本能の揺りかご

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本能の揺りかご

 まだ夜も明けきらぬというほどの早い時刻だった。暗い王宮の野外を、国王アウレリアが静かに駆けていく。  かなりの軽装で、バスケットを両手でひとつ抱えている以外に目立つ部分は何もない。護衛の供もいない。いや、ただ一頭、大きな焦げ茶色の犬が彼女にぴったりとくっついて離れないあたり、今はその獣こそが誉れある騎士のつもりでいるのかもしれない。  よくライベルク人はまじめで働き者だと評される。実際そのとおりの国民性を示す者は多いが、そのかわり、プライベートな時間はとても大切にするし、休息をきっちりとるのが特徴だ。よってこんな早朝から出仕して働きだす臣下の姿もほとんどない。アウレリアは誰に見咎められることもなく、目的の場所までたどりつくことができた。  調練場の門に背をあずけて立つ男がひとりいる。 「おはよう、ブリッツ将軍」 「おはよう、ライベルク王」  ずば抜けてすぐれた顔立ちににやりと笑みを浮かべたのは、騎馬民族ハイナの長だった。朝からすでに派手な戦袍軍靴で身をかためているのは、このあとの練兵に備えてのことと思われる。アウレリアは弾んだ呼吸をととのえながら訊いた。 「お待たせしてしまったかな? 時間をもらいたいと頼んだのはわたしのほうだというのに、申し訳ない」 「気になさるな。もしも貴殿がおれより早くここに立たれていたなら、むしろひどくがっかりしていたところだ」 「えっ。それはなぜ?」 「朝支度に時間と手間をかけぬ女に色気はないからな」 「ブリッツ殿のあたらしい見識にはいつもおどろかされる。まさかあなたはそれを確かめるために、待ち合わせの時間をわざとこんな早朝に指定したのだろうか?」 「夜でもよかったのか? おれは目立つゆえ、まちがいなく噂話にされるぞ。うつくしい処女王が男やもめを憐れんで深夜に密会……こんなところか。おれとしては、いっそこれほどの美女が相手であれば噂であっても男冥利につきるが、貴殿の番犬に喉笛を噛みちぎられるのだけは御免こうむりたいものだ」 「おや、番犬というのはこの犬のことか? ロキというのだ。大きくてたくましくてかわいいだろう」 「名前まで似ているのか。あー、うんざりするくらいかわいいな」  高貴な少女のそばに控える犬をちらりと見て、ブリッツは肩をすくめてみせた。彼の言う番犬、というのは実際には誰のことを指しているのか、わかる人間にだけわかる比喩だ。  乱れた白金の髪を耳にかけながら、アウレリアは思わずくすくすと笑っていた。  ブリッツがすらすらと口にする言葉は彼女にとってどれも新鮮で、世間知らずな若い感性を心地よく刺激してくれる。ハイナ族は、厳格で効率主義で無駄を嫌うライベルク人とはまるで考え方がちがうようだった。それとも単に、このブリッツという男個人の奔放さとフェミニズム精神から発せられるせりふなのだろうか。 「やはり、ブリッツ殿を選んでよかった」  氷の彫刻のよう、といつも評される美貌に、薄紅色の照れくささを混ぜてアウレリアが微笑むと、さすがのブリッツも少し目を見張るものがあったらしい。  が、みじかい沈黙を少女が不審に思うよりも先に、むくりと片耳をあげた大きな犬が反応を示した。吠えるでも唸るでもないが、ふたりのあいだにふとい自分のからだを割りこませてきたのだ。磨きあげた軍靴を重い肉球に踏まれかけたブリッツは、さりげなく半歩引いて苦笑した。 「なかなか侮れんな。こやつ、あの男よりよほどしっかりしているのではないか?」 「なんのことだ? ブリッツ将軍」 「ひとりごとだ。本題に入ってくれ、ライベルク王。どういった用向きがあっておれとふたりで話したいなどと?」 「ああ……実は相談があるのだ。かまわぬだろうか」 「窮屈で固い話ならばよくないな。特にライベルクの政治あたりはまったく興味がない。場合によってはミカリーあたりに放り投げるぞ」 「ならば安心されよ。ただの小娘としてのわたしの悩みだ、どうか気楽に聞いてほしい」 「承知した。では、あー、ライベルク語ではなんというのかな? アウレリアちゃん、ブリッツおにいさんにぜんぶ言ってごらんなさい。こんなところかな?」 「ありがとう、ブリッツ殿。その、ゼキのことなのだが……」 「なるほど、恋愛相談か」  かつて数人の女の夫でもあったブリッツはからかい半分に軽く眉をあげたものだが、可憐な国王は思いがけぬほど表情を曇らせた。
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