本能の揺りかご

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「それにしても、今までだれにも話してこなかったことを告白しているというのに、おもっていたより驚いてはくれないのだな。ブリッツ将軍」 「いや、存分にぎょっとしているぞ。おれの腐れ縁の朴念仁が、あやうくふられる寸前だったということだからな」  そこで異民族の長は宙を見やり、かたちのよい唇でふしぎな詩をとなえた。アウレリアは首をかしげて訊いた。 「あなたたちの言語か。なんと仰ったのだ?」 「ハイナ族に伝わることわざというか、教訓のようなものだ。――きよらかな乙女よりおそろしいものはない。処女は男のことをなにもわかっていないからだ。じぶんが男からいかに狂おしく想われているか、まるで理解ができていないからだ。だからじぶんのきまぐれひとつだけで、残忍なほど手酷く男を遠ざけることができるのだ……と、まあこんな意味合いだな。あの森に入るまで、貴殿はまさしくそういう存在だったらしい」 「手厳しいな」 「そうならざるをえまい。今の話からしても、貴殿はゼキの心情をまるでおわかりではないようだからな。あの男は富のためでもなく名誉のためでもなく、万事貴殿への想いだけを燃料に動いているような生き物だぞ。それを取り上げられたならどうなることか。想像もしたくない。悲惨すぎる」 「ならば、かわいそうなゼキのためにもお願いしたい。あなたを恋愛上級者と見込んで。ブリッツ殿、わたしの……この道の指南役などを引き受けてくださらないだろうか」 「よかろう。ただ、あやつのためと思うと萎えてしまうからよしてくれ。ライベルク王の夢と、おれ自身の安寧のためだ」 「はい、先生」 「ふむ。あー……アウレリアちゃん。ブリッツおにいさんといっしょにお勉強がんばろうね」  どうやら教師らしい口調というものがわからなかったらしい。  思わずアウレリアは微笑んでしまったが、ブリッツは特に気にした風もなく、腕組みをほどいてハイナ流の伸びをした。うっすらと明るみを帯びはじめた早朝の空の下、飛び立つときの猛禽を思わせるしぐさだ。  そうしてあっさりと調練場の前から立ち去ろうとするので、アウレリアは意外に思った。ここに呼ばれたのも、彼が戦装束で待っていたのも、てっきりこのあと練兵かなにかがあるからだと思いこんでいたのだ。小熊を抱えたまま見上げて尋ねる。 「ブリッツ将軍、どちらへ?」 「そうだな、厩舎に行ってひととおり馬の具合を見て、そのあとゆっくり二度寝でもしようか。今日おれは非番なのでな」  驚いて、せっかくの休日を邪魔してしまったことを詫びかけるが、若き賢王はその前に気づく。――ならばなぜ彼はここにいたのか。このあと用があるわけではないということは、逆に、アウレリアよりも先にここで彼と会う約束をしていた人物がいるということではないか……?  硬直する少女の横を通りすぎ、ある程度離れたところで美丈夫は振り返った。いたずらっぽく笑っている。 「多忙なライベルク王も、公務が始まるまではもう少し時間がおありだろう。休みのおれを引っ張ってきて散々鍛練に付き合わせてくれたゼキ将軍ならまだ調練場の中に居残っているから、逢ってこられてはどうだ?」 「なんだと……」  青ざめてから赤くなって、がばりとアウレリアは立ち上がった。 「……ブリッツ殿! どういうおつもりだ、今までの話が全部ゼキに聞こえていたら、わたしは……!」 「それが一番手っ取り早くてよかったのだが、さすがに聞こえてはいまい。うしろを向かれよ」  あわてて門の陰に隠れ、そろそろとなかをのぞきこんでみる。  一見誰もいないようだが、かたわらに戻ってきたブリッツが指差す方を見ると、たしかに調練場の片隅に動く人影がひとつあった。しかしあまりに遠すぎて、アウレリアの目にはほんとうにゼキかどうかも判別できない。 「確かにこれだけ距離があれば、聞こえもしないし見えもしないか……。一応訊かせていただくが、わたしと会うことはゼキに告げておられないか」 「ああ、言っていない。とはいえあやつのことだから、ここにおれと貴殿がいるということにはちゃんと気づいているかもしれんがな」 「こわいことを仰るな。なぜそうなるのだ」 「犬は目や耳より鼻がいいだろう。ましてや大好きな主人の匂いを嗅ぎ損ねる忠犬がいるものか。なあ?」  ブリッツはそう言って、巨犬ロキの焦げ茶頭をべしべしと撫でた。ロキがふんと鼻を鳴らして離れた隙に、ぴたりとアウレリアの背中に密着する。肩に手を置き、耳朶へ唇をくっつけるようにして囁いた。 「見えるかライベルク王? ゼキは井戸のところにいる。どうやら水を使っているらしいな」 「そうなのか? 全然わからない。貴殿、よくそこまで見えるな……」 「おれは鼻よりかは目のほうに自信があるからな。では教えてやろう。ゼキは今、汗を流しているのだか服を洗っているのだか、ともかく上は全部脱いでいるぞ」 「……そ、れがどうしたというのだ」 「ん? ……ああそうか、ライベルク人はちがうのだな。いや、ハイナ族の女には、生涯の伴侶を顔や性格、血筋や生活力だのでえらぶ習慣がないのだ。もっぱらこういうふうに肉体を盗み見て判断する。見る目のある女にいわせると、怠け者だの浮気性だの散財癖だの、男のまずいところは顔よりもからだにありありと出るとのことでな。さて貴殿、これまでゼキの肌をしかと見たことはおありか?」 「あるわけがない」 「ならば、やはり機会だから近くまで行って見てこられればよい。恋愛初心者の貴殿でも、最近女に吸いつかれたり引っかかれたりしているかどうかくらいは判じられよう。ゼキに恋人がいるのかどうかとやきもきしておいでだったではないか」 「ま、待ってくれ。いやそうなのだが、でも、もしもそういう跡をゼキの肌に見つけてしまったらどうすれば? なんというか、とても立ち直れる気がしないのだが」 「たしかめる前から落ちこんだときの心配か? 貴殿はもっと自信をつけるべきだな。おれのようないい男に恋愛指南を乞うのだ、まずはそこから始めねばならん。さ、行け」  背後からやにわに、ブリッツはアウレリアの胸部へと手をつっこんだ。  そこにはアウレリアに抱えられたまま、ふたたびうとうとしかけていた子熊がいる。急にくすぐられて驚いたニキは、ブーッと鳴いて腕のなかから飛び出し、そのままころころとゼキのいる方向へと駆けていってしまった。  「あああ」と似合わぬ間抜けな悲鳴をあげて、アウレリアが子熊を追いかける。そのうしろを数歩遅れて、大きな犬のロキがのそのそと従っていく。 「……あの犬、相当の大物だが、熊のほうはいずれあれよりもはるかに大きく育つのであろうなあ」  ブリッツはそう独りごちながら、ういういしい弟子の奮闘を見守ることなく、今度こそ本当に調練場に背を向け歩き出した。 「まあ、あの熊が小さいうちはまだ、ライベルク王の命もなかなか危うくはなるまい。ゼキの理性というやっかいな牙城を崩すにはまだ足りん。その間、彼女の病にどう手を打つべきかをあれこれ考えねばならぬだろうが……うん、このあたりはおれの役目ではないな」  故郷を持たぬ騎馬民族の長が、異国の地を踏みしめながらのびやかにあくびをする。夜明けを告げる高らかな鳥の鳴き声がそれに重なった。
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