結婚(冒頭)

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ

結婚(冒頭)

b0dafc7b-00f0-4700-9e29-850d1b62bebc 君子の心 「私が大切にしているものは、結局一つじゃないのかなって……思うのだが……」 心の中で思っていたつもりが声に出ていた。私の話し方に慣れているゆきはすかさず指摘してくれる。 「思うのだが、ってなんでそこだけナレーション風っていうか、きみちゃんはおじさんみたいな言い方なの?」 「そうやって、一つ頼みに生きながらえるのはどうなんだ……」 「だから、なんでおじさんっぽいのよぉ」 「私はこれでも真剣に考えているんだよ」 「例えば、そのグラスの底でくしゃくしゃになっているミントが今の私で、動けないの。ゆきがストローでほじくってあげないとミントは動けないでしょう」と言いながら、私は目の前のゆきのかわいさに感動している。この冷静さが大事なんだ。私がまとまらない事を言って、ゆきが笑ったり戸惑ったりしている表情を見ている時間が好き。私は長い間太ももの下敷きになっていた人差し指と中指を引き抜き、ゆきの笑顔見たさにティースプーンをつまみ上げて軽く振り回す。指からスプーンがすっぽ抜けてゆきの顔へ飛んで行くかもしれないが、不思議そうに目を丸くする表情見たさについやってしまう。 「子供っていうのが、全然想像できないんだよね。ショッピングモールの子供服のコーナーにベイビー・マタニティって書いてあるけど、何のことって感じ。私の体からひゅーいさんと私の遺伝子が半分ずつ入った子供が出てくるなんておかしくない?外で親子を見る度に、私には無理って思う。私はランナーを追いかけてる中継車みたいなもんでさ……」 「そういうとこがだめなんだよ」  ゆきの声に驚いたと同時に、否定されたショックをごまかすための冗談が浮かぶ。 「このままだと、私は中継車と霊柩車にしか乗れないかもしれない……」 「……」 「ごめん、つまんないこと言いました」 「そういう話は、ひゅーいさんとするの?」 「しない」 「なに喋るの?」 「んー、基本無音かな」 「うっそだー、それはまずいんじゃ」  ひゅーいの話題になると頭がぎゅっと締め付けられる。顔に出たら雰囲気が悪くなってしまうから話題を変えるために、ゆきの黒いツインテールの両脇に広がる青黒いガラスウォールを見る。最近建て替えられた墓石型の超高層ビルは、墓石の土台に当たる低層部が百貨店のようなフロアで、中・上層部はテナントオフィスやホテルが入居している。一階は歩道に面して間口の広いショーウィンドウのようになっており、春物のコートを着せられて照明に照らされたマネキンたちと、ショーウィンドウの背後に広がるマネキンたちの陰が重なり合っていた。今私とゆきがいる向かいの三階のカフェから見下ろすように見ると、マネキンと陰マネキンの怪しい群衆のようになっている。私にはその事がおかしく思えて、また下らないことが浮かんでしまう。 「あのマネキンを裸にして、ヴィレバンの入口に置いて、黒ペンで書いたポップに『商品名ひゅーいさん オプションで黒ごまクリーム味を追加することも可!』って書いてあったら面白いかな」 「いやぁ面白くないよ。クリームは何に使うの?」 「それは買った人次第だね。ゆきは私が面白いのを認めたくないからそういうこと言っちゃうんだよね」  ゆきは恥ずかしそうに顔をしかめたあと、窓の向こうの雲をわざと眺めている風に見つめた。真面目に話せということなのだろう。 ――参ったな、今日は調子が出ない。ゆきが笑える冗談を提供したいのに上手くいかない。私は冷静にふざけて、笑うゆきを見たいのに、真面目に返されたらふざける余地がなくなってしまう。 「ひゅーいさんの背中の影は黒ごまクリーム味だよん」とこっそり小声で呟くとゆきが「おいしそうだね」と言った。 ――ちょっと怒ってる。じゃあ、真面目に話してもいい?でも、ゆきには重すぎるかもしれない。 「ごめん、ふざけすぎた。でもまんざらでもないと思う。二十代後半の男の人の背中ってそういう匂いしてそうじゃない?」 「ちょっとおいしそう過ぎると思うけど」 「想像してみて、新品のズボンとかTシャツってなんとなく甘いにおいがするでしょ?そういう匂いに似ているの。お風呂上がりで石鹸と浴槽のお湯と買いたての部屋着のにおいが合わさって黒ごまクリームのにおい」 「言われてみればそんな気もするけど……」 「ゆきはかわいいけど、その分知らないことが多いんだよ。私を見習って色んな目線を身に着けておくと視野が広がるよ」と言って私はスプーンを前歯にはさんで上下に動かした。 「きみちゃんみたいになりたいとは思わないよ。今のを聞いただけで私、しばらくごまクリーム食べたくないし、さっきのおじさん風の声も街で聞いたら逃げると思う」 「抵抗のある内が正常よ。でもゆきはもうディズニーランドのお菓子の缶を全部集められなくなるね」 「どうして?」 「だって、缶に入った黒ごま味のおかしが一つくらいはあるんじゃない?」 「やばいじゃん!」  ゆきが驚いた声に私も驚いてしまい、噛んでいたスプーンがはじけるように飛び出し、ピラミッドのように盛られていた角砂糖が何個かはじけ飛んで、一つはゆきの膝の方にまで転がっていった。 「あーあ、この子はこんなところまで来ちゃったよ」 「ごめんゆき」  調子に乗れていた自分が崩れていく。すぐに落ち込む自分を見られている恥ずかしさでゆきの顔が見れない。  私の太腿……が視界いっぱいにある。こんな頼りない足じゃなくて、しっかりと自分で歩いて物事を経験した人間になりたい。ひゅーいの足も胴体も顔も、何もかも私と似ていて平凡なんだよ。あぁ、もうすぐゆきともお別れなのかな。もうちょっと笑わせたかった。私はあと十秒したら元気になるから、待って。 「あのね」  でも折角一緒にいるのに十秒も黙っていたら駄目だ。何も考えていないのに話をふってしまった。 「こんなのよくあるし、気にしないできみちゃん」  ゆきってやさしい。でもそうじゃない。 「そうじゃなくて」 「なに?」 「このままじゃ、もっと愛したいって思ってる私の感情が、ゆきに向いてしまいそう……。クレープからはみ出た生クリームみたいに、ぶちゅって音と一緒に、私の感情が出てくるかもしれないよ」 「大丈夫だよ」 ――何が? 「きみちゃんは今、脱皮中だと思う」 「だっぴ?」 「そう。虫が成長する時にするやつ」 「だったら脱皮することに、意味はあるのかしら」 「ん……」 きっとゆきはこういう話題に答えられる領域を持っていない、あるいは持っていても私に見せてはくれない子なのだと思う。だから、私の言いたいことは抑え気味にして下らないこと……とやっても逆効果で、今みたいに本音が一度出たら、言い尽くすまで止まれなくなる。 「高校生の感情っていうか、そういう部分がまだあるんだろうね。通り過ぎていた十七歳の日々が今になって戻ろうとしているっていうか……昔に戻っていく脱皮だったらどうしよう」 「それはそれでいいんじゃないのかな。十七歳のままで」と言うと、ゆきは両目と唇を左右に伸ばして意地悪そうに笑った。 「目的がぼやけていっているの。最近、部屋がどんどん手狭に感じて、同じ空気吸うだけで息苦しい。目に見えてきそうなくらいの気配っていうか、そういう重たい空気がずっとある。何かに変化しないものかなと思って見ていたら家具とかがガーって迫ってくる。ゆきちゃん、私はどうすれば大人になれる。既にもういい大人なんだけどさ、次のステージに行くために何をすればいい?」 「ねぇ、きみちゃん」と、ゆきは私が一方的に話したのに、落ち着いた声で話してくれる。顔を上げると、ゆきが正面からこちらを見ていてどきっとした。大きな瞳と長いまつ毛の周りの肌は白目に負けないくらい白く、白と黒のコントラストがより一層ゆきの顔だちを際立たせていた。 「感情を、私に向けても大丈夫だし、冗談とか言わなくても十分面白いから、落ち込まないで」  あぁ、だからゆきは可愛過ぎるんだ。お人形のような子に慰められたら私はあっさり信じてしまう。 「ごちそうさま」 「え?」 「私はゆきの可愛さで元気になるよ」 「そんなにはっきり言わなくても……」  ゆきは私の暑苦しさに困って唇が内側へとめりこんでいっている。その様子も既にかわいい。これで良い。  私はコートを掴んで立ちあがった。ゆきの後ろに建つビルのガラスの色や、店の中でわずかに聞こえていた、ビルの傍の高速道路を走る車の音をしっかり覚えておこうと思う。ゆきはこのビルと音を背景に話していた。ゆきと一緒にいた時に私が感じていたもの。  私にはゆき以外に話せる相手がいないから、普通の女性がどういう風に友達を大切にしているのか知らないけど、周りがどうだろうと私はゆきのことを大切に思っている。お茶するしかないのかなと思うくらい。本当はもっと特別な行事をしたいのだけど、表現の仕方が分からない。ハグをするという選択肢もあるのだろうけど、帰り際になって急に抱き着くのは変だ。ゆきは彼氏でも妹でもないんだし、一方的な感情の実行を相手の体を使ってまでやってはいけない気がする。  ゆきといたい。過ごせる時間を大切にしたい。  それだけを別れ際に思って、何もせず別れてしまった。  そっと振り返ると、ゆきは下り坂の歩道を歩いている途中だった。スカートの丈は膝よりも上で、裾がぽわりと膨らんでいた。ゆきの健やかに膨らんだ頬や胸が、スカートのふくらみで、黒く長い髪は、光沢のある黒のローファーになって、かわいらしさが洋服と一致している。ゆきが歩道からタクシーを呼ぶような動きをしたので、私はそっと振り返って、坂の上にある自分のマンションに向かった。  家に帰ってもうすぐひゅーいに会うかもしれないとなると、だんだん頬が熱くなって、性格は明るくなっていく。清楚な大人の女性になろうとした努力が報われたのか、もうすぐ会うということを体が感じるだけで自動的にさっきの黒ゴマの話は忘れて明るい人格に変わっていく。 「炊飯器のふたを開けるみたいに、お互いの頭の中を見せ合うような会話をしないといけないんだよね。さらけだして、喋ろうよひゅーい。私の頭はね、意外と単純よ。いつでもギラギラしてる。変えたての電球たちが、ずらっと並んだピンボールみたいに明るいのよ」 そう考えていた時、歩道の脇にあった自販機と自販機の20センチ程の隙間にマネキンが二体押し込まれていた。顔は私とひゅーいさんになっていた。  マネキンは交差点を曲がっていく車がライトで照らしている間だけ見えた。隙間に挟まったまま動けないでいるマネキンが二体。怖くて、走り出した。頭の中にこびりついた映像は、汗ばんだ背中に張り付いて、シャツの襟あたりにマネキンの手の感触。 巨大な牛肉の赤身と、真っ白な脂身の川のように見えたコーラの自販機の側面にあれはいた。見てはいけないものだと体が察知し、忘れようとしても、既に記憶として脳の中に侵入されてしまったよう。新しい物質が私の頭に注入されて、脳は砂になり、それは歩道の縁石同士の隙間に流れ込む……。もっと遠くに逃げないと。  ガラスのドアを押し開けてマンションのロビーに入ると、外の空気や音から遮断されて一安心した。ひゅーいさん、帰ってるかな。 「ただいマーベラス」 「おかえりんご」  ひゅーいがいたことよりも、明るすぎる玄関と廊下では一つも陰が存在していないという事に初めて気づいた。マネキンなんかじゃないぞ私たちは。 「ひゅーいさん……」とドアノブを握った時に思いついたことを実践する。帰ってすぐにキスをするような間を演出。 「なんだい?」 「……」 「部屋の中でもチャックぐらい閉めて」 「あっ!」 「って閉まってるし」 「閉まってるかどうかくらい、常に自信持ってよ」 「どんな抜き打ちテストだよ」 ひゅーいの冴えないツッコみで会話は終了せざるを得ない。しかしこれはいつものこと。どうして今日は帰りが早かったのか、聞き出したらきりがないので聞かない。それに、何時に帰っているかを先に知ってしまうと折角変えた私の性格が元に戻ってしまうと思う。 「お風呂まだでしょ、一緒に入ろうか」  確かめたいことがある。ひゅーいの体のどこかがマネキン化していたら……と思うと、お風呂へ誘う勇気は大したことじゃない。  先に服を脱いでお風呂場の椅子に座って無防備な背中をさらしたひゅーい。そうだよね。マネキンみたいに関節にネジが入っていないよね。あぁ、こわかった。 「背中流してあげるよ」 「おぅ、ありがとう」 「うひひひ」と、私は言い、背中ではなく他の部位へ手を伸ばすふりをしたが、伸ばす前に指は折りたたまれた。  私達にとって決まりのようなものは、こんなところまでくればないはずなのに、いつまで経ってもありがとうと言うのはおかしいんじゃないか。無難な感じが退屈でからかい甲斐がない。 私は泡で埋め尽くされたひゅーいの背中に額を滑らせながら話しかける。 「さっき気付いたんだけどさ」 「ん?」 「ひゅーいさんのにおいってね、ここのフローリングのにおいに似ている気がするよ」と言いながら、鏡に映ったひゅーいの顔を覗いた。笑う少し手前のまま停止した聞き手らしい控えめな顔、その後ろにはひゅーいの首元に寄り掛かりながら三白眼にぎょろついた私の片目があった。 ――ものたりない なんでも自覚的にやってきた私は、自覚していないゆきの可愛さには敵わない。私は頭の中で四六時中鳴っている第三者的視点の自分で自分を操るしかない。あるいは、第三者的私を制限している第四者がいるのかもしれない。第四のそれは人ではなく、強いて言えば「もの」である気がする。私を取り囲むものたち。ティースプーン・浴室の椅子・自動販売機。私のことを見ている意識を持たないものたち。そのせいで、自由であるはずの私の無意識の領域が侵され、睡眠も会話も駅のホームを走っている時も、ものが私を実況中継している生活から逃れられない。「君子は苦悶の表情で駆け抜け、今にもドアが閉まりそうな準急に飛び乗ったのでした」「おっと君子選手が折りたたみ傘を地下鉄のトイレに忘れました。これでは予選敗退が決定……」 こんな面倒な根暗になってしまったのはものが私を囲むからで、もののせいにしないとやってられない。私は悪くない……。何日か前、ひゅーいにプロポーズ的な事をされて、指輪ももらったのに翌日にひゅーいが付けていなくて、曖昧な返事だった私も悪いかもしれないけど、つけないひゅーいに腹が立ったから私もつけてやるもんかと思っていたら、今度は婚姻届を書きたそうな雰囲気を出している。そういう人と暮らしているから友達との帰り際が寂しくて気持ちが不安定で、もののせいにしているだけなんだ。だから私は悪くない。ひゅーいが自分からはっきり言ってくるまで私は性格を変え損ねたふざけたお姉さんでいようと思う。  お風呂の後、私はベランダに出て手すりから顔を出し、下から舞い上がり、上の階へと流れていく風を吸って深呼吸をしていた。 ひゅーいって一体だれが付けた名前なんだろう。おそらく両親なのだろうけど、正直、間抜けな名前だと思う。しかし、それは名づけた親のせいではなく、ひゅーいという人がひゅーい以上になろうとしてこなかったせいじゃないの?と、私は偉そうに言える立場だろうか。言える、と思う。だって誰も知らない。このマンションの一室で行われていることを。私とひゅーいしかいないこの部屋の中では、私が彼の名前を間抜けとかカッコいいとか言っても、彼が傷つくか傷つかないかの違いしか生まれない。それは逆も同じで……。ずっと二人っきりになったことで、私が暴走するかもしれないきっかけを与えたということをひゅーいは分かっているのだろうか。ヒステリーは、もともと私がそうだったからではなくて、私の変化にひゅーいが気づかないから生まれたものであるということも……。 「そろそろ中に入ったら?」 「うん」  今日初めて聞いた自発的な言葉に従って部屋に入った。すると、またひゅーいが何か言った。 「あ、ティッシュ……」  寝室に置いてあるものが空になっていた。 「なくなっちゃったね」  早く背を向けて、何かの作業にかかって欲しい。会話のために会話をしてしまうと実況が始まる。「きみこ選手は今、ひゅーい二等兵を背後から押し倒そうと思案している模様です。携帯電話で誰かに相談するのでしょうか?今大会のルールでは携帯電話の使用は……」とひゅーいが向きを変え廊下へ移動したことで中継は終わった。 物置きにしまってあるペットボトルの水や紙類の予備をひゅーいが取り出す。  ここで押し倒して、両方の手の甲を床にたたきつけて、痛がろうがそのまま手首を押さえつけると仮定する。一度まじまじと見てみたい。いきなり背後から襲いかかってそのまま仰向けに倒れたひゅーいの顔。けれども、そんなことをしていいのは布団に入ってからで、廊下でやると私がおかしくなったと思われる。 ――だから、今がこの時だっていうのは分かってるんだ。ひゅーいさんがすり寄ってきた今、抱き寄せてあげればいいのにできない。ひゅーいさんは私の胸にあたっているかいなかのところに顔をおいてそれ以上近づいてこない。ここから先は私が首に手をまわして押しあててあげればいいのにできない。胸の隙間とひゅーいさんの鼻に細い空気の通り道ができる。 「ねぇ、こんな時だけ近づくなんてずるくない?」 「……」 「そこに理由なんてないって意味?」 「……」 ――ひゅーいさん、これからのあなたの行動や発言次第で、私があなたをどうするか決まる気がするのよ。私だって大していい人ではないけどね、でもこのままでは、そうなってしまうと思うの。何か話して。 「……」 「ひゅーいさん、こっち向いて。」 「ん?」 ――あ、返事した。 「きっと、私もあなたも、まだ子供なのよ」と私は言ったが会話は続かなかった、ひゅーいは暗闇の中でこちらを見て、沈黙によって会話を終わらせようとしていると思った。そうしたいのならそうすればいいと、私は抵抗することもなく、この言葉を言ってこの日の会話は終わった。 ――ねぇ、なんのために頑張って性格変えたと思っているの。もうちょっと反応してくれないと私も暗くなっちゃうよ。二人共暗くなったらさ、この家どうなるの。 仮に今、彼から反応があったとしても、彼と私だけでは限界が来る。私はひゅーいだけでなく、終わりのない安らぎを与えてくれる自分の子供という存在を求めている。そして、そのすぐそばにいつもいる母親ほど、私にとって誇り高いものはない。子を愛し、育てるという明確な人生の目的を安息と共に全うするという母親の側面を私は知っている。自分で自分の子供を産めるということ。その子供が常に、自分の傍で、同じ世界で生きているということの安らぎと誇りが羨ましい。 「……」 ――分かりました 生ゴミのガスのようなにおいが自分の頭の奥から漂い始める。同じもの、同じ部屋、同じテンション。ひゅーいに消費した勇気と、行動した後悔。壁やテーブルはルールの破壊を欲している。コップも冷蔵庫の中身も洗面器も下着も、ルールが壊される瞬間を見たいのに、一向に私たちが何もしないから、相当不機嫌な様子で暗闇から私たちを見ている。 「ねぇ、ひゅーいさん」 「えっ」 「何がえなのよ」  私は水で、彼を育ててあげているような存在だと思う。ひゅーいの頬を両手で触れ、自分の手のひらにある湿気を渡していく。ひゅーいは「あ」とだけ言って、頬に触れられていることを知覚する。次第に眠くなると、私の感情に終わりがなくなってくる。暗闇に慣れると意識が冴え、手を離さない。彼の頬はとっくに乾いて熱いくらいなのに、まだ何か、まだできることがあると思って、いつの間にか布団の中でひゅーいの上に乗っている。べったり胴体を突き合わせて、きっとひゅーいは苦しいはずなのに動かない。真上から見るひゅーいの顔はよく見えずシーツに浮かぶ黒い島のよう。ひゅーいは時々寝言なのか、リアクションの声なのか分からない変な声を出す。えっと、ひゅーいは……。 でもなんだかんだ言って嫌いじゃない。湿気の分け応えのある冷たさと暗さを持つこの人は、私を無意識に肯定しているのかもしれない。そろそろ眠りに入る直前という頃、私は自分でも気持ち悪いと思う程、優しい人になる。たとえ一瞬でも暗い性格に戻ってしまったら全部あなたの責任だと言ってやりたい感情の向こうには、私を優しい人間にさせてくれる何かがある。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!