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03.真紅の瞳に魅せられて
エレベーターの扉が音を立てて開くのと同時に、俺はなにも考えずにその一歩を踏み出した。左右の扉にある窓からは何も見えなかったし、すでに停まっていたエレベーターに乗ったままの人間がいるとは思えなかったからだ。
―― ぴちゃり ――
エレベーターに乗り込んで二歩目のところで、足下から水っぽい音がした。それに気づいて何気なく視線を下げてみると――
「うぉわぁぁぁぁっ!!!?」
一瞬、俺は床に薔薇の花びらでも敷き詰めてあるのかと思った。エレベーターの床の色と、まだら模様になった赤のコントラストがそんなふうに見えたのだ。
しかし実際の光景は、それよりもっと現実離れしたものだった。人間が自転車の横に立ったまま四人は乗れそうなエレベーターの中に、血まみれになった一人の少女が横たわっていたのである。
「どわっ!?」
驚いて後ろに退がろうとした拍子に床の血で足が滑り、思いきり尻餅をついてしまった。
肩から下げていたスポーツバッグのおかげで腰や尾てい骨は打たなかったが、両手にはぬるりとした感触が伝わってくる。まだ固まってこそいないものの、その血にはもはや命を感じさせる温もりが感じられない。
「ぅ…………」
俺が大きな音を立てたことで気がついたのか、死んだように目を閉じていた少女がかすかなうめき声を上げた。
「…………!」
その少女は、思わず見惚れてしまうほど綺麗だった。
さっき出会ったアリシアさんとはまた違うタイプの、完璧すぎてどこか作り物じみた美貌。
金髪というには白に近い、象牙色の長い髪。
元々色白なのか、それとも血を流しすぎたせいなのか、まさに白磁のような肌。
ゴスロリ風の真っ黒なドレス姿といい、本当に等身大の人形みたいだ。
「お、おい……生きてるのか?」
俺は目の前の少女に近づいて、おそるおそる声をかけてみた。この娘は明らかに日本人ではないし、もしかするとアリシアさんの仲間かもしれない。
「…………あ……ぅ…………」
ゴスロリ衣装の少女がうっすらと目を開き、俺のほうに手を伸ばしてくる。
それを見た瞬間、俺の背筋にぞくりと悪寒が走った。彼女の両目は先ほど見た屍鬼のものと同じく、血のように真っ赤な色をしていたからだ。
いくら世界には様々な目の色をした人種がいるとはいえ、こんな真紅の瞳はカラコンでも入れない限りありえない。そしてなにより、わずかに開いた彼女の口の両端からは、八重歯と呼ぶには長すぎる二本の牙が伸びている。
ここから導き出される結論は、つまり――
「も、もしかして……お前がアリシアさんの追ってた吸血鬼か!?」
「た…………たす……けて…………。このままでは……本当に死んでしまう…………」
真紅の瞳をした少女は震える手をさらに伸ばし、消え入りそうな声で救いを求めてきた。
まさか、件の吸血鬼とやらが女だったとは。
普通ならすぐさま助け起こすか救急車を呼ぶところだが、相手が人の血を吸う化物とあってはそうもいかない。
「や、やなこった! なんで俺が死にかけた吸血鬼なんか助けなきゃいけないんだ」
俺はあわてて左後方に手を伸ばし、すでに閉まっていたエレベーターのドアを開けるためのボタンを探した。
この吸血鬼、ここまで弱っているなら俺が逃げても追ってくることはできないはずだ。すぐにアリシアさんを呼んでくれば、きっと適切な方法でこいつにとどめを刺してくれるに違いない。
「ま、待って……。僕はまだ……死にたくない…………。お願いだ…………血を……きみの血を吸わせて…………」
「はぁ!? お前に血を吸われたら屍鬼とかいうバケモンになっちまうんだろ。それが分かってて、誰が血なんか吸わせるか!」
「そ……それは血を吸い尽くした場合の話だ。死ぬまで血を吸わないよう気をつけさえすれば……屍鬼になることはない……」
「そんなの信じられるかよ。実際お前はさっき一人の神父を屍鬼にして、関係ない一般人を襲わせたんだろうが」
「ち、違う……あれはあの場から逃げるために仕方なく…………。あの屍鬼が人を襲ったのも、僕が命令したわけじゃない……」
吸血鬼の少女は端正な顔を歪め、胸元のあたりを押さえて苦しんでいる。
黒いドレスを着ているせいで今まで気づかなかったが、よく見れば少女の胸にはナイフで刺されたような傷があった。彼女が今まさに死の淵にいるのは、どうやらあそこからの出血が原因らしい。
「た、頼む少年……。僕は死ぬこと自体が怖いんじゃない……こんな死に方をするのが嫌なだけなんだ…………。僕はただ……愛する人に看取られて死にたいだけなんだ…………」
少女の赤い瞳から、それと同じ色の涙がポロポロとこぼれる。
それを見たとき、俺の心に自分でも信じられないような感情が湧き上がった。
「……本当に、俺を殺したりはしないか?」
「…………?」
自分でもなにを言っているんだと思わなくはない。だが、俺はなぜか彼女がかわいそうだと思った。彼女を可愛いと思った。彼女を助けてやりたいと思った。
どうしてそんなふうに思ったのかは自分でもよく分からない。もしかすると、俺は吸血鬼の瞳が持つという魅了の魔力にでも操られてしまったのだろうか。
ただ、彼女の“愛する人に看取られて死にたい”という言葉は本当のような気がした。
「俺とお前、どっちも死なずにすむギリギリの量までなら血を吸わせてやってもいい。だけど万が一にも屍鬼なんてものにされちゃたまらないからな。絶対に俺を殺したりしないか、約束できるかって聞いてるんだよ」
「や、約束する……。絶対にきみを殺したり……屍鬼にしたりはしない…………。もしも生き延びることができたなら……僕にできる限りの礼もしよう…………」
「いらねーよそんなの。ほら、ここからでも血は吸えるか?」
俺はそう言いながら血まみれの床に倒れていた少女を抱き起こし、彼女の前に自分の手首を差し出してやった。
人間と同じ姿をした者に血を吸われるなんて少し恐ろしくもあるが、この娘を助けてやることにしたからには覚悟を決めよう。
「お、恩に着るよ少年。きみの……きみの名前は……?」
「光輝。如月光輝だ」
「ミツキ……ありがとう。きみがしてくれたことは、けっして忘れないよ……」
吸血鬼の少女はそう言うと、小さな口を開いて俺の手首にかぷりと噛みついた。想像していたのとはまるで違う、キスのように優しい甘噛みなのがなんだか可愛い。
鋭い牙が皮膚を突き破るのだからかなり痛いのかと思ったが、注射針でちくりと刺されるほどの痛みもなかった。それどころか、
「ふぉあっ!?」
俺の背筋から頭のてっぺんにかけて、突然すさまじい快感が走った。まるで小学生の頃に初めて射精したときのような、ぞくりとする感覚だ。
「うぁ……ぁぁ…………!」
「ふふ、気持ちいいかい? 僕たち吸血鬼という種族にとって、これは食餌であると同時に性行為でもあるからね。けど、その快感は人間同士のそれより何倍も大きいらしいよ」
少女が俺の手首に舌を這わせながら囁きかけてくるが、内容がほとんど頭に入ってこない。彼女の声は耳に届いているはずなのに、脳がそれをきちんと処理できていないのだ。
ちゅうちゅうと音を立てて吸い出されていく血の代わりに、理性を蕩けさせるなにかを腕から流し込まれているようだった。
「くぅ…………ぅ…………」
頭の中が真っ白になり、だんだん何も考えられなくなっていく。
ヤバい、そろそろこいつを止めないと――
「や、やめろ…………もう…………」
「ん…………もう少し……もう少しだけ…………」
ついさっきまで老人のように弱々しかった少女の手は、いつの間にかものすごい力で俺の腕を掴んでいた。
これが吸血鬼という怪物が持つ、本来の力なのだろうか? これでは仮に俺が全力で抵抗できたとしても、とても振りほどけるものじゃない。
「…………っぷはぁ…………」
少女がようやく俺の手首から口を放し、惚けたような顔で天を仰ぐ。
ついさっきまでは俺が彼女の体を支えてやっていたというのに、いつの間にか二人の体勢は逆になっていた。
「お、お前……俺を殺さないって言っただろ…………」
「大丈夫、僕はけっして約束を破ったりしない。このルイーズ・マリー・アンヌ・ヴェルレーヌの名にかけて、絶対にきみを死なせはしないよ」
初めて自分の名前を口にした少女が、優しく微笑みながら俺の額に頬を寄せてくる。
吸血鬼というよりは聖母のようなその表情に思わず心を奪われ、そのまま俺の意識は闇の中に溶けていった。
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