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殿下の訪れと昔話
「キャー駄目よ、お兄ちゃま、フェイが死んじゃうわ」
喉を押すアレン様の指の力が少し緩み、僕は腹筋と脚の反動を使って起き上がった。汗でへばりつく髪を掻き上げ、もう一度木刀を構える。
「リアン様、大丈夫ですから、木陰で休んでいて、ください」
ゼイゼイと上がる息を必死に整えながら、僕の前で汗一つかいていないアレン様を気持ちだけでは負けないように睨みつけた。
僕が、この屋敷にやってきてから二年が経った。僕がお願いした通り、アレン様は忙しい中でも日々鍛えてくれた。
αとΩにはこれほどの違いがあるのかと呆然とする程の明らかな差は、縮まるどころか広がる一方だった。終わりのない旅をしているようなそんな気分だ。
それでも諦めたくないのだ。もし、リアン様が襲われた時、僕が諦めたせいで彼女を失ってしまうなんてことがあったら、それこそ生きてはいけない。
「でも……」
「敵は、躊躇なんてしてくれませんよ」
「フェイ……」
あるはずもない隙を探して、諦める前に脚を動かす。それでも絶対的な強さは、揺らぐこともない。まるで巨大な岩を相手にしているようで、木刀を繰り出す度に鈍い痛みが走る。
アレンは、僕の木刀を自分の木刀にくるくると絡ませるようにして叩き落とし、視線を本館のほうへと投げかけた。
「アレン様?」
「そこまで――」
手で僕を制止し、ピクッと耳を震わせた。そこで、僕も気配に気付いた。
「父上が呼んだようだ。そろそろだとは思っていたが。リアン、おいで」
首を傾げながらやってきたリアン様は、人族だから音や気配に鈍感だ。アレン様が手を差し伸べると、わからないながらも手を上げて抱き上げられた。小柄なリアン様は、アレン様の胸ほどの身長もない。抱き上げられると、まるで娘のようだ。と言ったら、アレン様は複雑そうな顔をするので言わないけれど。
空気が、重くなったような気がした。いや、この気配は――。
離れでなく、本館の執事長が珍しくやってきたのは、デリク様の指示だろう。
「アレン!」
まだ、小さな少年の狼獣人だった。大人にはなっていない。なのに、その覇気に僕の尻尾は恐ろしく膨らみ、垂れ下がってしまった。カクッと、膝をついてしまい、駄目だと気合いをいれて立ちあがろうとしても、支える腕が震えてしまう。
失望させてしまった――。
垂れた耳は、折角僕を鍛えてくれているアレン様に申し訳なくて。僕は、αには勝てないのだと思い知った。
「アレン、どうも申し訳ないことをしたようだな」
威圧感は、アレン様やデリク様より強いというのに、少年は本当に申し訳なさそうに謝った。
「いいえ、二人はΩなので仕方がありません。どうしてもαの気配に敏感ですからね。少しだけお待ちいただけますか? トラヴィス様」
トラヴィス殿下! このエッセリーグ国の跡継ぎで、その能力は歴代の王の誰にもひけをとらないと言われている方だ。
「リアン様……」
焼けるような喉の渇きを覚え、アレン様を見上げると、リアン様がぐったりとしているのに気付いた。
「トラヴィス様、少しお時間をいただけますか? マイヤー、殿下を本館の方へお連れしてくれ」
「もちろんだ」
トラヴィス様は、気を悪くしたようでもなく、僕にも微笑みかけられた。
「ごめんね、手をかそうか?」
「い、いえ……」
「フェイ! いい加減立ちあがらないか!」
アレン様が苛立ったように声を荒げた。
「申し訳ありません」
アレン様がこんな声を出すことはあまりない。リアン様が気を失っているようだからかもしれないけれど、慌てて立ちあがった。
「フフッ、アレンが慌ててる」
少年らしくない笑いを浮かべ(とはいっても確か優秀すぎる個体は成長が遅いだけでアレン様と同い年だったはずだ)、トラヴィス様は本館の方へ戻っていった。
「来い――」
アレン様は、リアン様を片手で抱いたまま僕の手を引いた。
「はい……。リアン様は、どうされたんでしょうか」
突然倒れるなんて事、今までなかったのことだ。病気なら大変だ。
「大丈夫だ、こうなることも予想済みだ。お前も、顔が赤い。動悸もしてるようだな。今のうちに抑制剤をもう一錠飲んでおけ」
「え……」
「それが発情のサインだ」
「まさか、ちゃんと抑制剤は飲んでます」
「トラヴィス様は、ただのαとは違うようだ。あの方のαとしての気配にΩとしての本能が反応したんだろう。たまにいるんだ、特に王になる方に。成長が遅いのは、たぐいまれなその能力の証しというが、これほどまでとはな。気にするな、あれほどの覇気、αでもトラヴィス様以外にみたことはない。お前が動けなくなっても不思議じゃない」
僕が、落ち込んでいるのに気付いていたようで、慰めるようにアレン様は言った。
「抑制剤飲んでいても駄目なことがあるんですか?」
「トラヴィス様以外にというのは、考えられないが……、発情誘発剤というものある。恐れているのはそれだな。例え飲んでいてもそれを注射されれば発情してしまう。発情したΩの首筋を噛めば、番となってしまう。俺たちは、リアンに愛し愛される結婚をして欲しいと願っている」
「はい」
「出来れば、トラヴィス様の番になれればと思って、父上が招いたのだが、どうやら裏目にでたかもしれない……。また夜に話してやる。リアンと一緒にいてやってくれ」
リアン様を寝台に下ろし、僕に向き合ったアレン様の尻尾がグルグルと回っている。どうしたのだろうかと思うと、リアン様が寝ている横に押し倒された。
「え、アレン様?」
アレン様は、何かを口に含むと横に置いていた水入れから直接口に含み、僕の顎を掴んだ。無言のまま、口の間に指をいれられ開かされた。驚いている僕の口の中に自分の舌を使って錠剤を押し込んだ。それは水と一緒に入ってきて、喉の奥へと流された。
「んっ、あ……。はっ……」
合わさった口の先を舐められて、変な声が出た。
「トラヴィス様だと、俺の匂いも効かない……。わかってて、お前に触ろうとするなんて、あの人も意地が悪い。いつか仕返ししてやる」
アレン様には珍しく、子供のように憤慨している。見た目は歳が離れて見えていてもいい友人なのかもしれないと思った。
「アレン様……?」
ギュウと抱きしめられて、温かいアレン様の毛皮に包まれると条件反射のように安心してしまう。僕は、リアン様が番を見つけて、結婚してしまえばお払い箱になるというのに、この腕から離れて生きていけるのだろうかと心配になった。
「そんな心細そうな顔をするな。お前は、リアンについていればいい」
きっとアレン様は、勘違いしている。リアン様の心配をしていると思っている。
アレン様は、何故かご自身も抑制剤を一つ飲んで戻って行かれた。眠るときは、アレン様はこちらの離れでお休みだけど、跡継ぎとしての勉強もあるので最近は本館で過ごすことも多いのだ。
寂しい……、と思うのは、僕の弱さなんだろう。
リアン様は、その後で熱を出された。目が醒めるまで、側にいようと思ったけれど、夜に戻ってきたアレン様に話があると言われた。リアン様に聞かれていい話なら、そのまま話すだろうから、僕は後ろ髪を引かれながら、部屋を後にした。
アレン様が話したのは、僕が初めて聞く話だった。
予め、アレン様は、狼族の間でも秘されている、人族に関係するもののみが知ることだとおっしゃった。
「初めて獣人である狼族と人族が出会った時、妊婦、子供と老人を除いて全ての人族が発情したそうだ。その頃の獣人は、抑制剤はあまり効かないものがいくつかあって、気休め程度に飲んでいたようだ。人族は、全てがΩであり、第一の性である男と女が番って子をなしていたらしい。もちろんαなんてものはいないし、抑制剤自体がなかった。自分達に第二の性があることも知らなかったんだから無理もない」
アレン様は、そこまで言って、大きく息を吐いた。僕はΩだが、抑制剤があるお陰で普通の生活が送れている。抑制剤がなかった頃のΩは、本当に悲惨なだけの獣人生だったことは、想像に難くない。
「出会った狼族は、新しい土地を求めて旅をしていた者達で、全てがαだったんだ。人族を知らなかった狼族は驚いただろうが、まだ獣人は色々な種類がいるからな。免疫はあっただろう。人族は、獣人を全く知らなかったそうだ。獣に襲われ孕まされたと思った人族は、特に男は正気をなくし、結果かなりの数が死んだそうだ」
「なんて……」
狼族に限らず、獣人には男、女という第一の性があり、次いで成長期に現れる第二の性がある。
α、β、Ωと呼ばれる三種類で、子供を産むことができるのは、αの女、βの女、Ωの女と、Ωの男である。
全てがΩであるというのは、種族的に偏りすぎだろうと思った。第一の性だけで考えるのなら、αの女であっても子を産むことしか出来ないのか……と、気付く。αは、いなかったのだった。つまり、発情というシステム自体がなかったのだろうと予測がついた。
「大昔のことで口伝だから、そのあたりは俺も本当のことかどうかはわからない。その時の恐怖が刻み込まれたのか、人族で生まれてきたものは、狼族のαを無意識に怖がるそうだ。特に、成長し発情期が近くなれば」
「でもリアン様は、そろそろ大人になられますけど……」
「それぞれに個性があるように、人族のΩにもαをあまり怖がらない者もいるらしいが、数自体が少ないからな。どこまで本当かわからない。リアンが、αを恐れるようになれば、頼りになるのは、本当にお前だけだ、フェイ」
リアン様の家族は全て、αなのだ。僕は、自分をリアン様の盾になればいいと思っていた。けれど、盾だけでは駄目なのだと気付いた。彼女を護り、支え、家族との間を取り持つような存在にならなければいけないのだ。
「相手を定め、番う時ですら、人族は相手を恐れるんだそうだ。暴れる、噛みつくくらいですめばいいが、正気を失う者も少なくはないそうだ。正気を失わない人族の多くは、その相手と寄り添いたいという想いが強いらしい。相性というものがあるから、人族が望まない相手はやめたほうがいいと。『運命の番』を見つけた人族のみが生き残るなんていう話を、俺は大人になった時に、聞かされた。その教えてくれた人は、姉上が人族だったらしいが、正気を失ってやがて亡くなったそうだ」
立ったまま窓から外を眺め、アレン様は喋っていた。自分の愛している妹が、正気を失うかもしれないと知って、どれほどの衝撃を受けたのだろう。
頼りがいのある大きな背中はいつもと変わらないのに、何かを耐えているように見えた。 アレン様の背中に、手を置いた。
「僕も、リアン様を護ります」
今日、無様な姿を見せたばかりだけど、言葉が口をついた。
フッと、込めていた力を口から吐き出して、アレン様は笑った。
「ああ、まかせた――。フェイ……」
振り向いたアレン様は、僕の耳元に囁いた。
「あの、アレン様、耳元で囁かれると背中がゾクゾクするんですが……」
「そうか。それは悪かった。もっと近寄ればいいか」
何だか今日のアレン様はいつもと違う。気のせいかな、と見上げた僕の耳を軽く噛んだ。
「ちがっ……」
「……泣くほどいやだったのか?」
「泣いてません……」
ただ、僕のリアン様やアレン様ご家族への気持ちを、わかってもらえなかったようで悲しくなってしまっただけだ。
「お前はいつになったら……」
今日の彼は変だ。そして、僕も。
言い表せない気持ちを隠して「リアン様についています」と、僕は部屋を出た。
アレン様は、何か言いたそうにして髭を震わせ、でも止めることはなかった。
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