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01.非日常は突然に
表面がざらざらしたタイル張りの床に、赤黒い液体が広がっていた。
明らかに血液と思われる“それ”はまだ固まっておらず、ぽかんと口を開けた俺の間抜けな顔を映している。
マグナムサイズの赤ワインを丸ごとぶちまけたかのようなこの量――これがもし人間の血だとしたら、怪我の主はすでに死んでいるかもしれない。
いったいどうして、地下鉄の通路にこんなものが?
ついさっきまで、俺は行きつけのラーメン屋で遅めの夕食をとっていた。予備校をサボってスポーツジムで汗を流した後、カロリーと塩分の塊みたいなものを食べるのが最近のお気に入りなのだ。
そして食事を終えてから地下鉄に乗り、郊外にある家の最寄り駅まで帰ってきたのだが……。まさか改札階と地上を繋ぐ連絡通路への階段を上がってすぐのところで、こんなおぞましい光景に出くわすとは思いもしなかった。
―― ぶぢっ……ぐじゅり……みぢぃっ…… ――
「――――!?」
自分から見て丁字型になった通路の先、その右手のほうから妙な音がする。
俺はいつも徒歩なので利用したことはないが、確かそっちには市営の地下駐輪場があったはずだ。
―― がりっ……ぶぢぢっ……ごりっ……ぺきん…… ――
曲がり角の向こうからは、なおも痛々しい音が聞こえてくる。
これはまさか、動物園から逃げ出した猛獣かなにかに人が襲われているのだろうか?
最初にこの血溜まりを見たときは、飲み会帰りのサラリーマンが強盗にでも刺されたのかと思った。だけどこの音は――そう、人間が骨付きの肉を食べているときの音に近い。
「…………」
床の血溜まりは引きずったような跡を残して、やはり通路を右に曲がった先へと続いている。
俺は一度ごくりと唾を飲み込むと、覚悟を決めて曲がり角の向こうを覗いてみることにした。
とにかく異常事態であることは間違いないのだから、まずは改札に戻って駅員にこのことを報せるべきかもしれない。しかしこの先にいるのが本当に大型の猛獣だったりした場合、警官が持っている拳銃だけでは歯が立たない可能性もある。
事の重大さを正しく伝えるためにも、せめて現場の状況だけは確かめておかなければ。
(よし……)
床の血を踏まないよう、壁際を歩いて曲がり角の手前に立つ。そして横目で通路の先をそっと覗き込むと――
「――――っっ!」
俺はどれだけ凄惨な光景を目のあたりにしても声を上げないよう、あらかじめ口元を手で押さえていた。なのにその光景を見た瞬間、鳩尾のあたりが引きつって思わず声が出そうになってしまう。
そこで繰り広げられていたのは、俺の想像をはるかに超えた惨劇だった。なんと70歳ぐらいの老人が床に這いつくばり、人間の腕らしきものをむしゃむしゃと貪り喰っていたのだ。
(な、なんだありゃ?)
短く刈り込まれた銀髪の老人は、ほとんど白骨と化した腕をなおも齧り続けている。
ミイラのように痩せこけた顔はどす黒く、その瞳は十メートル以上も離れたここからでも分かるほど、異様な赤い光を放っていた。
「うぶっ……」
床の血痕だけならまだ我慢もできたが、さすがに酸っぱいものが喉の奥からこみ上げてきた。なにせ老人のすぐ傍には腕をもがれた被害者と思われる人が倒れていて、その周りはまさに血の海になっていたからだ。
あれはもしかして、駐輪場の料金所にいた管理人だろうか? 市の職員であることを示す薄手のスカジャンは本来なら浅葱色のはずだが、ほとんど血の赤に染まってよくわからない。
(……まあとにかく、あれは絶対に関わっちゃいけないやつだな。とにかく戻って警察に通報しないと)
そう思って俺が振り向いた、そのとき――
「あなた……」
「うぉっ!?」
いつの間にか真後ろにいた人間にいきなり声をかけられて、俺は思わず後ずさってしまった。つまり、あの化物じみた老人がいる通路のど真ん中に飛び出してしまったのである。
俺の背後にいたのは、丸い眼鏡をかけた女性だった。少し目つきは悪いが、炎のような赤い髪の綺麗なお姉さんだ。
女性は上から下まで真っ黒な服装で、首から銀の十字架を下げていた。教会の前でよく見かけるお婆さんのように頭巾こそかぶっていないが、どうやら彼女は修道女らしい。
「あ、あんた、今すぐここから逃げろ。なんか頭のイカれた爺さんが人を襲ってるんだ。ヒァ、イズ、デンジャーよ。エスケイプ、オーケー?」
「おかしいわねぇ、入口にもホームにも人避けの結界が張ってあるはずなのに。どうして一般人が紛れ込んでいるのかしら?」
女性は俺が下手糞な英語で逃げろと促したにもかかわらず、その言葉をまるで無視するかのように独り言をつぶやいた。髪の色からして日本人には見えないのに、驚くほど自然な発音の日本語だ。
「グるゥゥゥゥゥ……」
ふと、左のほうから獣じみたうなり声が聞こえた。
声のしたほうに目を向けると、いつの間にか老人が立ち上がって俺をじっと見つめていた。さらにゾンビのように体を左右に揺らしながら、こちらに向かってゆっくりと近づいてくる。
そのとき、俺は妙なことに気がついた。隣にいる女性は修道服らしきものを着ているが、目の前の老人もまた全身黒ずくめの、それこそ教会にいる神父のような格好をしているのだ。
しかもよく見れば、彼の胸元にも女性と同じ銀の十字架が光っている。こうなると、もう考えられる可能性は一つしかない。
「あんた、もしかしてあの爺さんの知り合いか?」
「んー……神父様がホームに結界を張る前にやつと遭遇しちゃったのかな。ま、降りてきた乗客が一人だけだったのは不幸中の幸いね」
女性は相変わらずこちらの問いかけには答えず、よく分からないことをつぶやいている。
「ちょ、無視すんなって」
「いいからきみは下がってなさい」
女性は俺を後ろに押しのけると、まるで漫画に出てくるヒーローみたいに毅然としたポーズで老人の前に立ちはだかった。おいおい、もしかしてこの人、あの化物をどうにかするつもりじゃないだろうな。
「メリン神父……こんなことになって残念ですわ。ですが、あなたもこれ以上やつらの傀儡として罪を重ねることなど望まないはず。同じ神の使途として、このアリシア・バートンがあなたの魂を主の御許へと導きます」
アリシアと名乗った女性がスカートの右側に入ったスリットに手を入れ、太もものあたりから短い筒のようなものをするりと取り出す。
それは映画に出てくる昔の海賊が持っているような、古めかしい形の銃だった。
「罪に罰を、咎に赦しを――『Kyrie eleison』(主よ、憐れみたまえ)……!」
アリシアさんが胸の前で十字を切り、聞き慣れない文句を唱える。そして次の瞬間、
―― パァン! ――
狭い通路に、乾いた破裂音が響き渡った。
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