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どうにかわたしは逃げおおせた。
江戸川区から北区へと住居も移し、職場も変え、ツイッターのアカウントも変え、髪も切って服の雰囲気も変え、別人のように暮らしている。
そもそもあの男は、あの夜ですっかり冷めただろうから、追っては来ないだろうと思っている。たまたま繁華街で出会って再燃させるような場面を作らなければいいだけだろう。
わたしはただ、余計な記憶とも出くわしたくないだけだ。
わたしは記憶を埋め、その最初の一段を数えることはない。
ただ、あの廃墟の境内がわたしを守ってくれていた、そのことは覚えていたほうがいいかもしれないと思った。何を失い、何をやらかしたとしても、自分がどんな人間であったとしても、世間がどんな姿をしていたとしても、草は生い茂り、木々はざわめき、季節の香りがして、小鳥は歌う。
数えること、振り返ることに、何の意味があっただろう。
わたしはただ、足元の石段に移ろう季節を、天候を、しっかりと感じ取りながら、許されている刹那を上り続けて行こうと思った。
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