントロールしていた。
── なぜだ?
沸き上がる疑問を抑えつつ、日高が夏木に近づいた時。
突如前方の天井が焼けて、二人の前にガラガラと落ちてきたのだった……。
「馬鹿野郎! お前ら、何やってる!」
人命検索を終えた村井が、二人を怒鳴りつけた。
日高は、ハッとして村井を見る。そして前に立つ夏木の肩に手を置き、ぐいっと後ろに引き戻した。
「……夏木さん、火に近づき過ぎですよ」
日高が夏木の顔を覗き込むと、彼のヘルメットに付けられた顔面保護板の先が熔けかかっている。
もしそのままあの位置に突っ立っていたなら、防火服に引火していてもおかしくなかっただろう。
夏木が軽く頭を振り、再び筒先を炎に向けた。その筒先を村井が押さえる。
夏木が、ハッとした顔つきで村井を見た。
村井は、夏木のグローブが焼け焦げているのを見逃さなかった。夏木の手を掴んで、覗き見る。
「火傷してる。外へ出ろ」
村井が夏木の手から筒先を奪い取り、再び火に向かって放水を開始した。
「日高! もうすぐ弾切れだ! 外に出て、他の隊のポンプ車につないできてくれ!」
「了解!」
「おい!」
日高が足を止める。村井が振り返って言った。
「夏木も連れて行け……」
日高は、呆然と立ちつくす夏木を見つめた。
周辺の道路は、まるで小さな川ができたように水浸しになっていた。
火は殆ど勢いを弱め、日高と村井は二人揃って一番大きかったの火点に放水をしていた。他の火点にも、後着隊が消火にあたっている。
鎮火は目前だ。そうなってくると、多少気分的にも余裕が出てくる。
まるでサウナのようにもうもうと立ち上る水蒸気を避けながら、村井はため息をついた。
「あ〜、早く煙草吸いてぇ……」
そう呟く村井を横目で見ながら、日高は少し微笑んだ。
年中煙を吸い続けている消防士だが、出場の後はなぜか煙草が無性に吸いたくなると言う連中は多い。風岡出張所でも、煙草を吸わないのは小隊長の近森ぐらいである。
「おい! 風岡! そっちの残火処理は任せても大丈夫か?」
東署の連中が声をかけてきた。村井は「おお!」と片手を上げて返事をする。
その村井の耳に、連中のひそひそ話が聞こえてきた。
「おいあれ、中央署にいた日高だぜ」
「冷やかしなんかでレスキュー受けるなよなぁ……。腕がいいんだかどうか知らねぇけど、感じ悪いぜ……」
元来筋の通らない話は許せない質の村井だ。わざとこちらに嫌みが聞こえるように言うだなんて女々しい真似は気に入らない。
性根を叩き直してやると振り返ろうとした村井の腕を、日高の手が押さえた。
村井が日高を見る。
日高の横顔は唇を硬く噛み締めていたが、別に腹を立てているようには見えなかった。
そして意外にも、次に彼が口を開いたことと言えば、自分のことではなく夏木についてだった。
「夏木さん……、いつもああなんですか」
「夏木?」
村井は、拍子抜けして訊き返す。
日高が小さな炎を見つめたまま、頷いた。
「正直、驚きました。夏木さんの技術の高さと、その後のギャップに。天井が崩れ落ちるのを見た瞬間、あの人、まったく動かなくなった。火が足下まで近づいているのに、まるでその熱まで感じないみたいに」
日高が、村井を見つめる。村井は、バツが悪そうに煤だらけの顔を顰めてみせた。
「 ── ずっと収まっていたんだよ。お前さんの前任者が定年退職するまでは」
「何でそんなことに? 10年前の一件が原因ですか? 夏木さん、そんな状態なのに、どうして消防士を続けているんでしょう……」
言い渋る村井に、更に日高が詰め寄ろうとした時、突如脆くなった壁が壊れて、強烈な棒状放水が村井の身体を吹き飛ばした。
「うわっ!」
「村井さん! 大丈夫ですか?!」
日高が村井に駆け寄り、彼の腕を引っ張り上げると、全身びしょ塗れの村井は猛然とした足取りで庭に出て、裏手の川の対岸にいる後着隊に向かって怒鳴った。
「馬鹿野郎! 殺す気か!」
遠くの方から、「すみませ〜ん」と若い男の声がする。
「ったく、最近のガキは“お花見放水”でいっちょ前のつもりでいやがる……」
結局日高は、村井から肝心の話の続きを聞けずに終わった……。
「日高さん、やっぱ脱ぐと凄いですね」
後ろで湯船につかるミーハー臼井が、シャワーで身体の泡を流す日高の後ろ姿を眺めて、感嘆の声を上げた。
広い背中。大きな肩胛骨はまるで羽根のようだ。小気味よく引き締まった腰は高い位置にあり、その下に続く足は膝下が長い。まるでプロアスリートのように発達した筋肉がきれいについていた。
腰から足にかけての筋肉に沿い、水滴と石鹸の泡が流れ落ちていく。
ボディビルダーのわざとらしいそれとは違い、実務的で無駄のない身体だった。
目の前の危険に身一つで立ち向かう消防士には、充実した身体と精神力が不可欠だった。だから彼らは、自主的に身体を鍛える。消防士というものはそういうものだ。
出張所の風呂は狭いので、一度に二人入るのがやっとだ。
年功序列で使うので、必然的に若手が最後に回される。
煤まみれの身体を、日高は何度も擦り上げた。
「日高さん、服着てたら細く見えるから得ですよね。俺、こんなルックスだから、身体がごつ過ぎると女の子のウケも悪くって」
日高は臼井の話を聞き流しながら、シャワーを温水から冷水に変えると、深いため息をついて水の中に頭を晒した。
疲れを解すように、大きな手で首から肩のラインをゆっくりと撫でる。
久しぶりの出場で、身体は思ったより疲労していた。隊員の中に負傷者が出たことも気が重い。
負傷者 ── 夏木は今、病院で手当を受けている。
火傷は大したことないとのことだったが、念の為先程村井が病院に向かった。
「あんまり気にしない方がいいですよ」
自分の会話に混ざってこない日高に向けて、臼井は言った。臼井は、風呂に入る前、近森隊長が日高を呼びつけて注意をしたことを指して言っているのだ。
「あれは夏木さんが悪いんですよ。誰だって、火事場でフリーズされたなら、ビビリますって。あの人、他人に迷惑かけながらも消防士続けてるって、何考えてるんでしょうね。日高さんも不思議に思うでしょう」
臼井の口調は、夏木を非難しているというより、自分の好奇心が満たされないことに欲求不満を感じている、といった風情だった。
日高は、現場での夏木の姿を思い浮かべる。
崩れ落ちる炎の雨を、まるで亡霊を眺めるような何とも言えない表情で見つめていた。
あの瞬間、夏木の精神は明らかに何かを思い出し、現実世界にはいなかった。
あの時、彼の目に何が映っていたのか。
あんなに優秀な技術を持っている彼が、仕事に影響を及ぼす程の精神的ダメージを受けた理由は何か。
── きっとそこに、自分が求める答えがある。その為に俺は、ここへ来たのだから……。
日高の視線は、ここではない別の遠いところを見つめていた。
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