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「え?」
私は寝そべっていたソファから起き上がり、そばに立つ風呂上がりの千秋を見上げる。
「そ、それってどういうこと? ここを出て行くの?」
「ちがうよ。やっぱ、周りとか見てさ。普通に働いたほうがいいかなって」
「そんな。つらいよ? 就活で、何社も落ちて、やっと受かったとしても、そこがいい会社だとは限らないし。」
「でも、いいじゃんか。ちゃんと働ければ、僕もミカさんに頼りきりにならなくなるし」
千秋の言葉に、明らかに焦っている自分がいた。
「私、頼りにならないかな」
「そんなこと言ってないでしょ」
「だって……」
私が口ごもると、千秋はあついシャワーを浴びせたばかりの手のひらで、私の頬をつつんだ。
「どうしたの、そんな顔して」
まっすぐに見つめられて、心のうちが読まれそうで怖かった。
私はなにも言えず、ただ、水に濡れた千秋のうつくしい髪の毛を見つめた。
「ミカさんはいま、なにが不安なの? なにがそんなに怖いの? 答えてくれなきゃ、わからないよ」
ときどき、千秋の言葉は棘が鋭かった。
「いつも、こういうときになんにも言わないんじゃわからないよ。それで自分の気持ちに気付いてもらおうなんて、ズルくない?」
言い残して、千秋は呆れたように私の前を去って、ドライヤーをかけに行った。
べつに、気付いてもらおうなんて考えちゃいないけどさ。
私は胸の内に、言葉にならない不安があふれたけれど、向き合うことはせずに、その日はそのままソファで眠ることにした。
翌週、髪の毛を黒く染め、スーツに着替えた千秋の背中を、私は複雑な思いでたたいた。
パンプスを履いて、駅までせわしなく歩き、いつもの通勤電車に乗り込むと、そんないいもんじゃないのに、とつぶやきたくなった。
帰宅した千秋が暗い顔をして、落ちた、上手くいかなかった、と言うたびに安心している私がいた。
はやく諦めなさい。ずっと子供のままでいてよ。
私は千秋の寝顔を見つめて、何度も唱えた。
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