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05.長生者《エルダー》の血は蜜の味
俺は先ほどと同じようにマリーに抱えられ、再びベッドへと運ばれていった。本当は自分の足で歩きたかったが、まだ立つことさえままならないので仕方がない。
そしてマリーは先ほどと同じような体勢で俺の前に座ると、細長い指で自分の胸元をさしてみせた。
「覚えているかい? ここはきみと出会ったとき、僕が血を流していたところだ」
「ああ、覚えてるよ。かなりざっくりと刺されてたはずだけど、吸血鬼ってのはそんなに早く傷が治るんだな」
「普通の武器によるものならね。だけど今回の場合はそうじゃなかった」
「……?」
「あの傷は僕が屍鬼にした神父にナイフでつけられたものだが、やつら『討魔教会』の連中が使う武器は銀でメッキされているんだよ。きみは知らないかもしれないが、銀は僕たち吸血鬼にとって最大の弱点なんだ」
「銀? 吸血鬼の弱点って、普通は太陽とか十字架じゃないのかよ」
俺は今までに映画や小説などで見たことのある吸血鬼の知識から、思わずそう聞き返していた。
「吸血鬼の能力や弱点というのは、その血統によって様々でね。太陽の光を浴びると灰になってしまう者もいれば、陽の出ている間は人間と同じくらいの力しか出せないというだけの者もいる」
「ええっ、同じ種族でもそんなに差があるのか?」
「そうだよ。ましてや十字架なんて、転化する前にカトリックだった吸血鬼の中には恐れるやつもいる、という程度のものさ」
「マジかよ……」
吸血鬼というのは一般的に知られているだけでもかなり弱点の多い怪物だが、その中でも太陽と十字架は特に有名なものだ。なのにそれらが効かないやつもいるなんて、ちょっとインチキ臭いような気もする。
というより、本物の吸血鬼というやつは俺が考えていたものとずいぶんかけ離れているようだ。これは今のうちにしっかりチュートリアルを受けておかないと、後で命に関わるような間違いをやらかすかもしれない。
「ちなみに僕の血統も太陽にはそれほど弱くないから、きみもすぐに日中でも外を歩けるようになるよ。体が慣れるまで一ヵ月ぐらいは外出を控えたほうがいいと思うけど、人間だった頃と比べてそれほど不便はないはずだから安心するといい」
「なんだ、それじゃ今までと変わらずに生活できるんだな。もう一生日の出が見られないのかと思ったよ」
太陽を恐れる必要はないと聞かされて、俺は少しだけ落ち着きを取り戻すことができた。そもそも吸血鬼なんてものにされて俺がなにより不安だったのは、今までの生活がどう変わってしまうのかということなのだ。
「伝承にある吸血鬼の弱点には、教会の連中が自分たちを権威づけるためにでっち上げた迷信も多いからね。聖水や聖餅なんてその最たるものだし、そもそも心臓に杭なんか打ち込まれたら吸血鬼でなくても死ぬだろう?」
「まあ……そりゃそうだな」
「流水やニンニクの花が苦手だなんて話もあるが、それもそういう血統に属する者でなければ気にする必要はないものばかりだよ。だが一つだけ、あらゆる血統の吸血鬼に共通した弱点がある……それが銀だ」
「そういえば、俺が出会った修道女のお姉さんもそんなこと言ってたな。銀の弾丸がどうとか……」
俺は先ほどアリシアさんに撃たれ、灰になった屍鬼のことを思い出していた。今にして思えば、あれこそまさに太陽に焼かれた吸血鬼のような死に様だった気がする。
「吸血鬼は銀製のものに触れただけで皮膚が焼けただれるし、銀の武器でつけられた傷を治すには大量の血を吸って治癒力を高めるしかない。だから僕は一か八かの賭けであの神父の血を吸い尽くしたんだが……」
「それでも傷を完全に塞ぐには足りなかったのか?」
「うん、そうなんだ。それにきみが来てくれるまでの間にも、僕はあまりに多くの血を流しすぎていた。きみの血を致死量ギリギリまで吸わせてもらっても、まだ命の危機を脱するには至らなかったんだよ」
そう言いながら、マリーはまた傷のあったところに手を当てて軽くうつむいた。
「なんとなく話が見えてきたよ。つまりお前はあのとき、俺との約束を破って自分だけが助かるか、それとも生きるのを諦めて死を選ぶかって状況だったんだな」
「察しがいいね、まさにそのとおりだ」
「でも俺たちは今、こうして二人とも生きてる。ってことは、お前はそのどちらでもない、第三の選択をしたってことだよな? 俺を吸血鬼にしたのもそれに関係がある……というより、それ自体が第三の選択か」
「人間は体内にある血の半分を失うと死んでしまうけど、吸血鬼の生命力ならそれでもなんとか生きていられるからね。まず僕が自分の傷を完治させてから、きみが死んでしまう前に吸血鬼へと転化させる……あの状況で二人がともに助かるには、それ以外に方法がなかった」
「でもさ、結局それって人間としての俺は死んじまってるってことじゃねえのかよ?」
「……そうだね。確かに屍鬼にせよ吸血鬼にせよ、根本的には同じ『歩く死者』にすぎない。これではきみに責められてもしょうがないって、僕自身もわかっている……」
俺が少しきつめの口調で問いかけると、マリーは心底申しわけなさそうな顔でそう言った。
ちょっと意地の悪い言い方だったろうか? 誰だって生きるか死ぬかの状況なら自分の身が可愛いものだし、こいつはそんな中でも自分が考えうる最善の方法を選んでくれたはずなのに。
「……もう一つ聞くけど、こうなったのはあくまでお前自身が思ってた以上に傷が深かったからであって、最初から俺を吸血鬼にするつもりだったわけじゃないんだよな?」
「ああ、それについては僕の命にかけて誓ってもいい。本来なら闇の口づけは双方の合意の下に交わすというのが、僕たち吸血鬼の間で長きにわたって伝えられている掟なんだ」
ふぅん、そんな掟があるのか。しかし……それなら彼女を恨んだりするのは筋違いかもしれないな。
そもそもこいつを助けてやろうと決めたのは、他の誰でもない俺自身だ。
俺がこの娘の流した涙に同情して、自分から血を吸ってもいいと言ったのだ。
他人の生き死にを左右するようなことに自分から関わっておいて、望まない結果になったからといって文句を言うぐらいなら、最初から手なんか差し伸べなければいい。
「……わかった、もういいよ」
「えっ?」
「お前、俺をなんとか生かすために闇の口づけとやらをしてくれたんだろ? その気になれば自分だけが助かって、後は俺を屍鬼にしたまま放っておいてもよかったのに」
「う、うん」
「だったらいいさ。肝心のお前が助からなきゃ、せっかく俺が分けてやった血もそれこそ無駄になってたわけだし。吸血鬼の体ってのも想像してたほどのデメリットはないみたいだからな」
「ありがとうミツキ……。血を吸わせてもらう前にも言ったが、僕は命を救ってくれたきみの恩を絶対に忘れないよ」
マリーが胸の前で両手をぎゅっと握り締め、祈りを捧げるように目を閉じる。
うーん、あらためて見るとめちゃくちゃ可愛いなこの吸血鬼。さすがは中世から生きている淑女というべきか、こういう仕草の中になんともいえない気品があって、すごく魅力的に見える。
そういえば、海外には“品性のない美しさは針のついてない餌と同じで、男を惹きつけはするが繋ぎ止めることはできない”なんて言葉があるという。そういう意味では、俺は最初からこの娘に釣られてしまっていたのかもしれない。
「でも、これって本当に大丈夫なのか? 今日からきみは吸血鬼だなんて言われてもまるで実感がないし、体はなんかだるいままだぞ」
とりあえず今の状況に納得がいったところで、俺は先ほどから気になっていたことを訊ねてみた。
実際のところ、俺の体にはさっきのような変化が起こった後もずっと力が入らないままだ。
俺の中では吸血鬼というと鉄棒をひん曲げたりできるイメージがあるのに、これでは自分がそんな怪物になってしまったとは到底思えない。
「普通は転化すると全身に力がみなぎってくるものなんだが、きみはその前に大量の血を失っていたからね。言うなれば今は吸血鬼として瀕死の状態なんだ。血を吸えば体の調子は元に戻るし、吸血鬼本来の力も出せるようになるよ」
マリーはこういった事例にも詳しいのか、あっさりと俺の疑問に答えてくれた。
なるほど、吸血鬼になったからにはまず血で栄養を補給しなきゃいけないってことか。
「そういえば、お前らいつもどうやって人間から血を吸ってるんだ? 俺は女の子をナンパした経験なんかないし、かといって男の首筋に噛みつくなんて考えたくもないぞ。それとも病院から輸血用の血液パックでも盗んでこいってか」
「僕の血統は催眠術が使えるから、その能力が覚醒すればきみも適当な異性を誘惑できるようになるはずだよ。といっても、血を吸う相手は別に人間でなくてもいいんだ。僕なんかはいつも近所の猫に血をもらっているからね」
「ね、猫ぉ?」
「まあ、その手のことも心配しなくていい。きみが吸血鬼として一人立ちできるようになるまでは、闇の母であるこの僕が責任を持って面倒を見てあげるさ。それもまた吸血鬼の掟だけど、たとえそんなものがなかったとしてもね」
「うーん……それならいいか」
「とりあえず今は僕の血を吸うといい。転化したばかりの新生者には強力すぎるから本当は控えるべきなんだが、少しだけなら弱った体を回復させるのにちょうどいいだろう」
マリーがそう言いながら、ベッドに横たわった俺の上にまたがってくる。そして彼女が刃物のように尖った爪で自分の指先を引っ掻くと、そこから玉のような血がじわりとあふれ出した。
「さあ、飲みなさい。これがきみにとって、吸血鬼としての新たな生を受ける瞬間だ」
「…………」
「なんだ、恥ずかしがっているのかい? なんなら闇の母らしく、おっぱいから血を吸わせてあげようか」
マリーがいたずらっぽく笑い、年上らしく俺をからかおうとする。俺に赦されたことで気が楽になったせいもあるのだろうが、もしかするとこれが彼女本来の性格なのかもしれない。
しかし俺がマリーの指に口をつけるのを一瞬ためらったのは、恥ずかしさからではなく驚きによるものだった。彼女の指先から滴るものを目にしたとたん、視界の全てがその血と同じ色に染まったのである。
「――――っっ!」
次の瞬間、俺は餌に飛びつく池の鯉みたいにマリーの指を口に含んでいた。
嫌悪感などまるで感じない。ただ獣じみた衝動に駆られ、本能的に体が動いたのだ。
「あんっっ♪」
それと同時にマリーが色っぽい声を上げ、ぶるりと体を震わせる。
きっと俺が彼女に血を吸われたときと同じように、全身に快感が走ったのだろう。もしかすると、吸血鬼の牙や唾液にはなんらかの催淫作用があるのかもしれない。
また人間は吐血したときに自分の血で溺れないよう、血液の味には生理的に吐き気をもよおすようになっているという。だが吸血鬼になったことで味覚も変わったのか、今の俺には舌に絡むマリーの血がハチミツのように甘く感じられた。
(な、なんだ……?)
そのとき、突然俺の脳裏に妙な光景が浮かんできた。
自分の人生では目にしたことのない、中世から近世までのヨーロッパらしき風景。そしてそこで繰り広げられてきた、人々の営みや戦争の歴史。これは……マリーの記憶か?
まるで他人の夢を覗き見ているような感覚だが、映像は断片的でそれ自体が意味を成してはいない。むしろマリーがそのとき何を感じていたかという、彼女の心そのものといった感じだ。
俺はそれに触れたことで、一瞬のうちにマリーのことを深く理解できるようになっていた。彼女がなにを好み、なにを嫌い、どんなことで喜び、どんなことに怒りを感じるのか――マリーとは出会ったばかりのはずなのに、そういったことが何十年も共に生きた家族のようにわかる。
「お、おいミツキ、それぐらいにしておきなさい。百年以上を生きた長生者の血をそんなに飲んだら……きみがきみでなくなってしまうぞ」
マリーが耳元で息を荒くしながらそう忠告してくれたが、俺はなぜか彼女の指に吸いつくのをやめられなかった。
人間は睡眠中に夢を見ているときも、それが夢だと気づかなければ自分の行動をコントロールできないことがある。まるで他人が自分の体だけを動かしているかのように、おかしな状況でもただ流されるままに受け入れてしまうのだ。
今の俺の状態もまた、そんな夢見心地とでもいうべきものだった。頭の中にかかった赤い霧のようなものが、俺の視界や意識そのものをぼんやりと覆っている。
「んっ…………あ…………んふぅっ……!」
俺がマリーの血を吸いはじめてから、どれだけ時間が経っただろうか。実際にはせいぜい二~三分なのかもしれないが、彼女はその間ずっと俺の上で身をくねらせ、指先から送り込まれてくる快楽に悶えている。
ぱっと見には十代前半としか思えない少女、それもとびきりの美少女が目の前でこんな痴態を晒していたら、健全な男子であれば興奮するなというほうが無理な話だ。
そして俺はいつしかマリーの体をベッドに組み伏せ、彼女に覆い被さるようにしてその血を貪っていた。
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