act.08

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act.08

[13]  ドルドルと内蔵から身体を突き上げるようなエンジン音を感じながら、日高は右手の堤防越しに真っ青な海を見ていた。  久しぶりに回ってきた週休二日。  消防士は基本的に一日交代で当番の日と非番の日が回ってくるが、法律で定められた勤務時間の関係から、いつもより多く休みを取る週がある。それは職員の中で順番に回ってくるから、一係の他のメンツは今頃、出張所で顰め面をしながら書類仕事をしているはずだ。  今日は本当に天気が良くて、空と海が繋がって見える。  後でバイクの手入れを入念にしなければならないだろうが、こうして潮風を受けながら走るのも悪くはない。  日高は、人気のない砂浜にバイクを止めると、バイクの後部座席に固定している革製のバッグから中振りのコッフェルを取り出し、波打ち際まで向かった。  よく使い込まれて煤けたコッフェル。  休日はよくアウトドアを楽しむ日高にとって、このオンボロの携帯鍋は、今ので二代目になる。そろそろ三代目に買い換えねばならない。  日高は波間に近い、それでもまだ白く乾いた砂浜にコッフェルを置くと、再度周りの風景に目をやった。  こうして波打ち際に立つと、少し風がきつい。遠くに大型船の姿が見える程度で、気持ちがいいくらいに水平線が澄んで見える。  日高は、潮の香りを肺いっぱいに吸い込むように大きく深呼吸をすると、革ジャケットの懐から、手帳を取り出した。  父が唯一残した肉筆の日記。  息子の前では決してあからさまな感情を出すことのなかった父の本音が書き込まれた、血の記憶。  日高はしばらくの間、手帳をじっと見つめた。そしてそれを胸に押し当てると、それを目の前に翳した。ポケットから取り出したライターに火を付けて、手帳の端にそれを近づける。  じきに手帳が、テラテラと燃え始める。  小さな炎は風に吹かれながらじわじわと燃え上がり、日高の手を熱くした。  日高は慌てる様子もなく、手帳に十分火がついたことを確認して、コッフェルの中に落とし込んだ。  手帳は、白く細い煙を巻き上げながら、静かに燃えていった。  青いインクで書かれたページが反り返り、黒く焦げ、やがて白い灰になっていく。  日高は時折口で空気を吹き込みながら、手帳が燃え尽きるまで根気よくそれを眺め続けた。  そんな日高の耳に、単調で、それでいてドラマチックな波の音が繰り返し、繰り返し聞こえてくる。  日高が、どれくらいそんな波の音に耳を傾けていたのだろう。  コッフェルの中は、すっかり灰だけになってしまった。  日高は、取っ手を掴んで持ち上げると、再度周囲の風景を見つめた。  一瞬強くなった風が、日高の髪を掻き乱す。  日高は、それでもじっと海を見つめ、波打ち際まで近づいた。  灰を波打ち際に置く。  大きな波が来て、あっという間に灰は波の中に巻かれて行った。  灰が海に溶けていく様を見つめ続けた日高の顔に、やがて穏やかな微笑みが浮かんだ。  日高が顔を上げると、抜けるような青空に数羽の海鳥が羽ばたいて行った。 「俺はもう、訊かないことにする」  休み明けの朝、厨房の掃除をしながら、村井がふいに呟いた。日高は、「え?」と訊き返す。  作業台をぴかぴかに拭き上げながら、村井がニヤリと笑う。  向かい側で食器棚を拭いていた日高が、怪訝そうに村井を見た。 「何を………」 「だから、お前の言う『憎いけど愛しいって人』のことだよ」  いつもは超然としている日高が、珍しく頬を赤らめた。 「突然何を言い出すかと思えば…………」  村井は日高に背を向けながら、シンクで布巾を濯いだ。 「お前がここに来たことは、それなりの理由があるんだろう。その『憎いけど愛しいって人』っていうのにもな。だが、そんなのを詮索したって意味がないことは、今のお前を見ていたら分かる。何かお前、顔つきが変わったよ。憑き物が落ちたみたいな、こざっぱりした顔しやがって」  村井は布巾を絞って傍らに置くと、シンクの縁に手を付き、背を向けたまま言った。 「夏木のこと、ありがとな」 「村井さん………」  村井が振り返る。  いつもと違って、優しげな瞳の色だった。 「夏木があそこまで立ち直れたのは、間違いなくお前のお陰だ。そして今回の一件で、消防士の結束がより強固になったことも。お前が何を思っていたとしても、お前の存在がいい結果をもたらしてくれたのは事実だ。それに………」  村井が鼻の下をカリカリと掻く。 「あの飲み会の時のお前さんを見てたら、何となく意味が分かったような気がするしな」  日高は、村井を真似るように、頭をガリガリと掻いた。 「何だか村井さん、読みが鋭い姑みたいだな」  照れ隠しの憎まれ口に、村井が顔を顰める。 「姑で悪かったな。じゃ言うが………」  村井が、食器棚の縁を人差し指で擦り上げ、きれいに掃除されているのを確認すると、ふんと鼻を鳴らした。 「掃除はよくできている。だが、お前の包丁捌きだけはいただけんね」  いかにも芝居がかった村井の仕草に、日高は笑った。 「あんまりバカにしないでくださいよ。リンゴを剥く早さは、きっと村井さんに負けませんから」 「はぁ?」  村井がオーバーに顔を顰める。 「なんなら、試してみます?」  日高が、やんちゃな笑みを浮かべた。    その頃、夏木と臼井はロッカールームの掃除をしていた。  現金な臼井は、近頃表情が豊かになった夏木に、よく懐いている。 「夏木さん、見てくださいよ、これ!」  臼井が、自分のロッカーから写真を取り出す。  夏木がそれを覗き込むと、臼井が立っている後ろの車の窓に、日高によく似た男の笑顔が写っていた。 「日高正成さんですよ〜。磯谷さんがカメラ持ってたんで、撮ってもらったんです。夏木さんいなかったからなぁ………。惜しいことしましたね」  消防マニアを自称する臼井は、あの時の興奮が蘇ってきたのか、頬を上気させてその時の様子を語り始める。 「いやぁ〜、かっこよかったですよ〜。念願叶ってやっと会えました。消防学校で日高さんの現役時代のビデオを見た時から、大ファンだったんです。日高先輩がうちに来てくれたから、ひょっとして会うチャンスがあるかなぁと思ってたんですけど、こんなに早く会えるとは………」  夏木は臼井から写真を受け取り、複雑な気分で臼井の言うことを聞いていた。  夏木の予想でしかなかったが、日高優希は自ら望んで風岡出張所に来た訳ではないと夏木は想像していた。  数日前、夏木の家で過ごしたあの日、「レスキューに行きたいんじゃないか」と夏木が訊いても、彼はそれをはぐらかした。  その時、夏木は確信したのだ。やはり日高は、レスキュー隊員になりたかったのだ、と。  けれど彼は、何か深い事情があって、この風岡に来た。  ── その目的は………。  夏木はずっとそのことを訊けずにいる。  何となく、訊くのが憚られる感じがしていた。  あの日以来、日高は益々屈託なく、生き生きと日々を過ごしている。  数回出場があったが、もはや風岡のどのメンバーも日高を新入り扱いすることなく、むしろ日高の鮮やかな手並みと消防士としてのセンスのよさに天性の才能を感じていた。今では、隊長の近森や村井でさえ日高の意見を求めるようになっている。  夏木も、日高が共に現場にいると思うだけで、勇気づけられた。  一緒に組むことがあっても、あの『発作』が現れることは決してなく、むしろ夏木の今まで培ってきた高い技術力が十二分に発揮でき、風岡の評価はみるみる上がり始めた。 「夏木さんは、日高さんと仕事したことあるんですか? 日高正成さんと」  臼井が、夏木の手元の写真を覗き込みながら訊いてくる。  夏木は少し首を横に振った。 「いや………。数カ所の現場で見かけたことはあるが、一緒に仕事するというほどではなかった」  夏木はそう答えながら、その時のことを思い浮かべていた。  その頃から既に消防士達の憧れの的だった日高正成が、現場で松下と会う度に親しそうに話しているのを、夏木とて羨望の眼差しで見ていたものだ。  今の臼井のように、夏木も松下が日高隊員と親しいことにはしゃいで、二人の間柄について盛んに訊いたことがある。  だが松下は、「以前同じ署に勤めていただけ」としか答えず、それ以上は何も言うことはなかった。元々物静かな人だったので、騒がれるのが嫌だったのだろうか。夏木もそれ以上訊くことはしなかった。 「俺ねぇ、自慢じゃないですけど、日高正成ライブラリーが家にあるんですよぉ。日高さんが出場した現場の記録VTRを内緒でダビングしてもらって」  臼井がそう言うのを聞いて、夏木は呆れ返るような笑みを浮かべた。 「病気だな、お前………」 「だって、かっこいいじゃないですか。俺は、消防車を運転したくてこの道に入りましたけど、学校でレスキューの世界を知って、やっぱ憧れましたもん。でもあの世界って、もうマゾとしか思えないほどハードでストイックだから、絶対俺はついていけないけど」 「まるでストーカーだなぁ」  夏木が写真を臼井に返すと、臼井は惚れ惚れした様子で写真を眺めている。 「日高先輩もかっこいいけど、やっぱ日高さんには叶いませんよ。俺、日高先輩がレスキュー蹴ったのがいまだに信じられませんもん。だから最初は何だか腹が立っちゃって反発もしたけど、今じゃ日高さんに会わせてもらえたから、感謝感謝なんです」 「本当に現金だな………」 「自分らしく生きていると言ってください」  臼井が胸を張って言うのを見て、夏木は思わず吹き出した。  再び掃除の作業に戻りながら、話好きの臼井は口を閉じることがない。 「夏木さん知ってます? 日高先輩って、日高さんの実のお姉さんの子どもなんですよ」 「…………へぇ、そうなんだ」  そう言えば、日高がどういう生い立ちなのか訊いたことがない。  夏木が日高の身の上を知らない様子に気を良くした臼井は、益々口の滑りをなめらかにする。 「でね、日高先輩のお父さんも消防士なんです。ホント、生粋のサラブレットって感じですよね、日高先輩」 「ふぅん…………」  日高は取り分け日高正成との血のつながりが取り沙汰されているので、日高の父親までもが消防士だったことは意外に感じた。しかし日高の母親が正成の姉だとして、今、日高姓を名乗っているということは………。  夏木が箒で掃く作業の手を止めると、臼井を振り返る。 「亡くなっているのか。日高の父親は………」 「ま、確かに亡くなってはいますけど、先輩が日高姓を名乗ってたのは、その前からだったみたいですよ。離婚でもしたんじゃないですかね」  そこまで言って、臼井も作業の手を止めた。  その表情は、何かに気づいたような、それでいて怪訝そうな顔つきであった。 「………あれ? そう言えば、夏木さん、ご存じじゃないですか? 日高先輩のお父さん」  臼井の問いに、夏木は小さく首を傾けた。  「よぉ〜い、ドン!」  磯谷の掛け声で、村井と日高が同時にリンゴを剥き始めた。 「う〜」  村井が歯を食い縛りながら、日高の手元をちらりと見る。  以前は、散々な包丁捌きを見せていた日高が、今は村井を凌ぐスピードでリンゴの皮を剥き上げていく。その手並みは鮮やかなもので、決して皮を途中で切ることがない、 「よしよしよし…………」  自分の勝利を確信して、日高が笑みを浮かべつつ囁く。 「いい勝負だなぁ〜」  必死な二人の様子を見て、磯谷がのんびりとした声を上げた。  臼井の一言に、夏木の心は俄に曇った。  何かよくない予感が身体中を駆け抜ける。  背筋に寒いものを感じた。  夏木が返事を返してこない様子を見て、臼井が意外そうな表情を浮かべる。 「え? 知らなかったんですか? 日高先輩がここに来たのって、てっきりそのことがあってだと思ってたから、夏木さんも知ってるものと…………」  夏木が、大きく目を見開いて臼井を見る。  その時点でようやく臼井は、夏木の様子が普通でないことに気が付いた。 「え? や、あ、その…………大した話題じゃないですね、えへへ」  今更誤魔化そうとしても後の祭りだ。  夏木が怖い顔をして、臼井に詰め寄る。 「日高の父親って、誰だ」 「や、誰かなぁ〜………」  夏木は臼井の襟首を持って、ロッカーに押しつけた。 「誰なんだ!」  臼井が首を横に振る。  夏木は更に臼井を締め上げた。 「 ── 松下さんか。松下昇三なのか? ……おい! どうなんだ!」  夏木の気迫に、臼井は根負けして、二、三回頷いた。 「そ、そうです………。日高先輩のお父さんは、松下昇三消防士です………」  夏木は、臼井から手を離した。  そしてふらふらと後ずさった。 「だ、大丈夫ですか?」  臼井が、乱れた襟首を直そうともせず、夏木の顔を覗き込む。  夏木の顔色は今や真っ青で、目に見えて冷や汗が浮かび上がっていた。 「………そんな………、そんな…………」  ── 日高の父親が、あの松下さん…………。  夏木が頭を抱えたのと同時に、ロッカールームのドアが開いた。 「夏木さん、やっと見つけた! 俺、村井さんに勝ちましたよ! リンゴ剥き………」  満面の笑みを浮かべて、日高がロッカールームを覗き込む。 「あ」  臼井がしまったという顔をして、日高を見た。  その尋常でない雰囲気に、日高の顔が怪訝そうに歪んだ。 「………え? 何?」  夏木がゆっくりと頭を上げて、日高を見た。 「なぜ、黙ってた………」  夏木が心許ない足取りで日高の前に立つ。 「お前の父親が、松下さんだってこと、なぜ俺に黙っていたんだ………」  それを聞いた日高の顔が目に見えて強ばり、青ざめたのだった。 「なぜ…………なぜ、黙っていた!」  夏木が、日高の襟首を掴む。  その力は強く乱暴だったが、日高を見つめる瞳は、弱々しく濡れていた。 「あの夜も………、あの夜もお前は全て承知で………?」 「夏木さん…………」 「何も知らなかったのは、俺だけか。お前がここへ来た訳も、お前が俺に近づいた理由も、知らなかったのは俺だけなんだな!」 「それは違う!」  日高が叫ぶ。  日高は夏木の手を握って、首を横に振った。 「俺は今まで誰にもここへ来た理由なんて言ってないし、そんなことはもうどうでもいいことなんだ」 「どうでもいいことじゃない!」  夏木が物凄い形相で怒鳴り声を上げる。  夏木の後ろで臼井がビクリと身体を震わせた。 「じゃぁ、言ってみろ。何でもないようなことなら、本当の理由を言え」 「 ── それは…………」  日高が言い淀む。  夏木は目を細めて、日高を睨み付けた。  目尻の縁が赤く充血していく。 「確かめに来たのか? 父親を死に追いやった人間の顔を。どんな男なのかを。そして俺に近づいて………。満足か? 俺の全てを知って、満足したか?」  夏木が荒々しく息を吐く。 「もしお前の目的が復讐だとしたら………、もう十分に目的は達成してるさ………!」  夏木は日高の身体を突き飛ばすと、ロッカールームを出て行った。 「夏木さん!」  日高が夏木の後を追おうとした時、庁内放送で近森の声が響き渡る。 『消防尾津井東より火災入電中。風岡地区杉林町………』  日高と臼井の動きが止まって、顔を見合わせた。  じきに、けたたましいベルが鳴り響く。 「お前ら、何モタモタしてる! 出場だぞ!」  厨房から飛び出して来た村井が、二人を追い立てた。  日高は舌打ちをしながら、ロッカールームを飛び出した。 [14]  ガレージに走り込むと、近森が険しい表情で隊員を迎える。 「工場火災だ。デカイぞ」  近森が手にしている指令書には、今回の火災で出場指令が出た部隊名がズラズラと並んでいる。それを見るだけでも、近森の言うことが決して大げさでないことが分かる。 「工場って、まさかあの工場ですか?」  防火服を着込みながら、村井が近森に向かって呟いた。 「まさかって、なんです?」  この地区では日が浅いと言える日高が、村井に訊いた。  村井が顔を派手に顰める。 「不織布(ふしょくふ)工場だ。杉林町にある工場っつったら、そこしかない」  それを聞いて、日高は血の気が引く思いがした。  不織布にもいろいろある。ガラス繊維や炭素繊維などを使った『燃えにくい』不織布だってある。現に消防士が着る防火服にも採用されている素材もあるくらいだ。しかし、村井の表情を見る限り………。  車に乗り込みながら、村井は言う。 「確かその工場は、ポリやレーヨンとかの合成繊維を扱っているはずだ。製品はもちろんのこと、原料や接着剤のことを考えただけでも、背筋が凍る………」  村井に続いて車に飛び乗った日高の顔が、嫌でも強ばる。  ── 何て最悪のタイミングだ………。  火災現場の状況は元より、夏木との先程のやりとりがあのままの状態で現場に向かわねばならないことが、日高には気にかかって仕方がなかった。  現に夏木が座っているはずの席は、空白になっている。 「おい! 夏木はどうした!」  近森がそれに気づいて、怒鳴る。  臼井が振り返って日高に目をやるのを、村井が怪訝そうな瞳で見つめた。 「これ以上は待ってられんぞ!」  近森がそう言った時、夏木がガレージに飛び込んできた。  自分の防火服セットを抱え込み、消防車に飛び乗る。 「遅い! 何やってる!」  近森が怒鳴ると、夏木は「すみません!」と答えた。  顔でも洗ってきたのだろうか、夏木の顔には無数の拭い切れていない水滴が流れ落ちていた。  車庫を大きく揺するすエンジン音と鋭いサイレンを響かせながら、消防車が出庫する。  日高の隣で黙々と防火服を着込む夏木を見て、日高は「夏木さん………さっきのことは……」と声をかけた。しかし夏木は、赤く充血した()でちらりと日高を見たきり、視線を車窓の外に向けた。 「夏木さん………」 「今は何も話したくない」  ぴしゃりと言われる。  さすがの日高も、その先言葉を繋ぐことができなかった。  村井が、益々怪訝そうに二人の様子を見つめる。  村井が日高に声をかけようとするが、本部から入ってくる無線に対応しなければならなかったので、それも適わない。  奇妙な空気のまま、日高達を乗せた消防車は、火災現場へとひた走って行った。  刻々と入る無線からは、火災の状況が逐一流れてくる。  どうやら一階にある工場の中心部から火の手が上がり、原料の貯蔵庫に燃え広がったらしい。工場内にいた作業員や上部の階にいた社員で無事脱出ができた者はいるようだが、建物内に取り残された人間がまだ多数いる模様である。先着隊は人命検索を最優先に実施しろとの指令が下った。  誰もが口に出さずとも、圧倒的な迫力の黒煙が山際からモウモウと立ち上っている様子に脅威を感じていた。その煙の色を見るだけで、有害な物質が派手に燃え上がっていることが推測できる。 「ヤベェ…………」  臼井が思わず呟く。 「怯んでる場合か! 直に混乱してる道路に突っ込むことになるぞ!」  近森が言った通り、現場に近づくに連れ、道路は混み始めた。  逃げまどう車や人と、野次馬目的の連中がごちゃまぜになっていて、火災の様子が窺える場所に来ると、駐車違反までして見物している始末の悪い人々もいる。 「消防車両が通ります。直ちに道路を空けてください!」  近森は何度もサイレンの音を変えながら、マイクに向かって怒鳴り続ける。  現場にはパトカーや白バイが数台到着していて、交通整理を始めていた。バックミラーを見ると、ガス業者と電気配線業者の車も見える。空に立ち上る大きな黒煙を見て駆けつけてきたのだろう。  近森は消防車の窓から身体を乗り出すと、警察官に後ろの業者の車を誘導してくれるよう頼んだ。  あちらこちらから消防車のサイレンが聞こえてくる。これほどの出場指令が出たのは久しぶりのことだ。  工場の駐車場は、大混乱していた。  今なお工場内から飛び出してくる者、真っ黒い顔をしたまま、呆然と燃え上がる我が社を見つめている者、付近の住人などなど………。  現場は悲鳴や怒号が飛び交い、警察による避難誘導や野次馬整理が思うように捗っていない。  消防車は警察官の誘導により、ようやく工場の敷地内に入ると、所定の位置に車を停車させた。  このような大規模な建物は、万が一火災に見舞われたとして想定されている警防計画に乗っ取って、それぞれの消防署の部署が決められている。 「ポンプ起動! 出るぞ!」  近森の掛け声と共に臼井がエンジン動力をポンプに切り替える。身体に伝わる振動が変わるのを感じながら、他の四人は車外に出た。  建物一階の大きな窓は割れていて、黒い煙が立ち上っている。しかし炎は、火元と伝えられている一階より二階の窓からチラチラと見えた。  工場の建物自体は五階建てだ。  一階全体が不織布工場と倉庫で、二階では不織布の加工製品が製造されている。三階から上が製造会社のオフィスになっていた。  広大な駐車場に溢れ出ている人達を見ると作業着姿の人間が多く、スーツ姿やOL風の制服に身を包んだ人間が少しだけ見えた。  そのことから考えても、上の階にいる一般従業員がまだ多く逃げ遅れている可能性は高い。二階の茜色に照らされる窓群を見る限り、憎たらしいほど燃えている。 「全員、空気呼吸器(パック)着装! 村井と日高はホース延長、夏木は機材の準備。整い次第進入する。当面は、人命検索優先と延焼防止に重点を置くぞ」  近森の声を皆で復唱し、各自が行動に移った。  その間に近森が、誘導を指揮している警察官に声をかける。 「どうですか? 状況は」 「逃げてきた工場作業員の話によると、着火原因は不明、ただし接着液剤に引火した模様です。接着液剤を噴霧している場所に近く、あっという間に燃え広がったようで………。一、二階の人間は全員逃げ出せているとのことですが、上の階の十数人が五階に逃げ上がっているとのことです。延焼が始まった箇所にいた作業員数名は、あちらにおります」 「分かりました。行きましょう」  現状把握の為に、近森は警察官と共に走り去った。  残された隊員は、黙々と進入準備を進める。  駐車場にある花壇付近に埋設された消火栓を開き、まずはそことポンプ車を繋ぐ。後はポンプ車と建物内に設置された消火栓まで水を送る送水管を連結させ、建物内の消火栓から水が取れるようにするのだ。 「念の為、50ミリを4本と65ミリも持っていくぞ」 「はい」  村井の呼びかけに、パックを装着し終わった日高が巻いた形のホースを広げずそのまま取り出し、肩に掛ける。  その向こうでは、小型のツルハシのような道具 ── 鳶口(とびぐち)や携帯照明器具、命綱等を用意している夏木がいる。  意識的に視線を合わせずにいる二人を見て、村井が二人に声をかけた。 「おい、お前ら」  二人同時に顔を上げる。 「何があったか知らねぇが、今は互いに忘れろ。そんなツラで今みたいな現場に入ったら、間違いなくもっていかれるぞ」  一瞬、沈黙が流れた後、「はい」と二人から返事が返ってきた。村井は頷いて、自分もホースを抱えると、「入るぞ!」と怒鳴って工場に向かった。  文字通り、そこは戦場だった。  目の前で踊っている炎はもはや赤からオレンジ、そして青や白と変色して行き、強烈な熱気と圧倒的な威圧感を湛えながら怒り狂っている。 「頭! 頭低くしろ!!」  村井の怒鳴り声がして、日高は自分の身体と壁に挟んだ位置にいる逃げ遅れの社員の頭を抑え、床に伏せた。  村井が示唆しているのがなんなのか、消防士なら誰でも分かる。  日高の目線の先には、50ミリホースを必死に抱えた夏木の姿があった。  驚くような静寂。  そして次の瞬間には、ひゅぅとガスが吸い込まれるような音がして、すぐにドォンという衝撃波と共に天井部分に堪っていたガスが一気に爆発した。  フラッシュオーバー現象だ。  建物の骨格自体がビリビリと震え、どこかで窓ガラスが割れる音が聞こえる。  感覚が麻痺しそうな熱気が日高の背中をゾロゾロと這っていく。日高は防火服の上からも感じる熱い痛みに顔を顰めた。  日高の身体の下で、重役と思われる男がガタガタと震えた。  迫り来る死の恐怖に怯えきった彼は、水浸しの身体を完全に硬直させていた。  日高はその口に、酸素吸引のマスクを押しつける。その間日高は自分の呼吸を止めながら、熱気に霞む周囲を見回した。  まだ床に伏せた格好の村井・夏木双方と目が合う。そして互いの無事を確認した。  夏木が立ち上がり、再び炎に向かって放水を開始する。 「俺がここで火を抑えている間に、要救助者を外に出してください。最後の要救助者が出たら俺も退避します!」  夏木の怒鳴り声に、村井と日高が再び顔を見合わせた。  どこからともなく、先程のフラッシュバックのせいで脆くなった壁が崩壊していく音が聞こえてくる。 「早く!」  再び夏木が怒鳴った。  村井が頷く。 「日高、行くぞ。早くしねぇと、階段も崩れ出す!」  日高は身体を起こした。  要救助者と炎の間に自分の身体を押し込みながら、男性の身体を掴み、部屋の出口まで抱えていく。背後を振り返ると、村井の連れた要救助者の男性の腕が見えた。グイッと引っ張る。非常階段に続く廊下に出ると、少しだが熱気が和らいだ。低い姿勢をとっていれば、マスクなしでも呼吸ができる。 「歩けますか?!」  日高と村井は互いの腕の中にいる要救助者に声をかけた。村井の方の救助者はなんとか頷いたが、重役は身体を震わせるばかりで、とても自力で脱出できそうにない。  日高はずっしりと重い男性の身体を肩に抱え上げると、階段を下り始めた。  一歩前に村井と要救助者の背中が見え、どんどん遠くなっていく。  進入時には一番に燃えていた火点の一階や二階部分は、後着隊が重点的に叩いているお陰で随分落ち着いてきているようだった。だが燃え落ちた建材が崩れる音や亀裂が入る音などがあちらこちらから聞こえ、既に鉄骨部分がむき出しになった壁も見えた。  工場に設置された機械や什器(じゅうき)は真新しいものが多かったが、建物自体は随分古い。作動していない防火扉やスプリンクラーが幾箇所も見て取れた。  そのせいで延焼がこんなに酷く、そして早まったのだ。  所々ひび割れた壁の補修の跡も見受けられたので、あちらこちらで偶発する爆発にこの建物(うつわ)が耐えられなくなるのは時間の問題だった。 「滑らないように気を付けて!」  村井が要救助者の腕を取りながら、注意を促す。  階段は多量に流れ出た水のせいで、まるで台風の後の濁った川のようだ。  ひび割れた天井からも雨のように水が滴り、周囲はザアザアと滝のような音が響き渡っている。  村井と要救助者の姿が非常口の外の光の中に消えて行ったのを見届け、日高はふぅと一息ついた。10キロ以上の装備を着けているのに加え、肩にずっしりと男性の身体がのしかかってくる。完全にぐったりした男性の身体は、彼の体重以上に重く感じる。おまけに彼の水浸しの衣類が更に重さに拍車をかけていた。  さすがの日高も滑る階段に思わずバランスを崩し、むき出しになった排気口の配管に思わず捕まった。幸いこれで要救助者と共に階段下まで転げ落ちることはなくなったが、日高は自分が偶然掴んだ配管が妙に熱いことに気が付いた。  日高の視線が、配管をゆっくりと辿る。  自分のやや前方の壁にダクトの穴があるのが見えた時、日高の背筋にうすら寒い悪寒が這い上がってきた。  日高の足が、一段、二段と自然に後ろに下がっていく。  ゾワゾワと鳥肌が立ち、日高は身を翻して階段を駆け上がった。  その瞬間。  日高の背後でバカンと音がして、ダクトの金網が向かいの壁に叩き付けられたのが、その音で分かった。  日高が振り返ると、壁のダクトから吹き出した火柱が壁に当たって、渦を巻いていた。  一、二階の工場内で消防隊の水に追われた炎達が行き場をなくし、排気口に逃げ込んだせいだ。  思わず日高は、言葉では説明できない消防士としての自分の『勘』に感謝した。  うぬぼれなどではない。  あのまま階段を下りていたら、確実にあの炎に巻かれて、今頃は要救助者と共に火だるまになっていた。  階段の踊り場で一息つくと、再び日高の後ろでもさっきと同様の音が次々とした。後ろ振り返ると、階段の壁に点々と付けられたダクトから規則正しく炎が吹き出していく様が見えた。  ── しまった………!  日高は心の中で舌打ちをする。  ── 夏木さんの退路(たいろ)が失われてしまった………!  だが、引き返す訳にはいかない。  自分の肩には、要救助者がいるのだ。  人間の命は等しく尊いものだが、火災現場になると消防士の命は要救助者の命より後回しにされる。それが消防士の(さが)である。  例え100人救っても、200人救っても、要救助者が一人でも火災現場で命を落とせば、それが評価となる。悲しいことだが、ニュースで報道されるのはいつだって救い出した人の数ではなく、死亡した人の数だ。  『我が身自身の安全を第一に確保し、消火活動に従事(じゅうじ)する』。  それが消防士の基本ルールだ。  だが時として消防士は、生命の危険に我が身を晒さなくてはならない。炎の先に助けを求めている要救助者いるのならば……。それが消防士なのだ。 「クソッ!」  救助者を抱えたまま降りることも、上がることもできなくなった日高は、男性の身体を床に下ろすと、腰の鳶口(とびぐち)を掴み、脆くなった壁に叩き付けた。 「オラァ!!」  ガンガンと鋭い金属の爪先を壁に打ち付けていく。  壁が避け、外の光が射し込んできた。  日高は四方八方にひび割れした壁を、気が狂ったかのように殴り蹴り、壁を崩した。  急に視界が広がる。  顔に涼しい外気の風が当たり、駐車場のアスファルトの上に網の目のよう這ったホースが見渡せた。その先に赤い色の四角い消防車が、何十台と停車し、赤色灯が瞬かせている。 「おい! こっちだ! 手を貸してくれ!!」  邪魔なマスクを背中に追いやり、日高は怒鳴る。  地表に待機していた他の消防隊員らが、すぐに気が付く。 「待ってろ! 梯子車をそっちへ回す!」  日高は背後の様子を確かめた。  滝のように汗が流れ落ちる。 「駄目です! 炎が両側から迫ってきていて、時間がありません。ロープで降ろします!」  日高が怒鳴ると、下の消防隊員は直ぐにOKサインを出してきた。  日高は腰のベルトから命綱を取ると、要救助者の身体を綱に固定した。  両側から炎が近づいてくるこの極限状況で、綱に結び目を作っていく日高の手は落ち着いていて、淀みはなかった。 「ここからあなたを地上に降ろします」  丁度男性の身体をロープで作った椅子に座らせるような格好で固定すると、男性の頭上で合わされたロープの束を男性に掴ませた。  だがすっかり意気消沈して、泣きべそをかいている男性は怯えきってすぐにロープを離してしまう。日高が「しっかり持って」と励ましても「俺は高所恐怖症なんだ。とてもこんなところから降りられない。もう駄目だ」と呟くばかりだ。  日高が男性の胸ぐらを掴む。 「馬鹿野郎! あんた、死にたいのか! 生きたいのか! どっちだ!!」  男性の身体がビクリと震える。  だが突如自分より一回りも二回りも若い消防士に怒鳴られ、カッときたらしい。  日高の腕を掴む男性の手に力がこもり、日高を睨み付けてくる目にも生気が戻ってくる。  日高はその目に向かって呟いた。 「生きたいと思うのなら、絶対に助かる。俺の腕と、あなたの勇気を信じて」  男性が唇を噛み締める。  そして彼は再び涙を浮かべ、こう答えた。 「女房の作ったぬか漬けが食べたい………」  日高は微笑むと、再びロープを男性に掴ませた。  今度こそ彼は、ロープに縋り付くようにして必死にそれを掴んだ。  日高は下を覗き込んだ。  他の署の隊員が、真下に落下防止用の巨大なエアマットと梯子(はしご)をセッティングしている。この分だと、少し下ろせば梯子を登ってきた隊員に彼の身を任せることができるだろう。  日高は側の鉄骨にロープの端をしっかりと結わえ付けると、自分の腕と首の裏にロープを絡ませ、男性の身体を下に降ろした。高さで言えば二階と三階の間だ。  男性の体重を支えるロープが、両肩に食い込む。 「………うっ、うう………」   日高は歯を食い縛った。  背後ではダクトから飛び出した炎が、日高の作った空気穴の外気を食いに、チロチロと不気味に近づいてくる。  ── くそ………!  何があっても、今ここを動く訳にはいかない。  炎の先は、まるで日高をあざ笑うかのようにその舌を次第に伸ばしてくる。  ザアザアと流れる床の上の水を後目に、まるで生き物のような動きを見せた。  まさしく、『赤い毒蛇』だ。  日高の額から、新たな汗が噴き出した。  日高の指先に、炎の先端が触れる。  日高がその炎を睨み付けた時、ふいに肩が軽くなった。  外を見下ろす。  梯子を登ってきた隊員二人が、日高に向かって親指を立てていた。  日高はロープから身体を外し、そこに身を伏せる。  寸前のところで、赤い炎が穴から外へ吹き出した。  新たな酸素を得た炎は、我が物顔で壁に空いた穴周辺を焦がしていく。 「おい! 大丈夫か?!」  梯子下にいる消防隊員が声を上げた。  日高は床に這ったまま、穴の外に顔を出した。  親指を立てる。  隊員は一瞬ほっとした表情を見せたが、すぐに強ばった表情を浮かべた。 「要救助者は、あと何人いる?!」 「さっきで最後だと思います!」 「君も早くそのロープで下りてこい! あちこちが崩れてる。そこもじきだぞ!」 「うちの隊員が五階に取り残されているんです! 救助に向かいます!」 「救助って、おい!」  全隊退避命令が出ているんだぞ………という声を背中で聞きながら、日高は身を翻した。  ボンベの中の酸素残量を確認する。  もうかれこれ、逃げ遅れた人々を外へ誘導する為に幾度となく往復を繰り返している。その間にボンベは新しいもの交換したので、まだ引き返す程度には耐えられるだろう。  日高は上り階段の中を縦横無尽にうねっている炎を睨み付けた。  ── この上にあの人がいる。たった一人で。  出場前の夏木の顔が浮かんだ。  日高の父親が松下昇三だと知った瞬間の、彼の顔。  涙に濡れたその瞳には、驚愕の中に、強い苦しみが浮かんでいた。  日高を愛し始めているが故の苦しみに違いなかった。  日高は今更ながら、この炎の中で父親の存在をひしひしと感じた。  死してなお、10年以上も絶つのに、いまだ夏木を捕らえて苦しめる父の存在。  父は確かに、自分にとって越えがたい完璧なヒーローだったが、今はその父を越える必要があった。  目の前の炎の中に、父の残像が見えたような気がして。  日高は唇を噛み締め、炎に一歩近づいた。
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