危険

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危険

 ぼんやり歩いていると、知らない場所にたどり着いてしまった。小さな池があって、水面には水草が浮かんでいる。天気がいいから反射が眩しくて、目を細めた。  木立の中に突然現れたからビックリしたけれど、水面をそよぐ風が気持ちいい。大きな木に背を預け、力なく座りこんだ。  部屋にもどってアレン様と話さなければという気持ちと、もう一度あの凍てついた視線を浴びるのは嫌だと思う気持ちに揺れた。こんな気持ちは、おじさんの家を出てから初めてのことだった。 「アレン様、本気で怒ってたな……」  訓練以外で殴られたことなどなかった。ハーブ園に行ったのがまずかったのだろうか。それとも人助けのためとはいえ、側に寄りすぎたのだろうか。αは、他のαの気配に敏感すぎて、Ωの僕には理解しがたかった。  間違ったことをしたとは思っていない。ただ、アレン様が怒ることをしてしまったということが、心に重くのしかかった。  心の揺れが収まるのを待つために、池の上に浮かぶ花を見ていた。リアン様のような可憐な花が風に揺れている。  と、声が聞こえた。僕を呼ぶ声だ。 「まさか――」 「フェイ!! フェイ、良かった。泣いてないわね……」  驚きながらも立ちあがった僕の腕に飛び込んできた温もりは、リアン様だった。 「どうしてこんなところへ……」  ここは、トラヴィス様の棟から離れた場所だ。ぼんやりして入ってきてしまったが、これほど人がいないというのは無断で入ってはいけない場所だったのかもしれない。王宮には、住んでいる人だけが知る常識も多くて、僕にも知らないことが多い。僕だけが怒られるのならいいけれど、とばっちりでリアン様まで責められては大変なことになる。とはいえ、後ろについてきた護衛の女性が何も言わなかったのなら、大丈夫なのだろう。 「フェイがお兄様に殴られて、泣きながらどこかへ行ってしまったって聞いたから、心配で……。怪我はない?」 「怪我はありませんが……、それはこの人が?」 「ええ。ハイジ。フェイは無事だったわ」  嫌な予感しかしなかった。今日は、リアン様にとって危険な日だということはわかっているはずだ。護衛なら、危険を回避するために、聞かれもしないことなど言わないはずだ。トラヴィス様から紹介されたというβの護衛の女性は、優しげな顔をリアン様に向け、そして嗤った。  やはり……と、リアン様をとっさに後ろに庇う。 「警戒も出来ないお嬢様の護衛は、お互い苦労しますね」  ハイジは僕にそう告げ、後ろを振り向いた。木立の後ろからのっそりと現れた大きな狼獣人は、ハイジの腰を抱き「よくやった」と満足げに褒めた。 「ハイジ?」 「可愛いお嬢様。ふふっ、大丈夫ですよ。この方はとても優秀な血筋ですから、あなたもきっと気に入るでしょう」 「優秀な血筋って……」 「王家の方ですよ」  カタカタと震え始めたリアン様をこの男から逃がすことは出来ても、ハイジはβだから僕のΩのフェロモンで正気を失わせることが出来ない。迷っている暇はない。リアン様が動けなくなれば、詰んでしまうのは目に見えていた。 「あの男が、匂いを許すなんて初めてのことだ。どんないい女かと思ったら、まだ子供じゃないか……。それなら、余程こっちの男のほうが……」 「フィリップ様!」  あの男というのは、トラヴィス様のことだろう。王族ということは、トラヴィス様と血縁関係にあるはずなのに……。フィリップという名前に覚えがあった。確かトラヴィス様の実兄であるはずだ。その男が何故リアン様に……。 「はははっ、お前達の相手くらい朝飯前だ。人族は扱いが難しいらしい。ハイジ、その女を連れてこい」  女とはいえ、トラヴィス様がリアン様の護衛につけたのだから、強さは推して知るべし。護りながら、保ちこたえられるとも思えなかった。僕など警戒もしていないのは、その歩みでわかった。 「リアン様、誰かに助けを求めてください……」 「でもフェイ……」 「お願いします」  さすがに王宮で刃物を出すとも思えない。リアン様が離れてから、アレン様を呼べばいい。僕の遠吠えだとすぐ気付いてくれるはずだ。ただ、今呼べば、僕は切り捨てられ、リアン様は攫われるかもしれない。リアン様の無事が最優先だ。 「行って――!」  リアン様が走るのを背中で感じた。手を伸ばしたハイジに当て身をくらわせ、僕を排除しようと繰り出される拳を何とか避ける。 「ははっ、知っているぞ。人族は、αの覇気だけで気絶するらしいなぁ」  男の声は、弱いものを弄ぶ残酷な響きがあった。 「下種が――」 「ああ。お前はアレンの匂いがする。あの冷徹な男のものか……。あいつが泡を噴く姿がみられるのなら、あの女は見逃してもいいかもな――」  僕と組み合っているハイジを邪魔だとばかりに横に突き飛ばし、フィリップは僕の手首を掴んだ。ギリギリと締め付けられる手首は、折れるんじゃないかと思うほど痛い。 「あっ……!」 「はははっ、いい声で啼く――。Ωなら身体も丈夫だ。βのように加減する必要もない。思うさま下から突き上げてやろうか? アレンはどんな風にお前を抱く? まだ番ではないということは、お前も遊ばれているだけだ。あんな性格の悪い男はやめておけ。俺ならいくらでも可愛がってやるぞ」  項をガードするための首輪の横に、フィリップは鋭い牙を突き立てた。番にするためのものではない。わざと外したのは、敏感なそこを痛めつけるためだ。 「がぁあああ――!……っうう……」  痛みのせいか視界にチカチカと赤い光が点滅した。  リアン様が、必死に駆けても、すぐに追いつかれるだろうことはわかっている。それでも少しだけ時間を稼げたら……。 「誰か! 誰か助けて――!」  リアン様のか細い声が、僕の方を見て震えながら叫ぶ。  いいから、僕のことは気にしないで逃げて欲しい。 「はははっ、その人族のために悲鳴も抑えるか――。面白い」  噛みついていた僕を放り出し、フィリップはリアン様を捕まえるために歩き出した。ハイジは、突き飛ばされてから一度も立ちあがらない。見上げている顔は、呆然としているように見えた。もしかしたら、彼女の前では偽っていたのかもしれない。 「僕の愛しい花を……、散らせてたまるか!」  フィリップの脹(ふくら)ら脛(はぎ)をめがけて、僕はポケットの中にいつも常備していた発情誘発剤を刺した。それは、緊急の時用に作られていて、ボタンを押せば針がでて、そこに塗られた強力な薬剤は、錠剤の何倍ものスピードで効くはずだ。後は、もう一本を僕に打てばいい。リアン様の無事を見届けてからと言っている余裕はない。 「何を刺した――?」 「僕を抱けばいい……」  フィリップの目は、あっという間に燃え立つような情動を抑えるために真剣なものに変わる。今までの飄々とした姿が嘘のようだ。  獣人は絶対に自分の抑制剤を持っている。慌てて取り出して打ったけれど、僕の持っていた誘発剤は特別製で、抑制剤など効きはしない。  もう一つを取り出し、自分に打とうとした僕の手をフィリップが払い、飛んだ誘発剤をハイジが拾う。 「もういい――。ハイジ、それをあの女に打て。道連れだ……。あの女にこれを打てば……」 「やめろ――っ!」  取り返そうとした僕の掌を針が掠めた。 「フィリップ様がご所望だ。二人して相手をすれば、喜ぶだろう……」 「あなたは、フィリップに騙されていたんじゃ……」 「トラヴィス様を裏切った私には、もう道など残されていない」 「だからって、人を、リアン様を巻き込むな!」  ハイジは、うっすらと嗤った。 「蝶よ、花よと育てられている彼女を側で見ていて、身代わりとして身を差し出せと命令をされて……お前はよく平気だな……」 「リアン様が悪いわけじゃ……」 「もう匂い始めている。お前は、まさしく獣と化したフィリップ様の相手をしていればいい……」  ハイジが走るのを、発情で身体が熱くなり思うように動かせない僕には、止めることが出来なかった。フィリップに騙されたと気付いて、諦めてくれたと思ったのに、考えが甘かった。ハイジを仕留めてから、打つべきだったのだ。 「リアン様……。逃げて――……」  太い手で押し倒され、息の荒いフィリップの下敷きになった僕に、もうリアン様を助ける術はなかった。  リアン様が必死に逃げるその先に、白い獣が舞い降りた。木から降りたその獣人は、リアン様に今にも追いつこうとしていたハイジを殴りつけた。 「雪、豹……」  あの獣人は、劇団の……。ああ、良かった。リアン様は、無事だ――。彼女のαの覇気を感じて、気を失ったとしても発情さえしなければ……。もう、助けを呼んでも……いいですよね。  破られていく服の欠片を握りしめて、僕はアレン様を呼んだ。 「ヲォォォォン――……」  背後から覆い被さってくるフィリップの吐息に、Ωの身体が反応する。  いやだ……っ、嫌……。アレン様……。 「やめ……ろ」  振り向きざまに爪を突き立てた。フィリップの額に三本の線が走り、赤い雫が零れる。だが、発情し、正気を失っているフィリップは、気にすることもなく、僕の脚を持ち上げた。  脚をバタつかせ、蹴りを繰り出しても、元々大きな個体であるフィリップには効かない。 「殺していいか?」 「駄目――」  一切の感情を押し殺したような声が訊ね、聞かれた相手は慌てて制止した。 「なら、半殺しだ――」  男の身体が吹っ飛ぶのが見えた。正気に戻らなくても、今まさに獲物を取り上げられた然のフィリップは、獣形でアレン様にかかっていった。 「アレン様……」 「王に挑むときと、番を巡って戦う時だけ、αは獣形で戦う――」  トラヴィス様は僕を抱き起こして、そう言った。  駄目だ、トラヴィス様が触られた場所が熱い――。どうしよう……、身体が疼く……。Ωの身体は、αなら誰でもいいのかと自分に失望してしまう。 「ああっ、そんな蕩けた目で私をみちゃだめだよ。後で、アレンにお仕置きされるよ」 「あ……っ」  掛かった息で、身体が敏感に跳ねた。強いαであるトラヴィス様を誘っているのだろうか。大人でないトラヴィス様にすら、反応する身体を縮め自分の腕で抱いた。 「強い薬だね。リアン嬢は、助けたよ。といっても雪豹の獣人が助けてくれていた。どうもあの人は、リアン嬢の運命のようだ」  リアン様は、無事……。良かった……。護れたんだ。 「苦し……っい……」  沢山αがいて、しかも発情しているせいか僕の身体はおかしくなっていく。 「薬が全部効かなかったようだね。だから意識が少し残っていて、辛そうだ。アレンが勝ったら、楽にしてもらえるから、少しだけ待ってね」 「やぅ、ああっ……、苦し……。アレン様……アレ……ン様……」  白く濁る意識の中で、アレン様を呼んだ。今は、呼んじゃいけないってわかっているのに、辛くて、苦しくて……。助けてくれるのは、きっとアレン様だけだ。 「待たせたな。よくやった……。愛してる……」  声が、聞こえた。待ち望んでいた声は優しくて、最後は幻聴まで聞こえた。
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