プロローグ

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プロローグ

「なんだΩか。まぁいい、もう少し大きくなったら娼館にでも売ってやるさ、それまでは家の仕事でもさせとけ」  母の兄という人は、大酒飲みで博打好きだった。両親が亡くなった時、連れてこられた家には、母の兄という人と、細くみすぼらしい奥さんと、嫌な目つきをした子供達がいた。  いや、最初はそんなことを思っていたわけじゃない。酒を飲み、気が大きくなれば暴力を振るうおじさんから庇おうとはしてくれないおばさんや、代わりができて良かったと笑っているいとこたちと僕は相容れることができなかった。  言葉通り、大人の儀式を済ませた後、おじさんは僕を売った。 「残念だわ、お前がいないと家事が大変」  おばさんは、そう言いながら僕を売った金をおじさんと数えていた。 「お前が娼館に行く前に俺が抱いてやってもよかったのに」  いとこは笑いながら、僕の首筋を舐めた。ゾッとした。  売られる恐怖よりもここから逃げ出せる喜びに心から笑いそうになった。けれど、ここの人間は僕が笑うと暴力を振るうから、悲しそうな顔をしながら馬車に乗った。 「君の名前は?」  僕を買った人は馬車に乗らなかった。そこにいたのは、立派な身なりをした狼族の紳士だった。その流れるような毛並みは、毎日丁寧にブラッシングしないとあらわれない輝きがあった。  同じ狼族でもこれほど違うものなのかと、驚きながら名を告げた。 「僕は。……僕はフェイです」  名前を呼ばれることなどなかったから、一瞬名前が出てこなかった。 「フェイか。今から君の勤めについて話したいことがある。君には断ることができる。ただし、払った分のお金は君からもらわなければいけないから、公平ではないな。私はずるい大人だ……」  穏やかな瞳の人だった。二年前、おじさんの家に行くまで僕が知っていた常識ある大人よりも格段に知性に溢れているような気がした。 「教えてください」 「君は、潔いな……。私は君に酷いことを言うから、心して聞いてくれ」  流れる景色は、田舎町を越えて更に進んでいった。  てっきり町の娼館に売られるのだと思っていたから、驚いた。  心して聞くようにというから、どれほど酷いことを言われるのかとドキドキしていたのだけど、その紳士が僕に提示した仕事の内容は、それほど酷いものではなかった。  沢山の獣人が暮らすエッセリーグ国は、優秀な狼族が支配する国だ。僕の住んでいた田舎は、その外れの外れにあった。この紳士は、エッセリーグ国の国王にお仕えする狼族の中でも優れた血筋の方だった。名をデリク・ファーカーと名乗った。 「私の家には、人族のΩである娘がいる。君は、人族は見たことがあるかね?」  デリク様は、僕をゴミのように見ていたあの人達と違った。訊ねる声は、僕を僕として扱うつもりがあるようだった。  まだ両親と暮らしていたころ、人族をみたことがあった。 「毛皮がないんですよね。一度見たのは、男性でした。とても優しい人で、旦那様と暮らしていました」  あのおじさんの住んでいる街よりもっと鄙びた場所で暮らしていた僕達の病気なんかをみてくれるお医者様の奥さんが人族の男性だったのだ。 「そうか、みたことがあるのならよかった。娘は、今十四歳でね。多分、大人になるのは三年くらい後になると思う。彼女の友達兼護衛になって欲しい。今は、誘拐だけを気にしていればいいのだが、彼女が大人になれば、彼女を手に入れようとする者達が増えるだろう。彼女を薬で発情させ、無理矢理番おうとする人が現れたときに、君を盾にしたい。いや、身代わりとして……、君に……」 「わかりました」  デリク様は、僕みたいな者を代わりにするのに、苦痛を感じているようだった。どうしてだろう? 余裕のある獣人っていうのは、こういうものなのだろうか。身分が明らかに劣っているものにまで心を砕くのだろうか。  いや、デリク様が特に奇特な方なのだろうと、僕は思った。  身代わりというのなら、きっとデリク様の娘を襲うαの相手をすることになるのだろう。元々娼館に売られる予定だったのだ。やることに代わりはないだろうし、この人のところにいて虐げられることもないだろうと思った。  生まれもったΩという性に苦しめられるのは同じでも、彼女はきっと高貴な生まれで、汚されたら生きていけないかもしれないのだから……。  僕の想像は、それほど間違ってはいなかった。  恋というものは、これほど苦しいものだと、思っていなかったけれど……。
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