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04.新生 ~ラブホテルにて~
「……ぅ…………」
目が覚めると、俺は見たこともない場所にいた。
天井も壁も悪趣味な赤やピンクで彩られた、妙に艶めかしい雰囲気の部屋――ここはもしかして、ラブホテルというやつだろうか?
どうやら俺はベッドに寝かされているらしいが、まだ頭がボーっとしている。おまけに体にもまるで力が入らず、起き上がることさえできない。
おそらく血を失いすぎたせいで貧血を起こしているのだろう。あの吸血鬼、俺を殺さないという約束だけは守ってくれたようだが……。
「…………っ!」
顔だけでも起こそうと下を向いた拍子に、俺は思わず息をのんだ。なにか妙な感じがすると思ったら、いつの間にか下着以外の服が全て脱がされている。
泥酔した人間が好きでもない相手と一夜の過ちを犯す……というのはよく耳にする話だが、意識を失う直前の状況から考えてそれはない。だとすれば、俺はどうしてこんな格好をしているんだ?
「おや、気がついたようだね」
ふと声のしたほうに顔だけを向けると、そこにはさっき出会った吸血鬼の少女がいた。すっかり元気になったようで、白すぎて病的なほどだった肌までがどこが艶めいている。
驚いたことに、少女の胸にあったはずの刺し傷は跡形もなく消えてしまっていた。それがすぐにわかったのは、彼女が下着どころかなにも身に着けていなかったからだ。
「お、お前……なんて格好してんだよ」
「ああ、これかい? きみの服も僕の服も血でずいぶん汚れていたから、今はお湯に浸してシミ抜きをしているんだよ。ちゃんとした洗剤がないから完全には落ちないと思うが、とりあえず人前に出られるようにはなるだろう」
吸血鬼の少女はガラス張りになった壁の前に立ち、その向こうにあるバスタブの中を覗き込んでいる。
バスルームがあんなふうに外から丸見えということは、やはりここはいかがわしい感じのホテルなのだろう。実際に来たのは初めてだが、目の前に裸の少女がいるせいもあって妙に緊張してしまう。
「さて、落ち着いたところで自己紹介をさせてもらおうか。一応さっきも名乗ったんだが、きみは気を失ってしまったので覚えていないだろう?」
少女は丸いベッドの上に腰を下ろすと、まるでヌードモデルのように正座をくずしたポーズで俺に話しかけてきた。
この体勢だと下半身のほうはともかく、絶妙な大きさと美しい形をした二つの膨らみは丸見えだ。こっちが恥ずかしくなって思わず視線をそらしたが、彼女は男に裸を見られても気にならないんだろうか?
「あ、ああ。なんか長ったらしい名前を言ってた気はするけど……」
「僕の名はルイーズ・マリー・アンヌ・ヴェルレーヌ。誇り高きポール・アズナヴールの血統に連なる吸血鬼だ。日本人のきみには呼びにくいだろうから、ルイーズかマリーで構わないよ」
ルイーズ・マリー・アンヌ……なるほど、確かにちょっと仰々しい名前だな。
それに日本人はLとRの発音を使い分けるのが下手だとよく言われるから、ここはお言葉に甘えてLを使わないほうで呼ばせてもらおう。
「わかった、じゃあマリーで」
「きみの名前は、確かミツキ・キサラギだったね。漢字だとどう書くんだい?」
「苗字は“月の如く”と書いて如月、名前は“光り輝く”で光輝だよ」
「ほう、素晴らしいな。月の如く光り輝く……まさに闇の眷属にふさわしい名前だ」
おいおい、誰が闇の眷属だ。中二病をこじらせた子供じゃあるまいし。
それに一番気になるのは、彼女の名前なんかよりも今の状況だ。まずは俺が意識を失ってからのことを聞かせてもらわないと。
「なあマリー、俺はお前に血を吸われて……それからどうなったんだ? ここはどこかのラブホみたいだけど、お前が俺をここまで運んできてくれたのか」
「ああ、命の恩人をあんなところに放っておくわけにはいかないからね。とはいえあのままの姿で街中を歩くわけにもいかないから、ここに着くまでは電柱やビルの上をぴょんぴょんと跳んできた」
「そうか……けど、よく入れてもらえたな。いくらこの手のホテルでも、全身血まみれのカップルなんて普通ならお断りだろうに」
「きみが血をくれたおかげで少しは力が戻ったからね。フロントにいた小娘にはちょっと催眠術をかけてやったのさ」
なるほど、ようやく事情がのみ込めてきた。
確かにマリーの言うとおり、あんな格好のまま街をうろついていたらすぐに警察へ通報されてしまう。そうでなくても最近は誰もがSNSで情報を発信できるのだから、写真一枚撮られただけで後々どんな騒ぎになるか分からない。
ましてや彼女は自分を狩ろうとする連中から狙われていたのだから、できればあまり目立たないよう、普通に歩いて帰りたいだろう。その点ここなら服だけでなく髪や体も洗うことができるし、身なりを整えつつ一休みするにはいい場所だ。
「そういえば、俺のスポーツバッグはどうした? 中に着替えが入ってるから、できればズボンだけでも穿きたいんだけど……」
「きみの荷物ならちゃんと持ってきてあるよ。けど、今はそのままの格好でいたほうがいいな」
「な、なんでだよ?」
「うーん、それを説明している暇はないなぁ。もうすぐ始まる頃だろうから、そろそろ準備を始めないと」
「もうすぐ始まるって、いったいなんのことだよ。それに準備って……」
「大丈夫、心配しなくてもすぐにわかるさ」
マリーはそう言いながらこちらへ寄ってきて、まるで赤ん坊を抱っこするように俺の体をひょいと持ち上げた。それも力を入れた様子など一切なく、二本の腕だけで軽々とだ。
「うわっ?」
「こら、動かないでくれ。いくら僕が力持ちでも、これだけ身長差があるとさすがに抱えにくい」
こちらが吸血鬼の怪力に唖然としている間にも、マリーは俺を抱えたままバスルームのほうへと歩いていく。
六畳ぐらいありそうな広いバスルームの中には、入ってすぐ右の壁にもう一つドアがあった。隣に洗面台が設置されているところからみて、おそらくここはトイレだろう。
「さて、と……」
マリーが板チョコのような形をした白いドアを開くと、そこはやはりトイレだった。その時点でなにか嫌な予感がしたが、糸の切れた操り人形みたいになっている今の俺にはどうすることもできない。
そして俺は便器の前に立たされ、唯一の着衣であるパンツまでも下ろされてしまった。
「おぉぅ……きみ、なかなかすごいモノを持っているな。私も今まで何度か目にすることはあったが、これほど立派なものを見るのは初めてだぞ」
「だぁぁっ!? な、なにする気だおい!」
「ふふふ、恥ずかしがることはない。こう見えて僕は五百年以上も生きているんだよ。二度の世界大戦の頃は看護婦として働いていたこともあるから、男の裸なんて見慣れている」
「ご、五百年?」
今日は地下鉄を降りてから色々と驚くことばかりだったが、正直これが一番驚いた。
まだ少し幼さの残る顔立ちを見る限り、彼女はきっと年下だと思っていたのに。実際は俺よりはるかに年上どころか、十六世紀から生きているというのだ。
吸血鬼が不老不死だというのは小説や映画などで知っていたが、まさかそんなに長く生きているやつがいるとは思いもしなかった。
「うぐっ!?」
そのとき、不意に俺の顎がメキメキと音を立てて軋みだした。さらに筋肉や血管が皮膚の下で蛇のようにのたうち、腹がゴロゴロと鳴り始める。
「な、なんだこれ……?」
「始まったようだね。人間から吸血鬼に転化する過程で、肉体が余分なものを全て排出しようとしているんだよ」
「き……吸血鬼に転化だと? お前、俺になにを……」
「話は後にしよう。きみも色々なものをぶちまける姿を女性に見られたくはないだろう? 僕は外に出ているから、終わったら呼びなさい」
マリーはそう言って、絹糸みたいな髪をさらりと翻しつつトイレから出ていってしまった。そしてドアが閉められた、次の瞬間――
「――――っっ!」
俺が便座の上にへたり込むのと同時に、あらゆるものが便器に向かってぶちまけられた。
まず夕食に食べたラーメンと唐揚げが口から吐き出され、さらに膀胱と腸に溜まっていたものが一気に排泄される。
「っが…………ぁぁぁ…………!」
続いて顎の痛みがいっそう激しくなり、食いしばっていた上下の歯がぐらつきだした。そして痛みに耐えかねて口を開いたとたん、なにかに押し出されるようにボロボロと抜け落ちていく。
この歳で総入れ歯にしなきゃいけないのかと一瞬ゾッとしたが、すぐにその心配はないことが分かった。抜けてしまった歯の下から、新しい歯がものすごい勢いで生えてきたのだ。
あっという間に全ての歯が生え変わり、しかも左右の犬歯は刃物のような鋭い牙に変化していた。まるでサメにでもなった気分だが、犬歯の先が下唇に当たってちょっと痛い。
「…………っはぁ…………はぁ…………」
ようやく体の変化が治まった後も、俺はしばらく便器に座ったままぐったりとしていた。
これでもう、全てが終わったのだろうか? 全身を包んでいた倦怠感は少しだけ薄れたものの、頭の中にかかった霧のようなものはまだ晴れない。
備えつけの紙で尻を拭ってなんとかパンツだけは穿き直したが、それさえかなりの重労働だった。
「よかった、どうやらちゃんと転化することができたみたいだね」
ほとんど力の入らない体を引きずるようにしてトイレから出てくると、すぐ目の前にマリーがいた。言われたとおりに呼んだわけではなかったのだが、俺が水を流した音で頃合いだと判断したのだろう。
「おい、この牙はなんなんだよ。まさかお前……」
「そう、きみは僕と同じ吸血鬼になったんだよ。きみが気を失っている間に、僕の血をほんの数滴だけ飲ませたんだ」
「なっ!?」
「この儀式は『闇の口づけ』といってね。そうやってお互いの血を交換することで、人間を吸血鬼に転化させることができる」
「そんなことは聞いてねえよ! いったいどうしてそんな真似を……!」
俺は思わず声を荒げ、床に這いつくばったままマリーに掴みかかっていた。
そりゃそうだろう、どこかの悪の組織に捕まって改造人間にされた特撮ヒーローじゃあるまいし。気絶している間に吸血鬼にされていたなんて、そう簡単に受け入れられるものか。
「うん、きみの言いたいことはよくわかるよ。だけどきみとの約束を守るためにはこうするしかなかったんだ」
「俺との約束……だと?」
マリーがその場で赦しを請うようにひざまずき、両手で俺の頬を包み込むようにして語りかけてくる。
「本来ならどれほど感謝しても足りないはずのきみに対して、本当にすまないことをしたと思っている。僕のことをどれだけ責めても構わないが、それだけは信じてくれ」
「…………」
マリーの口調は小さな子供に言い聞かせる母親のようでもあるが、その表情は神妙そのものだ。この真剣な眼差しを見る限り、彼女が俺に悪いことをしたと思っているのは本当らしい。
吸血鬼などという化物にされてしまったことに納得したわけではないが、俺はとりあえず彼女の言い分だけでも聞いてやることにした。
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